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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

2018-12-01から1ヶ月間の記事一覧

本年中はお世話になりました

今年は成実公生誕450年ということで、いろいろなイベントが各地でありまして、花火やお祭りなど参加できないものもありましたが、北海道伊達市での能『摺上』の上演、南相馬での展示、亘理の展示と回ることが出来、とても楽しい一年を過ごせました。貴重なも…

『伊達日記』44:定綱の御目見得

『伊達日記』44:定綱の御目見得 原文 同年三月廿三日玉の井の合戦過帰候処に。大内備前。片平助右衛門罷出られ候を相待べき由申され候。片倉小十郎二本松に逗留申され候処に。かち内弾正申大内備前甥。小十郎所へまいり候而。備前今夜本宮へ参られ候。明日…

『伊達日記』43:高玉太郎左衛門の戦い

『伊達日記』43:高玉太郎左衛門の戦い 原文 天正十六年三月一二三日頃我等抱の地玉の井高玉より山ぎはに付て西原と申候。四五里玉の井よりへだたり候所へはいくまを越候処に。玉の井の者ども無調儀に遠追候間。又草を入罷出候を見申候て押切を置討取たくみ…

『伊達日記』42:大内兄弟との駆け引き

『伊達日記』42:大内兄弟との駆け引き 原文 天正十六年二月十二日片平。阿子島。高玉三ヶ所の人数を以大内備前苗代田へ未明に押懸。古城に居候百姓共百人計相果候。本内主水と申者物主に指置候を切腹致させ放火申され候間。太田荒井の者ども亦玉の井へ引籠…

『伊達日記』41:大内定綱の望み

『伊達日記』41:大内定綱の望み 原文 天正十五年最上。大崎は御弓矢に候へども、安積表は先御無事分にて候。苗代田。太田。荒井三ヶ所は私知行に候。敵地近候へども御無事に候間。何れも百姓どもを返し在付候。苗代田は阿子ヶ島高玉の敵城に近候間。古城え…

『伊達日記』40:月舟斎のその後

『伊達日記』40:月舟斎のその後 原文 黒川月舟逆心故、大崎の御弓矢思し召され候様に之無きに付き、内々月舟を御退治成られ、大崎へ御働なるるべきと思召候へども、佐竹、会津。岩城、石川、白川打出本宮迄働候間、大崎御弓矢に取組れ候はば、亦彼大名衆御…

『伊達日記』39:氏家弾正の死

『伊達日記』39:氏家弾正の死 原文 一氏家弾正親三河、子共にも違大崎義隆へ奉公仕、名生の城に居候。城をいだき義隆へ奉公仕候。政宗、弾正にも御疑心の間度々起證文を上異義無き由申上候。聞召届けられ候故、御横目に小成田惣右衛門を申請候処に弾正病死…

『伊達日記』38:長江月鑑斎の死

『伊達日記』38:長江月鑑斎の死 原文 一深谷月鑑は相馬長門小舅に候。下新田に於いても月鑑手前の者共玉無鉄炮を打候由政宗公聞召され、深谷は大崎境に候。相馬へも縁辺逆意の儀尤の由思召され、秋保摂津守に預置かれ切腹仰付けられ候。 語句・地名など 現…

『伊達日記』37:最上義光について

『伊達日記』37:最上義光について 原文 一義顕公。政宗公伯父にて候へども、輝宗公御代にも度々御弓矢に候。然共近年は別而御念比に候。義顕公大事の人にて洞にて大臣兄弟両人共に切腹仰付られ候。政宗公二本松塩の松御弓矢強。佐竹、会津、岩城、石川、白…

『伊達日記』36:最上からの使者

『伊達日記』36:最上からの使者 原文 一、最上より義顕、野辺沢能登守と申衆を蟻が袋へ遣はされ候而、能登守月鑑に会候て何と申合候哉。月鑑は深沢へ帰。安芸守は小野田へ同心申。小野田の城主玄蕃、九郎左衛門両人へわたし申され候。其夜能登守、泉田宿へ…

『伊達日記』35:月鑑と安芸

『伊達日記』35:月鑑と安芸 原文 一百々鈴木伊豆守、古川の北江左馬丞中途へ罷出新沼へ使を越、大谷加沢呼出候而申候は、泉田安芸守と深谷月鑑両人人質に相渡され候はば、諸軍勢は除為しめ申べき由申候。大谷賀沢引こもり其由申候処に、泉田安芸守家中溜村…

『伊達日記』34:新沼の籠城

『伊達日記』34:新沼の籠城 原文 新沼に籠候衆五千に及候間、新沼小池にて食物もなく籠城致され体に候。政宗公内々御人数をもつかはされ引出され度思召れ候へども、山道は御気遣成られ左様にも之無く候。新沼衆申され候は、室山を押通向敵を切払、松山へ引…

『伊達日記』33:伊達政景の交渉

『『伊達日記』』33:伊達政景の交渉 原文 一伊達上野介先々人数を引付度存ぜられ候へども、日はくれ候。川を越北へそなへ候間、桑折室山より出候はば、除兼ねるべき由存られ、月舟は上野舅に候間、上野所より使者を以申され候うは、爰許引のき度存候間、異…

『伊達日記』32:小山田筑前の馬

『伊達日記』32:小山田筑前の馬 原文 一小山田筑前打死朝不思議成る奇瑞あり。宿より馬にのり十間計出候処に、乗たる馬、時の太鼓は早遅々と物を云ければ、めし仕候者興をさまし扨々と申候。筑前聞て、今日の軍は勝たるぞ、目出度と申候。討死以後其馬を敵…

『伊達日記』31:小山田筑前の死

『伊達日記』31:小山田筑前の死 原文 一氏家弾正は伊達の人数遣はさるるべき由御意候へ共、今に村押の旗先も見られず。通路不自由何方の注進も之無く、今は今はと相待。正月も立候間朝暮機遣に存られ候。然処に二月二日松山の軍勢打出川を越。先手の衆段々…