[sd-script]

伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『成実記』15:人取橋合戦

『成実記』15:人取橋合戦

原文

一、霜月十日ごろ。佐竹義重公・会津義広公・岩城常隆公・石川昭光公・白河義近公。仰合され、須加川へ御出馬成られ。安積表に伊達御奉公の城々へ御働成られ。中村と申候城御せめ落城仕候。右之通俄に小浜へ申来候に付。政宗公岩角へ御出馬成られ。高倉へは富塚近江・桑折摂津守・伊藤肥前。御旗本鉄砲三百挺差籠られ候。本宮城へは瀬上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衛。相籠られ候。玉井城へは白石若狭・我等事は二本松籠城に候間。八丁目之抱のため。渋川と申城に差置かれ候か。小浜在陣申衆何れも無人数に候間。早々参るべき由御状下され候條。渋川人数過半相残候而。塩松へ廻り小浜へ参り候処。はやはや御出馬成られ候。小浜の御留守にも御人数差置かれず候間。我等人数を残し申すべき候由仰置かれ候に付。青木備前・内馬場日向馬士三十騎程残し。岩角に於て御目見得仕候へば。御意には前田沢兵部も身を持替。会津奉公致し候間定而明日は。高倉か本宮へ働かすべき候間。罷通るべき由仰せられ候條。ぬか沢と申所に其夜在陣申。彼前田沢兵部は。旧二本松奉公之者に而。義継切腹之砌伊達へ御奉公仕候儀。佐竹殿出陣に付又違変申候。同月十六日前田沢南の原に。敵の陣を懸候定而高倉へ之働きに之在べき由。申来候に付政宗公も岩角より本宮へ御移成られ。本宮其ころは只今之町場。畑にて人居も之無く少川流之処。外やらひにて内町斗人居候。高倉へ差働くべき由申に付。助之衆の為に本宮へ人数観音堂へ打上。見合次第に高倉へ助入べし。高倉の海道山下に備を相立候。敵五十騎余に而三筋に押通候間。高倉に籠之衆申事には。本宮御無人数に而候間。人数を出し抱留候而見度由申され。成間敷と申され候衆も候得共。富塚近江・伊藤肥前申様には縦押入られ候へども本宮へ通候人数。留り申すべく候はば苦しからぬ由。両人申人数を出候処。其ごとく敵を押縮め候処。岩城之衆入替候而押籠候間。両小口へ追入られ二三十人討たれ候。敵の人数大勢故前田沢より押候人数は。観音堂より出候衆と戦候。又荒井を押候人数は。我等との合戦両口に而候。不合戦前下郡山内記我等備候向に。少高山之所へ乗上見候得ば。白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐。三人之差物見候得ば。馬上六七騎足軽百四五十斗に而。本宮への方高倉より参候。其跡に大勢人数参候敵とは存ぜず。扨又何者と疑ひ去乍ら敵と味方との境之様に見得。其間一丁余隔候間。不審と存候而見候得ば。其間に而鉄砲一ツうち候間。扨は敵味方之境之由存候而。乗返し山上より敵是まで参候。小旗をさせさせと呼候間。其時小旗をさし相待候所。若狭・伊豆・壱岐我等まとゐへ翔込。直々御旗元へ罷通られ候。観音堂より此人数太田原に備候処。敵大軍故こたへ候事成らず敗軍候而。観音堂を押下され御旗元近まで退還候。茂庭佐月を始めとして五十余人討たれ候。左月は験捕られず候。伊達元安同美濃・同上野・同彦九郎・原田左馬介・片倉小十郎。始として歴々衆相こたへ候故。大敗軍は之無き候より我等備は。味方は一人も続かず左は大川にて。七丁余敵の後に成候。我等十八歳に而何之見当も之無き処。下郡山内記我等に馬を乗懸而。馬の上より我等小旗を抜。観音堂の衆崩押切られ候間。早々除候へと申候て。小旗を歩候者に渡す我等思ひ候は。相除候ても討たれるべく候間。爰に而討死仕るべき由存引除かず候。然ば敵より自石若狭・高倉壱岐・浜田伊豆。三人を追立候而敵山の下迄参候間。我等人数を放懸候得ば。敵相除候爰に伊羽野遠江とて。七十三に罷成大功之者候が。真先に乗入敵両人に物討致し。一人内之者に首を取らさせ。山の南さがり五丁斗橋詰迄敵を追下候処。橋に而敵押返又味方山へ追上られ候処。羽田右馬助敵味方之境を。乗分乗分崩さぬ様に。馬を立まわしまわし相除候得者。鎗持一人進出右馬助をつき候処を。取て返し候につきはづし前へ走懸候を。右馬介一太刀に物付仕。其者も家中之ものに討たせられ。其身の家中も一人討たれ相除候て。本合之始り所へ又追付られ候。又夫より返し候て鉄砲大将・萱場源兵衛・牛坂右近両人。敵之真中へ乗入。馬上二騎充物付を仕候得共。具足之上に而通さず候哉。敵除口なり又本の橋本迄追下候て。北下野馬を立候処に。歩之者走参新介馬をつき候間。新介も罷り成らず引除候処に。味方除口に成候。伊羽野遠江味方崩れぬ様にと殿をいたし。取て返し余り味方に離候。其日は甲着候而は老人目見えずとて。すつふりにて罷出候故。敵乗懸あたまを二太刀切候間。こらひ候事成らず引除候。味方夫より又本之処へ追付けられ候。左候得ば観音堂も武別仕候間。敵引揚候我等も押さず。添人数を引廻打揚武別致す。観音堂は誰々如何様に仕候も。別筋に候間存ぜず候。遠江は罷帰相果候。不思議之天道を以一芝居も捕られず。観音堂同前武別致し候。敗軍は申さず候得共我等家中覚之者。伊羽野遠江・北下野を始めとし討捕られ候。敵の首も九討捕候。合戦の様子細には記さず候。あらあら書付候。観音堂の敵引揚候間。我等備は味方へ引添申候。其後観音堂へ敵備を上。高倉之海道川切に備を帰し候間。一戦之有るべき歟と存候処。政宗公御備五六丁程隔候故歟。何事無く打揚候此方之人数も御無人数故。押添えず彼下郡山内記と申者は。旧輝宗公へ御近御奉公申。相馬御弓箭の時分鉄砲大将仰せ付けられ度々の覚を仕候。其頃御勘当に而我等を頼みまとゐに居申候。其日も味方おくれ候時は。馬を立廻立廻味方の力に成。敵を押返候時は最前に乗入。敵に両度物付を仕家中に首をとらせ申候而。比類なくかせぎを仕候。<<

