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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『木村宇右衛門覚書』27:天正一七年須賀川合戦の撫で斬り

『木村宇右衛門覚書』27:天正一七年須賀川合戦の撫で斬り

原文

一、有時の御咄には、人取橋大合戦以来、所々方々御手に入中に、須賀川手に入らず、我等伯母のおはしまし候間、いろいろさまざま教訓申せども受け給はず。剰へ方々へ廻文をまわし妨げ給ふの間、さらば踏み潰し、千代の見懲りのため、須賀川中は撫で斬りと相触れ、押し寄せ取り巻き一両日手間取る処に、守屋といふ者心変わりし、ひしひしと城をば乗っ取り、川端に床几に腰をかけしばし見る所へ、伯母を城の内より追い参らせ出たり.成実始め何と御計らいあるべきと、訴訟顔に申され候間、女儀と言いながらあの御心ばへ、誰あって一夜の宿貸す人の候べき。早く川端にて御暇参らせよといひて、其後はしらず、其より須賀川中は犬猫の類ひまでも撫で斬りにさせたるとの給ふ。

地名・語句など

教訓:おしえさとすこと、いましめ、またその言葉
見懲り:見て懲りること、悪行の行いを見て恐れ、懲りること、そのようにさあせること
訴訟顔:今にも訴えようというような様子、顔、哀願する様子
心ばへ:配慮、心遣い、性格、気立て、意見

現代語訳

あるときのお話には、人取橋合戦以来、あちこちさまざまな土地を手に入れていたうちに、須賀川の地が手に入らなかった。私の伯母大乗院のいらっしゃるところだったので、いろいろさまざまな方法で交渉したが、受け入れることはなかった。そのうえ、あちこちへ文書を送り、私のことを妨げになられたので、踏み潰し、先々まで懲りるように、須賀川城は撫で斬りにしろとご命令になり、押し寄せて城を取りまき、2日手間取っているところに、守屋という者が寝返り、しっかりと城を乗っ取り、政宗が川の畔で床几に腰掛けて見ていたところへ、伯母の大乗院を城の中から追い出させて連れてきた。
成実をはじめ、どのように取り扱うのでしょうかと訴えるように言ったので、「女ではあるがあのような性格だ。一夜の宿を貸す者が誰かいるだろうか。早く川の畔で離してやれ」と言って、その後は知らない。その後須賀川の城では、犬猫までも撫で斬りにさせたと仰った。

感想

天正17年、いよいよ政宗の南奥州統一がなされるころですが、最後まで抵抗したのが、政宗の伯母、輝宗の姉である大乗院阿南姫でした。伊達家から二階堂盛義に嫁ぎ、後に成実の継室となる二階堂氏(仏性院・岩城御前)の母です。
政宗ははじめいろいろと諭そうとしたようですが、抵抗を続けたので、政宗は厳しい態度にでます。
とくにこの「女儀と言いながらあの御心ばへ、誰あって一夜の宿貸す人の候べき。早く川端にて御暇参らせよ」という言葉は、どれだけ政宗が大乗院に腹を立てていたかがよくわかる言動です。
成実が伯母である大乗院を心配しているのと好対照です。