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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『成実記』2:大内氏の対応と猿倉越の敗戦

『成実記』2:大内氏の対応と猿倉越の敗戦

原文

一、天正十三年正月に成。大内備前申上候は。雪深普請成難く候間。御暇申請罷帰妻子を召連。支度をいたし伺公申すべく候。其上数年佐竹・会津御恩賞相請候。御礼をも申上度と申候に付。御暇下され其後雪消候へども罷登らず候。之に依指南遠藤山城より罷登べく候由。度々申遣と雖参らぬる後には。何と御意候共伺上申間敷由申払候。大内御退治成られ候へば。会津・佐竹・岩城・石川近年仰組られ候御一党に候間。御敵に成らるる事輝宗公御笑止に思召され。大内伺公申様に御異見成さるべしと思召候而。宮川一毛斎五十嵐蘆舟斎両使を以て。御意には罷登然るべく候。田村へ之御首尾を以てヶ様に仰られ候間。其身命知行少も気遣申間敷候。輝宗公御請取成られ候由。仰遣され候得共。御意は過分乍斯如申上候上は。縦滅亡に及候共。伺公申間敷由御返事申候。又重而片倉意休斎・原田休雪斎両使を以。仰下さるるは気遣申処尤に思召候。左様に候はば人質を上申すべく候。其身罷登らず候共。政宗公へ御訴訟成られ下さるべく候由。仰遣され候得共。何と御意候共人質をも。上申間敷候由申払候。大内親類・大内長門と申者。米沢へも節々使者に来。御親子共に御存知候者に候。後は我斎と申候。彼者休雪・意休に向て。政宗公大内御退治は思いよらぬも候由に而。散々悪口致候に付。両人之御使腹を立其方共米沢へ相上候歟。御退治歟末を見候得とて罷帰。則其段披露致候御父子共口惜思召御坐なられ候。然るに政宗公原田左馬助・片倉小十郎。を召し出され御意ならるるは。会津より使者大内備前御赦免候而。米沢へ遣わさるべく候はば。此方に於いて介抱有間敷由理に而。扨又内々は会津より之御底意を以。申払候由聞こし召され候も。何迚大内一人に而敵仕るべき哉。会津に於いて御表裏御無念思し召され候條。会津へ御事切なられ度候。併何方も大切所に候間。会津之内に御奉公仕るべきは一両人も候共。御弓矢成られ度思召候由仰出られ候。左馬助申上候は。会津よりは一段年頃之御使者に而。大内備前申払候事不審之由存候由は。扨は会津より之御底意を以て申払候哉。是非なき事に候哉。会津牢人に候彼者を。差越一両人も御奉公申様にからくり申すべき由申上候。政宗公御意には左様之才覚も。在候者に候哉と御尋ね成られ候得は。底意は存申さず当座才覚は能者に御坐候。其上御奉公之儀に候間。如在は仕間敷候由申上に就。左候はば申付べき由御意に而差越候処に。会津北方に柴野弾正と申者。御奉公仕るべくと申上候。其外も二三人同心候方御坐候。当方へ御出馬に於いては事切仕るべき由申候に付。五月二日に。原田左馬之助を猿くら越と申難処を越。弾正処へ差し越され候処に。弾正城も持ち申さず少抱能屋敷に居候而。手替仕候処。左馬助罷越火の手を揚候処。会津衆殊之外取乱候。方々より人数助来候得共。何も替候哉と気遣申候に。右からくりの使太郎右衛門。又会津之人数へかけ籠候而。替衆は弾正一人にて。左馬助無人数に而。一頭越候由申に付而。其時会津衆心安処一戦仕候間。左馬助敗軍致し与力家中数輩討死。弾正妻子共に召連引除候。政宗公三日に檜原へ御出馬成られ。檜原は即ち御手に入候得共。御隠密候御手切故。長井之御人数計召連られ惣御人数参らず候間。御陣触成らるる御人数参候を。相待たれ同月八日に。大塩へ御働成られ候得共。会津之惣人数大塩城に籠置堅固に相抱。大切処に而大塩の上の山迄は。日々御働き成られ候。下へ打さけられべき地形も之無き処に。城御坐候間近々と御働成られ候得共。人数之備を取らず地形も之なき大山に而路一筋に候故。檜原を引離さぬ様細道一筋にて罷り成らず、一働き成さるる不背之衆は相返され、檜原に御在馬成られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、天正13年正月になり、大内備前が「雪が深く、屋敷の工事が難しいので、暇をくださって帰り、妻子を召し連れて支度をして奉公したく思います。それに、数年佐竹と会津の恩賞をもらっていました。その御礼もしたいのです」と言ったので、政宗公は猶予を与えられたが、その後雪が消えても大内は参上しなかった。
このため、指南役である遠藤山城基信より、参上すべきであるということを言って使わしたが「なんと命令されようとも、伺いにあがることはない」と言い放った。
