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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『正宗公軍記』2-6:玉の井へ敵地より草を入れ候事

『正宗公軍記』2-6:玉の井へ敵地から草を入れたこと

原文

天正十六年三月十二三日の頃、成実抱の地、玉の井と申す所に、高玉より山際に付いて、西原と申して四五里、玉の井より隔て候所へ、はい草を越し候所に、玉の井の者共、兵儀なく遠追ひ候て、罷出で候を見申し候間、押切を置き、討取り申すべきたくみ仕り、三月三日*1に、玉の井近所高玉への山際に、御座候矢沢と申す所へ、草を仕るべき由相談に候。其地までは、大内備前・助右衛門も御奉公には究り候へども、味方への手切は申されざる時に候間、片平・阿古ケ島の人数、高玉へ廿二日の晩に相詰め候。兼ねて敵地に申合せ候て、草入れ候はば、告げ申すべき由申合せ、差置き候もの、廿二日の晩、本宮へ参り候て、今夜玉の井へ草入れ候由、告げ申し候に付いて、我等も罷出で、本宮・玉の井の人数を以て、廿二日の朝、草さがしと申し候所に、草も参らず候間、偽を申し候やと申し候て、引籠り申し候所に、昼ばひに二三十人、玉の井近所迄参り候間、出合せ二三十人の者引上げ候間、台渡戸と申す所にて追付き合戦仕り候。前廉、遠山を見申し候間、矢沢の小森の蔭に、人数二百程隠し置き、そろそろと退口になり候。玉の井の者共、敵の足並悪しき由存じ候て、強く懸り候間、敵、崩れ候て足並を出し退き候。押切の者共、待兼ね候て、早く出で候間、押切らず候へども、味方崩れ合戦始まり候。川迄押付けられ候て、二三人討たれ候。味方、川にて相返し候所に、高玉太郎右衛門、敵味方の間に、馬を横に乗り候間、志賀三之介と申す者、我等歩小姓、兼ねて鉄炮を能く打ち申す者に候。川柳に鉄炮打懸け、相待ち申す所へ、太郎右衛門、小き川一つ隔てて、横に馬乗通し候所を、二つ玉にて打ち候間、一つの玉は馬の眉の揉合に当り、一つは太郎右衛門臑に当る。則ち馬を打返し候。夫を競にて懸り候間、敵も則ち引退き候。太田主膳と申し候て、大切の者に候。殿を仕り引退き候間、敵も崩は申さず候。小坂を乗上げ候を、又三之助、上矢に後の輪を打懸け、二つ玉にていぬこ所を打出し、主膳、うつむきになり、其身小旗を抜き、弟采女にささせ、我等必ず崩るべく候間、其身相違なく、主膳に成替り、殿を仕り、物別させ候へと申付け、引退き候て、頓て死去申し候。其草調儀は、高玉太郎右衛門・太田主膳両人、物主にて入れ候草にて候間、両人引退き候と、則ち崩れ候。追討に仕り、首百五十三討取り申し候。大勢打ち申すべく候へども、山間にて地形悪しく候間、散々に逃げ申し候條、少し討ち候。其夜は、宿へ罷帰らざる候者共これある由、後に承り候。右の者共、鼻をかき塩漬に致し、米沢へ上げ申し候。

語句・地名など

押切:おしきること、まぐさで作った仕切り
昼這:昼に送る草の者
前廉:まえかど、前の方へ
足並:行列のまとまり具合
揉合:意味不明。眉の場所?

現代語訳

天正16年3月12,3日の頃、成実が抱えている領地、玉の井というところに、高玉からやまぎわにそって、玉の井から4,5離れている西原というところへ、這草を送ったところ、玉の井の者たちは小競り合いなく遠くから追って、やってきたのをみたので、仕切りを置いて、討ち取ろうという企みがあって、3月3日に玉の井に近い高玉への山の際にある矢沢というところに、草の者を送るべきか相談した。その地までは大内定綱・片平助右衛門も寝返りするように決まっていたが、味方への手切はできないでいたので、片平・阿久ケ島の軍勢、は22日の夜に高玉に集まった。
以前から敵地に言い合わせて、草の者を送っていたので、告げるべきであるといい、差し置いた者が22日の晩、本宮へ来て、今夜玉の井へ草を入れたことを告げたので、私も出発して、本宮・玉の井の手勢を連れて、22日の朝、草さがしをしていたところ、草も来なかったので、嘘の情報だったのだろうかと飯、引きこもっていたところ、昼這に2,30人、玉の井の近くまで来たので、出会って、2,30人の者が引き上げた。すると台瀬戸というところで追い付き、合戦となった。
前の方へ遠くに山が見えたので、矢沢の小森の陰に、200人ほどの兵を置き、そろそろと引き上げることになった。玉の井の者たちは敵の足並みが悪いことを知り、強くやりかかったので、敵は崩れ、並んで退いた。押切の者たちは待ちかねて早くでてしまったので、押しきらなかったが、味方が崩れ合戦が始まった。川まで押しつけられて、2,3人討たれた。
味方は川で勢いをかえしていたところ、高玉太郎右衛門は敵味方の間に、馬を横から乗りながら、私の徒小姓の志賀三之助という者が、かねてから鉄炮の盟主であった。川柳に鉄炮を打ちかけ、待っているところへ、太郎右衛門は小川をひとつ隔て、横に馬を乗り回しているところをふたつの玉で討った。ひとつの玉は馬の眉のもみ合いにあたり、ひとつは太郎右衛門の臑に中る。すぐに馬を返した。それを競って取りかかったので、時計も急いで退却した。
太田主膳という、大変軍功のある者が殿を引き受け、退却していたので、敵は崩れなかった。小さな坂を乗り上げたのを、三之助がまた上の矢のうしろの輪をうち、ふたつ目の玉でいぬこところをうち、主膳はうつむきになり、その旗を抜き、弟の采女にささせ、私はきっと崩れるので、おまえは間違いなく主膳に代わってしんがりを勤め、何もなく終わらせよと言いつけ、引き上げたが、やがて死んだ。
この草調儀は高玉太郎右衛門・太田主膳の2人が指示していれた草であったので、2人が退いたところ、すぐに崩れた。追い討ちになり、頸153を討ち取ったので、大勢討ちとれると思ったが、山間であり、足下が悪かったので、ちりぢりになって逃げたので、少ししか討つことができなかった。その夜は宿に帰ることができなかった者たちが多かったと後になって聞いた。この者たちは鼻を切って塩漬けにし、米沢へお送りした。

感想

玉の井での競り合いについてかかれています。
敵ながら、高玉太郎右衛門や太田主膳の戦いぶりを書き残すところが成実らしいと言えます。

*1:廿の字脱カ