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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『成実記』5:竹屋敷への移陣と撫で斬り

『成実記』5:竹屋敷への移陣と撫で斬り

原文

一、翌二十七日。昨日竹屋敷へ陣を移し。通路迄切申すべく候と申上候処に。半分は然るべき由申候得共。落合申さず候余りあらき道にはこれなく候條。御意を詰めず候得共。未明に竹屋敷へ陣を越候に付。伊達上野我等陣処へ引続。陣を移し惣陣共に相詰むべき由仰付られ陣道具を持運候。惣御人数は常之如くに働。備を取て夫兵を野陣に相懸候。然る処に内より一人罷出。我等陣所へ小旗を振捨候間。人を越尋候得ば。我等家中遠山下野に会申度由申候。ヶ様に申者は石川勘解由と申。兼而懇切に候間。下野を越候而会わせ候処。勘解由申事には此城に。小野主水・荒井半内始として。大内備前身進奉公仕候者とも。数多籠り候通路を切られ候上は。落城程有まじく候間。御託言申城を相渡し小浜へ相除度候間。拙者を頼候由申に付て。御前へ使を上候而ヶ様に御訴訟申候。召出されるべきやと申上候処。御弓箭之はか参候様と思召され候間。召出されるべく候去りながら中之者共。小浜へは遣わされ間敷候。伊達之内へ罷降るべき由御意候間。石川勘解由を呼出し御意之通を申候得ば。又勘解由罷出城中之者共之申上候は。伊達へ罷降候事は命乞に而候。大内備前切腹も程有間敷候間。腹之供を仕度存候而御訴訟申上候間。去迚は我等前々より之あるべく候。右申上の如く小浜へ遣されくださるべく候由申候に付。其通申上候はば。右之通に仰出され候。小浜へは差越され間敷候。伊達之内へ引除申すべく候由御意候間。其時は下野川二重之内迄罷越。其様子申理候処。勘解由本丸へ参御意之通申断候処。御前より又御使下され。城中之者共こはき事を成されぬ故。申度事を申候條御責成さるべく候。若本丸迄落城申さず候はば。城之者共伊達へも引除申すべく候間。惣手へも仰付られ候由御意間。是非に及ばず候城へ取付候。下野は漸々内より罷出候。我等手よりはや火を付故。山城にて即吹揚方々へ吹付。其外押籠候処何方に而も。火を付候間存之外内々之者共。役処を離れ午の刻より御責申申の刻に本丸落城申候。撫切と仰出され方々へ御横目を差し置かれ。男は申すに及ばず女房牛馬迄切捨。日暮候而引離れ候。味方に紛れ生候者いかが敵と見候者。一人も残さず討果たされ候。其夜新城・木こり山敵地に御座候。両城共に自焼仕引除候。二十八日之未明に仰出得られ候は。木こり山へ相移らるべき由御触御座候。各陣場取に参候而招候間。我等家中者乗向尋候ば。服部源内と申而我等旧扶持仕候者に而。塩松へ本意仕候者に而。築館を引除候間。早々追懸候処に。はやはや引除から城へ乗入。其由申上候は。築館へ御馬を帰され二十二三日御休息遊ばされ候。

語句・地名など

現代語訳

一、翌27日、昨日竹屋敷へ陣を移し、通路まで切りましょうと申し上げたところ、半分はその通りと言ったのだが、結局決着が付かなかった。難しい道ではなかったので、お許しはもらわなかったが、未明に竹屋敷へ陣を移したところ、伊達上野(政景)が私の陣所に引き続いて陣を移し、総軍もともに動くようにとご命令になり、戦道具を持ち運んだ。総軍はいつものように動き、備えを取って兵を野陣に仕掛けた。
そうしているところ、中から人がひとり出てきて、私の陣所へ小旗を振り捨ててきたので、人を送って聞いたところ、私の家臣の遠山下野に会いたいということを言った。こう言ってきたのは、かねてから親しくしていた石川勘解由という者であった。遠山下野を送って、会わせたところ、石川勘解由は「この城に小野主水・荒井半内をはじめとして、大内備前に使えている者たちであるが、多くの兵が籠城し、通路を切られたならば、まもなく落城するだろうから、謝罪するので、城を渡し、小浜へと退きたい」と言ってきた。
私を頼ると言ってきたので、政宗公へ使いを遣わし、このように訴えた。「呼び出しますか」と言ったところ、戦というのはそういうものだとお思いになり、呼びだそうと思われたが、籠城している者たちを小浜へ遣わすことはできないので、伊達の領内へ降参するべきであると仰せになったので、石川勘解由を呼び出し、その通り伝えたところ、また勘解由がやってきて、中の者がいうのには、伊達家に降参することは命乞いであり、まもなく大内備前も切腹させられるのであれば、切腹の供をしたいと思っていると訴え、私は前からそう思っていた。そのように小浜へ遣わしくださいますようと言ったので、その通り申し上げたところ、「小浜へは送ることはならない、伊達の領内へ退くように」とご命令なさった。
そのときは下の川が二重になっているところまでやってきて、その様子を伝え、断った。勘解由は本丸へ言って、仰せのとおり言い伝えた。
政宗公からまた使いが送られ、城の者たちは、強いことができないと言いたいことを言ったので、政宗は攻めるべきであると思われ、もし本丸まで落城しないときは、城の者たちも伊達へしりぞくだろうと言うことで、総軍へご命令なさることをおっしゃったので、仕方なく城へ攻めかかった。
下野はようやく内側からでてきた。私の方からすぐに火を付けたので、山城であったため、すぐに燃え上がり、あちこちへ燃え移った。その他籠城しているところにも火を付けたので、想像以上に中の者たちは担当のところから逃げた。午の刻から攻めて、申の刻に本丸が落城した。
政宗公は撫で斬りせよと仰って、あちこちへ監視役をおかれ、男は言うにおよばず、女や牛馬まで切りすてた。日が暮れたので、退却する味方にまぎれて生き残った者も敵とわかる者は一人も残さず討ち果たされた。
その夜、新城と木こり山城という敵地の城が2つとも自ら火を付けて、退却した。
28日の未明に、木こり山へ移るとご命令があった。
それぞれ陣場取りに来て招いたところ、私の家臣も向かい、尋ねたところ、服部源内というかつて私の家臣であった者だが塩松へ仕えるようになった者であったのが、築館を退いたのですぐにすぐ追いかけるようにと言われたので、おいかけたところ、はやばやと退き、城へ乗り入れた。
そのことを申し上げたところ、政宗公は築館へお帰りになられ、22,3日お休みになられた。

感想

大内定綱は既に小浜へ逃げていましたが、降参する交渉をしましたが、小手森城は落城し、撫で斬りが行われました。
このときの人数については書状などで変わっているため、話題によくなっています。