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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『木村宇右衛門覚書』26:天正一三年仙道本宮の合戦のこと

『木村宇右衛門覚書』26:天正一三年仙道本宮の合戦のこと

原文

一、有時の御咄には、仙道本宮一戦の時、何としたる事にや有けん、味方悉く敗軍して、茂庭佐月などを始め歴々の者共討死、先手町場へ窄み入ついて出候へば、追い込まれ追い込まれ木戸を三度まで取られ、東の手は殊の外敗軍の由告げ来るによって、西の手を早々明けさせ、旗元をつめ小旗をさしかへ、手まわり四五十召連乗入みれば、敵殊の外気負いかかって川の端に付、町頭へこみ入候間、成実の手を横筋違いに町頭より西南にあたる地蔵堂の山先へとくり出し、先衆には旗元を入かへ、町後ろの田道をすくに人取橋をしきり、跡先よりおっとりつつみうつとれと下知しければ、成実つめ合川端にて一戦始まる。こなたは人取橋へ敵を追い下げ、討つつ討たれつ入乱れたる大合戦也。川上川下にて敵味方討たれ、流るる血は紅の如し。人取橋の坂幾度となく乗り上げ乗り下ろしに、馬白汗に成息荒く足元しとろなり候間、川へ乗り入口を洗わせ水をかふ処に、右脇に立たる口取り九八といひて、下郎に珍しき、目の利いたる心太く真なる奴、乳の下を二ツ玉にて射られ、持ちたる柄杓を左脇に立ちたる相手のものに差し出し、これ持てといひてよろめくを、馬の上より髻をとらへ手負いたるか九八爰は川なり、こなたへもたれかかりて川よりあがれ、敵は川より向かひへ追い崩し、味方続きたるぞと言葉をかけ候へば、両手を合わせ、深手にて御座候、捨てさせ給ふて此所に時刻うつさせ給ふなといひながら川へ伏す。不憫なる次第也。然る所へ成実徒者二三十人、馬の前後しとろにたて、一文字川へ乗り込み、御運着き給ひたるか、大将の馬のたてどころといひながら、我等のりたる馬の総胴を、団扇の柄にてしたたかに打って、川より追いあぐる。一方を頼む人にあっぱれ有まじき大将かなと、心の内に頼もしく思ひ、馬を助けん為誤って候といひければ、物な仰せられそ、矢鉄炮は篠を束ねて降るごとく、流れ矢にあひ給ふな。仕掛けたる軍場を醒まして参候とて、両方へ馬を乗りわかれ、人取橋向かひへ敵を追い散らし、勝ち鬨をとり行ひたるとの給ふ。其時召されたる御鎧、後にみれば中立挙の御臑当に玉傷一ヶ所、鞍の前輪をかすり御腹に一ヶ所、御肩に玉ぞへりたる跡一ヶ所、御甲の左の脇小筋二間擦り矢にあたり、後まで礼よき御武具なりとて御秘蔵成られ候。古雪下彦七が鍛えたる也。御他界以後御廟所に入也。
 付28○此ケ条御拙者承及ず候えども、兼ねて年寄申候者之物語仕候は、人取橋の御動成実之本宮に而之御動、比類無き由度々承候事。

地名・語句など

町場:持ち場、宿場
しぼむ:勢いを無くす、しぼむ
白汗:白い玉のような汗
しどろ:よろよろ
立上:くつの足首から膝までの部分、臑

現代語訳

あるときのお話には、仙道本宮合戦の際、どうしたことがあったのだろう、味方がことごとく負け、茂庭左月などをはじめ歴代の者たちが討ち死にし、先鋒が持ち場へ勢いをうしなって出たところ、追い込まれて木戸を三度まで取られ、東の軍は特に負けているという知らせがきたので、西の軍をはやばやと明けさせて、旗本衆を詰めさせ、小旗をさしかえ、手回りの者を4,50連れて乗り入れてみたところ、敵は思った以上に意気込んで川の端につき、町頭へ入ってきたので、成実の兵を横筋違いに町頭より西南に当たる地蔵堂の山の先へとくり出し、先陣には旗本衆を入れ替え、町のうしろの田道を真っ直ぐに人取橋をしきり、うしろから追いかけ囲み討ち取れと下知したところ成実の軍勢が詰めあって、川の辺で一戦が始まった。こちらは人取橋へ敵を追い下げ、討ちつ討たれつ入り乱れての大合戦だった。川上や川下で敵味方が討たれ、流れる血は真っ赤に染まっていた。人取橋の坂を何度となく乗り上げ、乗り降ろしていると、馬は白い球のような汗を出し、息は荒く、足元がよろよろになってきたので、川へ乗り入れ、口を洗わせ、水をのませていたところ、右脇に立っていた口取りで、身分の低い者に珍しく気がきき、心がしっかりしていて、嘘をつかない九八という口取りがいた。胸の下を二ヶ所弾丸で撃たれ、持っていた柄杓を左脇に立っていた者にわたし、これを持てと言ってよろめいた。馬の上から髻をとり、「怪我をしたのか、九八、ここは川だ、こちらへもたれかかって川より上がれ。敵は川から向かいへ追い崩して、味方が続いているぞ」と声をかけたが、両手を合わせ、「深手である。私のことはここでお捨てになり、ここでお時間を取らせないように」と言いながら川へ横たわった。可哀想なようすだった。
そこへ成実が徒歩の者を2,30連れ、馬の前後をしとろにたて、一文字に川へ乗り込み、「ご武運がつきたのか。大将の馬の立て所であるぞ」といいながら、私の乗っていた馬の胴を軍扇の柄で強く打ち、川から追い上げた。ああ、軍の一方を任せるにめったにいない大将であるなあと心の内で頼もしく思い、「馬を助けようとして誤って落ちた」と言ったら、「何を言っているのか、矢や鉄砲は笹を束ねて降るが如くである。流れ矢にあわないように。しかけたいくさ場を醒ましてくる」と言って、両方へ馬を乗りわけ、人取橋の向こう側へ敵を追い散らし、勝ち鬨を行ったと政宗は仰った。
そのとき来ておられた鎧を後で見たところ、臑の脛当てに銃弾の後一ヶ所、鞍の前輪をかすり、腹に一ヶ所、肩に玉が当たった後一ヶ所、兜の左の脇の小筋二つ擦り矢に当たった痕があった。この鎧は縁起の良い武具であるということで、秘蔵なさっておられた。古い雪下彦七が鍛えた物だという。お亡くなりになられた際、廟所に入れた。
 注28:この条は私はお聞きしなかったが、かねてから年寄りたちがいう話によると、人取橋の戦での成実の本宮での働きは比べる物のない活躍であったと言う。

感想

人取橋合戦での様子です。
九八と政宗のやりとりの様子ですが、敬語からこういう展開ではないかと思いましたが、誤読しておりましたらすみません。
その後の成実の活躍のようすは、成実自身は自分の覚書には書いていませんが、川に入ってしまった政宗の馬を軍扇の柄でうって引き上げさせ、「いくさ場を醒まして参る!」と非常に格好の良い姿を見せています。
実際どうだったのかはわかりませんが、政宗はこう語っていたということでいいかと思います。
このときの鎧が政宗の遺体とともに埋められ、瑞鳳殿で発掘された雪ノ下胴であると言われています。合戦の大変だったようすがよくわかります。