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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

2015-01-01から1年間の記事一覧

『政宗記』3-7:黒川月舟晴氏逆心附弾正気遣

『政宗記』3-7:黒川晴氏の裏切りと弾正への気配り 原文 されば伊達へ晴氏逆心の子細をいかにと申すに、其昔月舟伯父に黒川式部と云けん者を、輝宗代々月舟方より奉公に差上けり。爾るを信夫郡飯坂城主右近、右の式部を聟にして名代を譲らんと云契約也。爾り…

『政宗記』3-6:氏家弾正忠節の事

『政宗記』3-6:氏家弾正の内応のこと 原文 去程に義隆へ刑部一党訴訟の旨を弾正聞て、「安からざること也、返忠の徒党共逆意のときは、某一人思詰名生に於いて籠城ならば、岩出山より取移し、滅亡の御供こそ思ひしに、今又我を退治とは移れば替る世の習ひ、…

『政宗記』3-5:大崎陣之事

『政宗記』3-5:大崎での戦のこと 原文 同十四年七月、政宗仙道の軍募りて四本松二本松迄で手に入玉ひ、八月始めに米沢に帰陣し給ふ。然る処に大崎義隆の家中二つに分り政宗へ申寄、其根本を如何にと申すに、其頃義隆へ拒障上の新田刑部と云、双びなき義隆崇…

最近のTV番組2015秋

最近政宗がらみ、伊達家がらみのテレビ番組が立て続けにいくつかありましたので、その概要と感想をば。 BSTBS 『にっぽん歴史鑑定』20150907放送 「伊達政宗は何故天下をとれなかったのか?」 (番組サイト)何故天下を取れなかったのか?ということで、政宗…

【新聞】政宗は絵も得意だった!?

今日の新聞で出ていたそうです。www.kahoku.co.jp 政宗って絵は描かなかったのかね〜?というのはよく話題になることなのですが、あんまり残っていないことから、やらなかったのではないか(実際に自分で描いていて、上手かったならば、自信満々でがんがん描…

2015秋登米涌谷仙台亘理

10/16~18でした 今年は、初夏に宮城と福島(郡山&会津)行く予定だったんですが、台風接近のため泣く泣く福島のみにし、仙台はキャンセルしました。それがとってもとっても口惜しかったので、秋にリベンジ!(≧∀≦) 夜行バスで仙台に着き、本屋で買い損ねてい…

『政宗記』7-12:須田訴人事

『政宗記』7-12:須田伯耆の訴え 原文 かかりけるに、氏郷大崎へ働き出名生の城を攻落し、松森へ引上給へば、政宗家に須田伯耆と云いける者、何と気遣ひけるやらん、蒲生四郎兵衛と云氏郷家老者を頼み、「今度一揆へ政宗も内通して、已に氏郷を討果さんと云…

『政宗記』7-11:秀吉公奥州下向附大崎・葛西一揆事

『政宗記』7-11:秀吉公の奥州下向と大崎葛西一揆のこと 原文 去ば秀吉公、北条氏政へ「其方自害ならば、子息氏尚をば出城させん」と宣ふ。故に氏政切腹し給ひ、小田原一宇落居の上、秀吉公会津へ下向し給ふ事、其聞こへに依て、政宗米沢より御迎に出給ひ、…

『政宗記』7-10:会津より米沢へ本意の事

『政宗記』7-10:会津から米沢へお帰りになられたこと 原文 去程に、政宗下向の刻、浅野弾正少弼の親類に、同苗六右衛門と申せし人を差副、会津を受取御検使にて下り給ふ故に、六右衛門を様々馳走し給ひ、会津を渡し御身は本の米沢へ移し給へり。然るに、大…

『政宗記』7-9:底倉矢田野欠落

『政宗記』7-9:底倉での矢田野の脱走 原文 仙道岩瀬の郡矢田野の城主、伊豆は須賀川へ一味たりと云ども、右にも申す彼地落城以来は、政宗へ懇望いたし、城の矢田野と大里と云両城ともに差上、本領三ケ一に成て会津に相詰奉公の筈也。故に矢田野をば破却し給…