語句・地名など

人居(じんきょ/ひとい):人の住んでいるところ、人が住むこと
橋詰(はしづめ):橋のたもと

現代語訳

一、霜月の10日頃、佐竹義重公・会津義弘公・岩城常隆公・石川昭光公・白河義近公が話し合わせて須賀川へ出陣され、安積方面の伊達に仕えている各城に戦闘を仕掛けられました。中村という城が攻め落とされました。このとおり、急に小浜へ知らせが来たので、政宗公は岩角へ出馬され、高倉には富塚近江・桑折摂津守・伊藤肥前に旗本衆鉄砲300挺を置かれました。本宮城には瀬上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衛を入れられました。玉の井城へは白石若狭を、私は二本松が籠城していたため、八丁目の支配範囲ないにある渋川という城に差し置かれましたでしょうか。
小浜に在陣した者たちはいずれも少人数であったため、早く来るようにと書状をくだされたので、渋川の勢をほとんど残し、塩の松へ回って、小浜へ参上いたしました。すばやくお出になられました。小浜の留守居にもあまり人が置かれなかったので、私の手勢を残しておくよう仰せになったので、青木備前・内馬場日向ら、馬侍30騎程を残しました。
岩角にて面会したところ、仰ったのは、前田沢兵部も裏切り、会津に寝返ったので、明日はきっと高倉か本宮へ戦を仕掛けるだろうから、行くようにと仰せられたので、糠沢というところに私はその夜在陣しました。
この前田沢兵部という男は、もともと二本松に仕えていた者で、義継が切腹したときに伊達に仕える様になった者でした。佐竹殿の出陣をしり、願ったのです。
同月16日前田沢は南の原に敵の陣を敷いていたので、きっと高倉へ戦闘を仕掛けるであろうと言って送ったので、政宗公は岩角から本宮へお移りになられました。
本宮はその頃は、いまの町場は畑であり、人の住むところもなく、川の流れも少ないところでした。外に矢来があり、内の待ちにだけ人が住んでいました。
高倉へ攻めかけるべきであることを申し上げたところ、援軍のために本宮に手勢を観音堂へ上らせ、様子を見て高倉へ援軍するようにと、高倉の街道の山の下に備えを立てました。敵は50騎あまりで、3つの筋に押し通ってきたので、高倉に籠もっていた者たちがいうには、本宮の手勢が少ないので、軍勢を出して留めておきたいと言ってきたので、それはしてはならないという人々もいたが、富塚近江・伊藤肥前は「たとえ押し入られたとしても本宮へ通る人数を留めるようにするならば、大丈夫ではないかと言ったので、二人が言う手勢を出したところ、その通り、敵を推し縮めることができた。
岩城の衆を入れ替えて押し込めたので、二つの小口へ押し入られて、2,30人が打たれた。敵の軍勢が多かったので、前田沢から出てきた軍勢は観音堂より出てきた軍勢と戦になった。また、荒井をせめていた軍勢は私との合戦となり、両口の戦となった。
合戦になるまえ、下郡山内記と私の備えの向こうに、高い山の少ないところに乗り上げて見てみると、白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐、3人の差物が見えたので、馬上を6,7騎、足軽140~50騎だけであったので、本宮の方へ高倉より参じた。その後に大勢軍勢がきたが、敵とは思えず、さて何者であろうかと疑い、しかしながら、敵と味方の境のように見えた。その間は一丁あまり隔てていたので、怪しいと思って見たところ、その間にて鉄砲を一発撃った。さては敵味方の境であると思ったので、乗りかえし、山の上から敵がこちらまで来た。
小旗を差せ、差せと呼ぶのが聞こえたので、そのとき小旗を差し、待ち構えていた。
すると、若狭・伊豆・壱岐が私の円居へ駆け込んできて、直接政宗の旗の下に通っていった。
