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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『木村宇右衛門覚書』60:父輝宗の不慮の死

『木村宇右衛門覚書』60:父輝宗の不慮の死

原文

一、有時御咄には、御東はかく恐ろしき御人なりければ、いよいよ輝宗へ御馴染み深きに、あへなき御最期、語るに語られぬ程也。二本松殿色々申さるるによって、輝宗公へ無事のうへ、陣屋へ二本松殿見舞候はんと也。中途は騒々しければ、何時にても城へ帰りて後御尋候はば、ゆるゆる御目にかけ向後申合はすべしと也。かくて俄に明日二本松殿見舞の由、此方にてもとりあへずの馳走の催し也。我等部屋住みの事なれば、二本松殿見舞給ふ朝に、後ろの山に猪四つ五つ居たる由告げ来る。今日は表に客ありてよき隙なりとて、部屋住みの中間足軽共猪狩の用意也。我等も別而隙入事もなければ、出でんとて弓鑓鉄砲にて山へ出る。二本松殿の供の衆如何様怪しく思ふ処に、御座敷にて輝宗公と二本松殿向後は入魂、互いに御如在有まじきなどと御話し最中、俄の事なれば御台所に膳棚四五間縄吊りにてしたるが、縄きれ、盛並べたる角皿、鉢くわらめきて落つるに、人たち騒ぎたる声、御座敷へ騒がしく聞こへければ、二本松殿不思議に思はるる所に、供の者いよいよ怪しみ疑いもなく二本松へ戻り足を中途にて討たんと、若殿弓鉄砲にて出られたるべしと思へば、台所筋騒がしとて、二本松殿に御用あるとて呼びたて、耳つけに何哉ん申聞かせ、供の衆は表へ罷出る。二本松殿は御座敷へなをり、則御暇乞いあって立給ふ。輝宗公是はふたかはとしたる御帰かな、さりとては御残多よし、とめ給へともしきりに出給へば、是非なく御門送りに、広間の玄関まで出給ふて、敷台にて互いに一礼の時、二本松殿供の衆に目と目を見合、輝宗をひしひしと捕らへ奉り、近頃御情けなき御仕掛にて候。二本松まで御供申さんとて引立奉る。朽木と申御小姓御腰物持ちながら御袖に取りつきければ、朽木共に大勢おっとりくるみまいる由、早馬にて狩場の山へ告げ来る。こは口惜しき次第かなと、驚き追いかけ見奉れば、件のごとし。近ふよりて御覧すれば、二本松殿輝宗公の御胸元を捉へ支え上げ、脇指をつきかけ申、人々近く寄り候はば、其まま下にひしひし通り刺し殺し申さん覚悟也。皆人近寄りかぬる所に、成実始め馳せ寄りて、何と何ととはかり也。輝宗公御跡をふりかえり御覧じ仰せらるるは、我思わずもかく運つき、日頃の敵にとらるること力なし。我等をかばいだてするうちに、二本松領は近づく、川をあなたへ引き越されては、然らば無念の次第也。我をば棄てよ棄てよと仰せられ候へども、さすが一門家老尤もといふ人なく、せんかたなく引きたてまいる。御跡先に馬をのりまわしのりまわし、子細を問へとも答へず。とかくする内に、二本松領へ近づきければ、注進したると見えて、人数夥敷川の向ひに馳せ集まる。かくては叶ひがたしと思ふ所に、成実を始め、一門衆皆々我等の馬の前に乗り向かい、是非なし、棄て奉る外なし、何といたさんと申さるるほどに、ともかくもよりどころなき仕合かなとおひければ、其色を見て、二本松衆ひしひしとおりいて、いたはしくも輝宗公を刺し殺し奉る。御腰の物持ちたる小姓、御死骸に抱きつき、刺されて死にけり。二本松衆一人ももらさず叩き殺し、其上二本松殿をよる程の者、一刀つつと思へども、づたづたに斬りたるを、藤にて死骸を貫き集め、縫いつけ、其所に旗物にかけて、川向かひの敵追っ払い、輝宗公の御死骸取り納めたるとの給ふ。
 付65○此如ケ条久申伝たる御事御座候へども、政宗様御意は終承らず候。加様之御心持も御座候哉、義山様へ貞山様御意成られ候は、家の大事に成る時は、親をもかぼわぬ事にて候。其心得尤候由、御意は柳生是翠承候由申候。