『政宗記』7-8:会津にて騒げる事附平田忠節

『政宗記』7-8:会津にて騒動があったことと、平田の内応 原文 かかりける処に、小田原留主の内に、三夜程会津中以の外騒ぎける由、成実は其事存ぜぬ処に、宝尺と云山伏、成実に語りけるは、「会津騒ぎ夜に入ければ、方々へ荷物を隠し、昼の商も好物をば出さ…

『政宗記』7-7:秀吉公へ御目見の事

『政宗記』7-7:秀吉公へ面会なされたこと 原文 然れば秀吉公、御陣場は小田原一宇目の下なる山也。然るに、彼の山を要害に取立、石垣を仰せ付らる。故に御身も曲隶に腰を掛られ、扨御前には家康・利家を始め、各諸大名衆詰られける。其場に於て、政宗御礼仕…

『政宗記』7-6:太閤秀吉公小田原御発向

『政宗記』7-6:太閤秀吉が小田原に向かい出発したこと 原文 去程に主君信長公への謀反人、明智日向守を討随ひ、其天命を以て四国・鎮西・中国に至る迄残りなく治め、天下を掌の中に握り給ひし上は、今より関東、夫より陸奥国へと志し、天正十八年に小田原北…

2015初夏郡山会津若松

台風のせいで…orz 本当は宮城での独眼竜花嫁道中関連の公開収録のために7/17から行って、18日宮城をぶらぶらして、19を郡山・20を会津若松で行こうと思ったのですが、あいにく台風11号が直撃したため、移動が危険な感じになり、泣く泣く17・18を諦めました。…

御無沙汰しておりましてスミマセン

ちょっと仕事やら私事やらで、長期間御無沙汰しておりましてどうもすみません。 7月の連休、また福島あたりを巡礼しに行く予定です。 今回は会津若松にやっと行けるかな? でも伊達時代のものはほぼ残っていないという事ですので、蒲生氏郷の遺した麟閣とか…

『政宗記』7-5:政宗敵対給大将衆の事

『政宗記』7-5:政宗と敵対なさった大将のこと 原文 一 佐竹義重は、新羅三郎の末、政宗へは伯母聟なれども、敵対給へり。扨太閤秀吉公の御時は、死去にて、家督義宣関ヶ原の御軍に、石田へ一味に依て、身代僅十八万石に成、佐竹より出羽秋田へ国替なり。 一…

『政宗記』7-4:会津にて政宗越年の事

『政宗記』7-4:政宗が会津にて年を越したこと 原文 天正十七年六月、政宗二十三歳の歳、会津へ所地入其暮の越年に、譜代幷会津・仙道の新参衆、残りなく相詰祝儀を申し納め、由々敷正月斜ならず。同十四日には、嘉例の謡始乱舞の上、例年の如く自身の酌にて…

『政宗記』7-3:政宗関東望附岩城武略事

『政宗記』7-3:政宗が関東侵略を望んだことと岩城の攻略 原文 されば、会津・仙道残りなく治め給へば、来春には佐竹へ馬を出すべきため、先岩城へ武略をし給ひけり。是に仍て岩城の臣下志賀閑長と云ける者へ、片倉景綱書状を以て、「累年岩城は隔て給ふ御中…

『政宗記』7-2:須賀川合戦附落城

『政宗記』7-2:須賀川の合戦とその落城 原文 明ければ二十六日の寅の刻より、須賀川へ押寄給ふ。兼て伊達の備定めを今度は引替、須賀川よりの降参衆先陣にて夫へ、会津新参へ譜代衆を取加え、各西の原に陣を取る。政宗は家老の者共、其外四五十騎召連、八幡…

『政宗記』7-1:須賀川陣事

『政宗記』7-1:須賀川の戦のこと 原文 去程に天正十七年己丑六月、会津をば思ひの儘に治め、在城となる。然りと云ども、須賀川は未だ敵対給ふ。其子細をいかにと申すに、城主盛行死去たりと云ども、盛行の後室政宗へ恨を含み、彼城を踏へ佐竹・岩城を頼み給…