観音堂から軍勢が太田原に備えたが、敵が大軍であったため、応えることができず、敗軍した。観音堂を押しくだされ、政宗の旗のそば近くまで知り沿いた。茂庭左月を始めとして、50人あまりが打たれた。左月の首は捕られずに済んだ。伊達元安同美濃・同上野・同彦九郎・原田左馬助・片倉小十郎をはじめとして、名だたる武将たちが抗戦していたので、大きな敗走はなかった。私の備えは、味方は一人も居らず、左は大川であったので、七丁ほど敵の後ろになっていた。
私は18歳で、何の見当もなかったのだが、下郡山内記は私に馬を乗り掛けて、馬の上から私の小旗を抜いた。観音堂の勢が崩れ、押し切られたので、早く退きなさいと言って、小旗を徒の者に渡した。私は退いたとしても、きっと討たれるだろうから、ここで討死にしてやろうと思ったので、退くことはしなかった。
すると敵から白石若狭・高倉壱岐・浜田伊豆の3人を追いたて、敵は山の下まで迫ってきた。私の手勢を放し、取り掛けさせたところ、敵は退いた。このとき、伊場野遠江という73になる大きな功労を上げてきた者が、真っ先に乗り入れ、敵2人に取り付くかかり、1人の者の首を取らせた。山の南を下がり、5丁ほど橋のたもとまで敵を追い下し、橋のところで敵を追い返し、また味方を山へ押し上げた。羽田右馬介は敵味方の境を乗り分け乗り分けて、くずさぬように、馬を立ち廻して敵を退けさせた。槍持ち1人が進んで出て右馬介を突いたので、取って返し、外して前へ走りかかったのを、右馬介は一太刀でそれを斃した。その者も家中の者に討たせた。その家中も1人討たれそれぞれ退いたところ、本合戦がはじまったところへ、また追いつけた。またそれから帰ってきて、鉄砲大将の萱場源兵衛・牛坂右近の2人が敵の真ん中へ乗り入れ、馬上2騎にむけてとりかかったのだが、鎧の上であったから通らなかったのだろうか。
敵は退却してまたもとの橋のたもとまで追い下って、北下野馬を立てたところに、徒の者走ってきて、馬を突いたので、新介もならず、退いたのである。味方がまた退却しなくてはいけないかということになった。伊場野遠江は味方が崩れないようにとしんがりを務めた、取って返しすぎたため、味方と離れてしまった。其日は甲冑を着たら、老人は目が見えないと言って、兜をかぶらずに出陣していた。
敵は乗りかかり、頭を二太刀切ったので、堪えることができず、退却した。味方はそれからまた元のところへ追い詰められた。すると、観音堂も戦闘が終了したので、敵は引き上げ、私も押さず、添えられた軍勢を集めて戦を終えた。
観音堂はどのようになったかということも、道が違ったので、わからなかった。伊場野遠江は戻ってきて事切れた。不思議な天の摂理によって、一つの場所も取られず、観音堂と同じように戦闘終了となったが、負けはしなかったが、私の家中の名に覚えのある者も、伊場野遠江・北下野をはじめとして討ち取られた。敵の首も9討ち取った。合戦の様子を詳しく記述することはせず、ざっと書き付ける。
観音堂の敵が引き上げたので、私の備えは味方へ付けた。その後敵は観音堂へ備えを上げ、高倉の街道の川のそばに備え戻したので、また一戦在るだろうかと思い、政宗公の備えも5,6丁ほど隔てていたからだろうか。何ごともなく、引き上げた。こちらの人数もあまり多くはなかったので、追いかける事もできなかった。
この下郡山内記という者は、もともと輝宗公に近く仕えていたものである。相馬との合戦のとき、鉄砲大将を命じられ、たびたび活躍していた。その後政宗から不興をかって私を頼って軍に居たものである。その日も味方が遅れたときは馬を立ち廻し立ち廻しして味方の力となり、敵を押し返すときは一番前に乗り入れ、敵に2度つかみかかり、家中の者に首を取らせるという比べる者のない活躍を見せた。

感想

本宮合戦——のちに人取橋合戦と呼ばれるようになる戦の様子です。
伊達家全体では茂庭左月良直の活躍と死が有名ですが、成実の家中にも伊場野遠江という老人がいて、兜をかぶらずに戦い、敗死したことが書かれています。
伊場野以下、家中の者たちの活躍を詳しく書いているところが成実らしいなと思います。
下郡山内記もそうですが、本家(政宗)から勘気を蒙り、首になった人たちが大森・亘理伊達家へ流れてくるケースがわりと多くておもしろいです。