地名・語句など

部屋住み:嫡男でまだ家を継いでいない者、次男以下の家を継ぐことができないもの
膳棚:膳や椀などの食器を載せておく棚、食器棚

現代語訳

あるときのお話では、御東の方(母最上氏・義姫)はこのように恐ろしい人であったので、いっそう父である輝宗に懐いていたから、どうすることもできなかったご最期のことについては語りたくても語ることができない程のことであった。二本松の畠山義継がいろいろと言ってきたので、輝宗の陣屋へ義継が見舞いしたいと言ってきた。いろいろと忙しかったので、城へ帰ったあと尋ねたところ、ゆっくりとお目に掛け、話し合おうと言うことになり、急に明日義継が見舞いにやってくるということになって、こちらもとりあえずの馳走の催しをした。
私は部屋住みの身であったので、義継が見舞いに来る朝に、後ろの森に猪が4,5頭居ると知らせが来た。今日は表に客があるから、ちょうど良い暇な時間であると、部屋住みの中間や足軽たちは猪狩りの用意をしていた。私も特にすることもなかったので、行こうということで弓・槍・鉄砲を用意して山へ登った。
義継の家臣たちがどのように怪しく思ったのか、座敷にて輝宗と義継は向かいあって座り、今後は仲良くしよう、互いに遠慮の無いようにとお話していた最中、急なことだったので、台所で膳棚を4,5個縄で吊ってあったのが、縄が切れ、盛り並べていた角皿や鉢が音をして落ちた。人々が騒ぎ立てている声が座敷へ騒がしく聞こえたので、義継が不思議に思っているところに、供の者たちはいっそう怪しみ、二本松へ戻るとき途中で討とうと若殿である政宗が弓・鉄砲を持って出たのだろうと思ったので、台所が騒がしいと行って、義継に用がありますといい、耳を付けて何かを行って、供の者たちは表へ出た。
義継は座敷へ座り直し、直ぐに暇乞いをして立ち上がった。輝宗はこれは急なお帰りであるな、もう少し残られよと止めたが、しきりに帰りたいというので、仕方なく門まで送ろうと、広間の玄関までお出になり、玄関を上がった直ぐの間で互いに一礼したとき、義継は供の者と目と目を合わせ、輝宗をひしととらえ、此の頃はお情けのないやりようだ、二本松までお伴しますと引き立てた。
朽木という小姓が刀を持ちながら袖にとりついたが、朽木も一緒に大勢で押し取り、囲み去ったことを早馬で狩り場であった山へ知らされた。
これはなんと口惜しいことであろうかと驚き追いかけて見たところ、そのような状態であった。近くへ寄ってみようとすると、義継は輝宗の胸元を捕まえ、支え上げ、脇指をつきかけており、人々が近く寄ろうとしたら、そのまま下に強く貫き通し、殺そうという覚悟であった。
誰もが近づきかねていたところに、成実は駆け寄って、どうしたらよいかと聞くばかりであった。輝宗は後ろを振り返り、見て「私は思わずこのように運が悪く、日頃の敵に捕らえられるのは力が無く役に立たないからだ。私をかばい立てしているうちに、二本松領は近づく。川の向こうに連れて行かれては、ひたすら無念の事である。私を棄てよ。棄てよ」と仰られたが、さすがに一門衆も家老衆もそうしようという者はなく、仕方なく追いかけていた。
後ろに馬を乗り回し、詳細を聞いても、答える者は居なかった。そうこうしているうちに二本松領へ近づいたので、知らせた者がいたらしく、川の向かいに夥しい人数の兵が集まってきた。こうなってはもう無理だと思っていたところに、成実を始め、一門衆がみな私の馬の前に向かってきて、「仕方ない、お捨て申し上げる以外にない。どう致しましょうか」というので、ともかくどうしようもないかと追いかけると、その様子を見て、二本松衆はひしひしと集まり、いたわしくも輝宗を刺し殺しなさった。刀を持った小姓は輝宗の遺体に抱きつき、刺されて死んだ。二本松衆を一人も漏らさず叩き殺し、そのうえ義継を一刀ずつと思いながら、ずたずたに切り裂いたのを、藤の鶴で死骸を貫き集め、縫い付け、そこへ旗指物をかけて、川向かいの敵を追っ払い、輝宗公の遺体を納めたと仰った。
 付65:この条の内容は長く言い伝わっていることであるが、政宗のお言葉ではついに聞くことはできなかった。このような気持ちもあったのであろうか、政宗は忠宗へ家の大事になるときは親でもかまわぬようにと仰られていた。この心得が尤もであるということは柳生是翠が聞いたところによる。

感想

輝宗生害事件の詳細が書かれています。
おや?と思うのは政宗が自身のことを「部屋住み」つまりはまだ家督を継いでいない者であると言っていること、義継との応対ですることがないので猪狩りに出かけたことなどでしょうか。
他の資料などでこのとき輝宗に従っていたのは留守政景・成実などだということがわかっています。成実の覚書などでは追いかけていく様子がしっかりと書かれていますが、『木村宇右衛門覚書』では裏方(台所)で起こっていたこと、それが誤解となって事件が発生したこと、輝宗の台詞、それを受けての政宗らの対応が詳しく書かれています。「叩き殺し」「ずたずたに切り裂いたものを藤でつないでさらす」ですから、政宗の怒りの程が伝わってくるようです。
『木村宇右衛門覚書』では輝宗のことを「てりむね」と書いているのですが、輝宗は「てるむね」でなく「てりむね」が正しいんでしょうかね?
輝宗と同道していた成実は輝宗を追いかけ、叫びを聞き、他の家臣たちとともに「棄て奉る外なし」と政宗に告げています。
本当に重苦しい一段です。