『政宗記』8-9:伏見出御附御最後

『政宗記』8-9:秀次の伏見出発とその最期 原文 去ば秀次公、聚楽を出御有て東福寺辺を御行給へば、大谷刑部少輔・増田右衛門尉出向奉り、御奥近ふ伺公して、「伏見にては以ての外なる御立腹也、此儘直に出御ならば、已に御命も危ふ覚へ候。申し兼たる御事な…

『政宗記』8-8:関白乱事

『政宗記』8-8:関白秀次事件 原文 去程に太閤、聚楽をば、関白公へゆづり、御身は大坂・伏見の両城懸ておはしけるが、爰に近江国浅井備前守の息女、其頃天下にかくれなき美女におはす事聞給ひ、天正の比彼息女を密に迎ひ取、淀の渡りに新殿を構へ、淀の御所…

『政宗記』8-7:名護屋御帰朝事

『政宗記』8-7:秀吉が名護屋からお帰りになったこと 原文 同八月、秀吉公御帰朝たりと云ども、四国・鎮西衆は未高麗に在陣して、釜山海近所に要害を三つ取立給ひ、其普請致せと上意也。扨中国より京東の大身計り、同年の九月に帰朝し給ふ。かかりけるに、秀…

『政宗記』8-6:赤国合戦附政宗御感状

『政宗記』8-6:赤国合戦と政宗が感状を貰ったこと 原文 されば、去年壬辰に、四国・鎮西・中国の大身衆、黄海道・平安道・夷蘇海道・をらんかい迄斬随ひ、高麗人ども手と身に成て逃散ければ、其飯米を取て、今年癸巳四月迄は、各在陣なれども、其後我朝より…

『政宗記』8-5:高麗立之事

『政宗記』8-5:高麗へ出発のこと 原文 文禄二年癸巳正月、秀吉公当三月より、政宗・弾正父子渡海致せと上意に付て、同三月十五日より、船中へは入給へ共、日和悪くて、二十二日迄名護屋間に掛て順風を待給ふ。二十三日に順風なれば、壱岐の風本迄乗着給へり…

『政宗記』8-4:名護屋喧嘩事

『政宗記』8-4:名護屋での喧嘩のこと(家康公利家衆水汲、名護屋に於いて喧嘩のこと) 原文 抑、其節喧嘩の起りは何事ぞと申すに、誠に纔の事也。子細は其年の六月に至て、あつかりけるに、家康公の陣場の下に清水の出けるを、筑前殿陣場も一二町も隔つべき…

『政宗記』8-3:政宗都立事

『政宗記』8-3:政宗が都を出立したこと 原文 去程に、其年天正は改元して、文禄と成たれば、政宗岩出山を立給ふに、屋代勘解由を領分一宇留主居と守め、さて御身は同元年壬辰正月九日に、在城を打立黒川へ着、七つ森にて鹿猟をし給ふ。かかりけるに、大崎・…

『政宗記』8-2:関白公奥州御下向

『政宗記』8-2:関白秀次公の奥州への下向 原文 太閤秀吉公、奥州会津より上り給ひし後は、関白秀次公下り給ふ。是に付きて政宗、大崎より御迎に登られけるが、葛西大崎の本侍今度一揆降参の輩、秀次公御下向なるに、面々居ながら御訴訟は更に似合わず、只、…

『政宗記』8-1:政宗上洛之事

『政宗記』8-1:政宗上洛のこと 原文 されば其比政宗上洛し給ひ、秀吉公へ御礼申し好るべしとて、上方より一左右なり。爾るに、浅野弾正少弼は其頃迄、未だ二本松に御坐す。故に、其旨弾正少弼へ問合せ給へば、「登り給ひて然るべし」といへり。其故に在城米…

『政宗記』9-6:政宗家来共取立給ふ事

『政宗記』9-6:政宗が家来たちを取り立てなさった事 原文 去ば若年より以来、我一代に家来共を取立、召仕ひ給ふ者ども、愚かなること一人もなし。其謂れを申すに、石母田大膳(宗頼)・中島監物(意成)・茂庭石見(綱元)・片倉小十郎(景綱)・山岡志摩(…