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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『成実記』13:粟之巣事変

『成実記』13:粟之巣事変

原文

一、十月六日の晩。輝宗公政宗公の御陣屋へ御出成られ候而。御台所へ家老衆へ召寄られ。義継御詫言之様子御訴訟成られ候。我等若輩に候得共召加えられ候事は。御使者親仕候間。義継へ之御使仕るべき由輝宗公仰付られ候。我等申上候は。若輩に而万事十方なき体に候。ヶ様之大事之御使仰付らる之儀。迷惑之由頻に申上候得ば。実元扱之首尾に候間。御使仕るべく御差引万事輝宗公ならるべき由仰せられ候間。是非に及ばず御意候。義継我等を以て御訴訟には。右のごとく北なりとも南なりとも。一方召し上げられ下さる候様にと御詫言に候。罷り成らず候に付左様に候はば、唯今迄差置候家来共乞食に致しせしめ候事迷惑之由。左様に候つつ本々の知行を仰せ下され召し使われ、下さるべき由仰上候共。夫も罷り成らず候に付爰元へ与風伺公申候上は。切腹を仕候共。御意を背ましき覚悟仕参候間。何分も御意次第之由申上げられ候に付相済候。義継御申には。身上相済忝存知候條。御目見申度由仰せられ候間。其通申上候所尤御参会に成られるべき由御意候而。義継我等陣所へ七日の八時分御出。彼是時刻移蝋燭立候而。会御申成られ二本松へ御帰。輝宗公御かせきを以て相済候。此御礼をも申上度候。又見廻申支度をも申度由仰せられ候間。輝宗公御陣所へ我等伺公致し候処。伊達上野其外家老衆数多宮森へ参られ。二本松迄落居目出度由。輝宗公へ申上能序候間。義継我等所へ仰越候趣申上候得ば。早々御出候様に御左右申すべく候由御意候條。其通申上候得は。義継輝宗公御陣所へ御出候。義継供之衆高森内膳・鹿子田和泉・大越中務三人。御座敷へ召出され候。和泉参候時義継へ耳付に何と歟申候間。御座敷につき候に輝宗公御下に。我等上野も居申候。御雑談もこれなく御座候処。御門送に御立内に而御礼成られ候。其左右には御内之衆居候。捕候事も成らず候哉。表之庭迄御出なられ候処。道一筋に而両方竹から垣に而。御脇を通すべき様も之なく詰候処へ。御庭まで御出成られ候。我等上野両人計御庭へ罷出候得共。通申すべき処之無く御後に居候処。義継手を地へつき今度色々御馳走過分に存候。左様に候得ば。我等生害成らるべき由承候由仰せられ。輝宗公之御胸之召物を。左手に而御とらへ。脇差を御抜候兼而申合と見得。義継供之衆後近く居候者共。七八人輝宗公の御後へ廻り。上野我等押隔引出申上候。脇を御先へ通すべき様之無く門を立候得と。呼候得と左様にも仕合かね急出候間。是非に及ばず各々御跡をしたひ参候。小浜より出候衆は武具を以て早打出候。宮森より御供候衆は。武具を着候隙もなく候まま。素肌に而候打果申すべき由申衆も之無く。あきれたる体に而取捲十里余。高田と申処迄御供申候。政宗公は御鷹野へ御出御留守に候故。御野へ申上御帰候。二本松の道具持は半沢源内と申者一人。遊佐孫九郎と申者弓持一人。其外皆抜刀に而輝宗公義継取り捲参候。然処に取捲参候内より。鉄砲一うち候打果申すべき由。申者も之無く候得共。惣之者共懸候而。二本松衆五十人余り打果。輝宗公も御生害成られ候。政宗公も其夜は高田へ御出馬成され候。各々家老衆申上候は。先小浜へ御引籠御吉日を以て。二本松へ御働然るべき由申上候に付。九日未明に小浜へ御帰成られ候。輝宗公御死骸其夜小浜御供申候而。長井之資福寺に而御死骸御葬礼也、遠藤山城・内馬場右衛門追腹仕候。八日之晩義継御尋ねさせ成られ方々切放候を。藤を以てつらね小浜町之外へ。張付に御上ヶ数多番代を相付けられ候。義継抱方地本宮・玉の井渋川八日の晩に。二本松へ引除候。米沢へ人質に差越さるべき由仰合され国王殿と申。十二に成候子息を譜代之衆真守り。義継いとこに新城弾正と申者。兼而おぼえの者に候。彼者武主に成籠城致し候。