大内定綱を討とうとすれば、会津・佐竹・岩城・石川が最近同盟を組んでいるので、その敵となることを輝宗公は大変なことだと思われ、大内定綱が伺いに来るように言って聞かせようと思われて、宮川一毛斎・五十嵐蘆舟斎の二人の使いを遣わし、命令に応じて参上するようにと伝えた。田村とのもめ事についてもこのように仰せなので、その身代や知行については少しも心配することはないと輝宗公が引き受けなさったことを言って使わしたのだが「お心は身に過ぎるが、このように申し上げた以上は、たとえ滅亡することになっても、伺候することはない」と返事が返ってきた。
また、さらに片倉意休斎・原田休雪斎を使わし「心配するところはもっともである。そうであれば、人質を送ってくるならば、本人は参上しなくとも、政宗へとりなしてやろう」と言って遣わされたのだが、「なんと言われても、人質もさし上げることはしない」と言い放った。
大内定綱の親類で、大内長門と言う者は米沢にも折々使者に来て、輝宗も政宗もよく知っている男であった。のちには我斎と名乗っていた。この者が休雪斎と意休斎に向かって「政宗公は大内退治はできないだろう」とさんざん悪口を言ったので、二人の使いは腹を立て、「おまえたちは米沢へくるか、先がどうなるかを見ていろと帰ってきて、すぐにそのことを伝えたところ、輝宗・政宗親子ともに悔しくお思いになった。
ならばと政宗公は原田左馬助宗時と片倉小十郎景綱をお呼びになり、お話になった。会津よりの使者が大内定綱を赦し、米沢へ遣わすならば、こちらにて面倒を見てやる道理はない。しかしまた内々に会津からの内意を受けて、こちらを断ってきたのだとお聞きになっても、大内一人で敵になるなどということがあるだろうか。会津に対しても態度の違いに悔しく思われたので、会津と手切をしたいと思われた。
しかし何といっても攻めるに難しいところであるので、会津の衆の中に寝返りするような者がひとりかふたりでもいたなら、合戦したいとお思いであることを仰った。
左馬助は「会津からの使者はひとしお仲良くしている使者ですから、大内備前がこちらを断ってきたことはおかしなことだと思います。もしかしたら、会津からの内々の命で断ってきたのではないでしょうか。仕方ないことではないでしょうか。会津の牢人である誰かを送り、一人二人が寝返るよう、調略すべきかと」と言った。
政宗公は「そのような才覚があるものはいるだろうか」とお尋ねになったので「内心はさておき、さしあたりの才覚はよい者がおります。そのうえお仕え申し上げるのであれば、抜かりなくできる者でございます」と言った。
ならば連絡しろと政宗公が仰ったので、連絡を取ったところ、会津の北方に柴野弾正と言う者が寝返るであろうと左馬助は言った。
「他にも2,3人同じように考えている者がおります。こちらへ来られるときには、手切をするよう言ってあります」と言ってきたので、5月2日に、原田左馬助宗時を猿倉越という難所を通り越し、柴野弾正のところへ遣わしたところ、弾正は城も持たず、少数の兵だけ持ち、良い屋敷におり、反逆したところ、左馬助が来て、火の手を上げた。
会津衆は大変取り乱し、あちこちから援軍がきたのだが、誰が裏切ったのかと心配していた。この調略の使いをしていた太郎右衛門がまた会津の手勢へ駆け込み、裏切ったのは弾正一人で、左馬助は兵を持たず、一頭で来たのだと言ったので、会津衆は安心して一戦を仕掛けた。
左馬助は負け、与力・家中の数名が討死した。弾正は妻子たちをつれて退いた。
政宗は3日に檜原へお越しになり、檜原はすぐに手に入ったが、秘密裏の手切であったので、長井の手勢のみ連れてこられ、すべての軍が来ることはできなかった。命令なさった軍勢が参るのを待たれ、同月8日に大塩へ兵を出されたのだが、会津衆は全て大塩城に籠もって、固く守りを固めていた。大変難しい攻め所であるので、大塩の山の上まで毎日のように兵を出された。下に避けるべきところもない場所に城があったので、近くまで兵を出されたが、備えを置く場所もない大山で、道は一筋だった。檜原を失わぬよう細い道一筋であったため、戦闘することはできず、一戦した援軍は返されて、政宗公は檜原にご滞在なされた。

感想

『伊達日記』の1・2章とがひとつの章になっているのですが、あまり違わないかと思っていましたら、使いが大内氏を尋ねたところの会話や、調略のやりとりなどの詳細が『伊達日記』の方が詳しいですね。
だいたいのところは同じなのですが、少しずつ違いがあります。
これについてはちょこちょこ見ていきたいところです。