語句・地名など

台所(だいどころ):普通は炊事場の意味だが、東北方言で囲炉裏の奥の板の間などの意味があるのでそちらか。

現代語訳

一、10月6日の晩、輝宗公は政宗公の陣屋へお越しになり、台所へ家来衆を連れてきて義継の謝罪の様子について訴えになった。私は若輩の身であったが、そのうちに呼ばれたのは、使者を父の実元がやっていたことであったので、義継への使いを担当すべきであると輝宗公にご命令されたからでした。
私は、若輩であるので、何につけてもやり方がわかっていない状態であり、このような大事な使いを命じられるのは、困りますと何度も申し上げたのですが、実元が担当している事柄なのだから、使いをするようにといわれ、すべての責任は輝宗公がとるからと仰せられたので、仕方なくそのとおりにしました。
義継は私を介して「前にいったように、北であっても南であっても、片方だけを召し上げていただければと」と訴えました。それは却下されたことをいったところ、「ただの今まで従ってきた家来たちを乞食にさせるようなことは大変苦しいことであります」と申し上げられました。
そうではあるが、もともとの知行をくだして、奉公させるようにと申し上げたが、それも却下されたので、私のところへきたのは、切腹をし、ご意向に背く覚悟で来たので、どうにか言っているとおりにしてやるべきだと申し上げられたので、それに同意なさった。
すると義継は「領土保全の問題が片付いたこと、忝じけなく思いますので、是非ご面会したい」と仰ったので、そのとおり申上、面会に来るようにと仰せになった。
義継は私の陣所へ7日の八つどきごろ来られた。かれこれ時間が経ち、蝋燭を立てた。お会いになって、二本松へお帰りになった。
「輝宗公のおかげで無事に済み、この御礼を申し上げたく思います。また領土の見廻りをして、支度をしてきたい」と仰ったので、輝宗公の後陣所へ私が伺ったところ、伊達上野政景ほか家老衆が多く宮森へ来ていた。二本松までが落ちたことはめでたいと輝宗公へ申し上げ、良いついでなので、義継は私のところへやってきて、そのことを申しあげたところ、早々と出発するよう決断するようにとお考えになられたので、その通り申し上げたら、義継は輝宗公の陣所へやってきた。
義継の供は高森内膳・鹿子田和泉・大越中務の三人であった。かれらは座敷へ呼ばれました。鹿子田和泉がやってきたところ、義継へ耳打ちに何とか言ったようでした。
座敷につき、輝宗公の下座に私や上野介政景もいました。雑談もあまりなかったので、門まで送ろうと、お立ちになり、御礼をされました。その左右には、お身内の衆がいましたが、捕らえることもできなかったのでしょうか。
表の庭までお出になられたとき、道一筋で両方が竹垣になっており、脇を通るべきこともできないところを通って、庭まで出られました。私と政景の二人だけが庭へ付き添ったのですが、通るところがないので後ろにおりました。すると義継は手を地面に付けて、「このたびはいろいろ丁寧に対応してくださり、過分なることと思います。なので、私は殺す」と仰り、輝宗公の着物の胸を左手でしっかりと捕らえ、脇差を抜きました。まえもって話し合わせていたようで、義継の家来は後ろのそばにいた7,8人が輝宗の後ろへ回り、政景と私は押し隔て引き出し申し上げたが、脇を通ることができず、門を閉めろと人を呼んだが、そうすることもできず、急いで出ていったので、仕方なくそれぞれあとを慕って追いかけた。
小浜より来た者たちは武具を以て早々にやってきたが、宮森から供してきた者たちは武具を着ける隙もなかったので、すはだであった。討ち果そうという者もおらず、呆然としたようすで取り巻き、十数里を追いかけ、高田というところまでやってきました。
政宗公は鷹野へ鷹狩りに出かけられ、留守でございました。そこへ申し上げ、お帰りになられました。
二本松の義継側で武具を持っていたのは、半沢源内という者一人と、遊佐孫九郎という者が弓を持っておりました。そのほかは皆抜刀し、輝宗公と義継をとりまいておりました。
そのとき取りまいていた者たちの中から、鉄砲がひとつ打ち懸けられ、誰がいうでもなかったのですが、すべての者で戦闘が始まり、二本松の者たちを50人以上打ち殺しました。輝宗公も殺されました。
政宗公もその夜は高田へお出になりました。それぞれの家老衆は「まず小浜へひきこんで、吉日を選んで二本松と戦に入るべきである」といったので、9日の未明に小浜へお帰りになられました。
輝宗公のご遺体はその夜小浜へお連れ申し上げ、長井の資福寺にてご遺体を弔いました。遠藤山城・内馬場右衛門が殉死をいたしました。
8日の晩、義継の遺体をお探しになり、あちこち切り離したものを、藤を使ってつなげて、小浜の町の外へ磔になされ、多くの目付を付けられました。
義継の持っていた地である本宮・玉の井・渋川にいた者たちは、8日の晩に二本松へ引き上げました。譜代衆は、米沢へ人質にだすようにとおっしゃられていた国王殿という12になる子息を守り、かねてから名の知れた義継の従兄弟である、新城弾正という者を対象にして、籠城いたしました。

感想

輝宗の死、いわゆる粟之巣事変の詳細です。
他の記述と重なるところもあり、興味深い一節です。