[sd-script]

伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『正宗公軍記』2-10:相馬義胤、田村の城取損じ候事附石川弾正、御退治の事

『正宗公軍記』2-10:相馬義胤が田村の城を取り損ねたことと、石川弾正を退治したこと

原文

相馬義胤、築山に御座候て、弥弥田村衆申合され、右より御北様へ御内談と相見え、五月十一日、義胤より御使の由申し候て、相馬の家老新館山城・中村助右衛門と申す者、三春へ参り、其夜は町に留り候。何れも下々に於て申唱へ候は、伊達衆をも相馬衆をも、三春へ入るまじき由申定められ、両人の衆、取参られ候はば、明日義胤御見廻候様に御出で、城を御取りなされ候由申廻り候。左候へば、十二日早天に、山城・助右衛門両人、城へ罷登り候。橋本刑部は切腹と存じ詰め、未明に参り、三人共に奥方へ伺候致し、御酒を控へ居り候。刑部方の者共、五人三人宛、鉄炮・鎗・武具持ち候て、城へ入り候。月斎・梅雪・右衛門は参られず候。山城・助右衛門方も、五十人計り城へ参り候へども、其道具は持たせ申さず候。相馬義胤御出の由、申し候に付いて、内へ入り候者共、方々役所着き候様に居候。梅雪、其時城へ上られ候。奥方より刑部罷出で、はやはや義胤は城の下迄召懸け候。宵より大越の人数、城の東の林の内、深き谷へ七八百程、鉄炮・鎗にて引付け置き候。然る所に、刑部、梅雪の手を取つて、伊達衆をも相馬衆をも、入れもうすまじき由仰合され、義胤を入れ御申これあるべくやと申候へども、梅雪、いやいや入れ申すまじき由申され候。兼ねて梅雪も、御見舞申し候様に、御出でなさるべく候。城を取らせ申すべき由申合させ候へども、刑部、大功の者に候間、入れ申すべき由申候はば、則ち討たるべき由、存じ入られ申すまじき由、申され候と相見え候。刑部其言に付いて、具足を着け申候。何れも城へ入り候者共、武具を着け入り申すまじき由申され、鉄炮打ち候へと申付けて、義胤城半分ほど召上げ候へども、鉄炮を打ち弓を射防ぎ候間、義胤御供の衆三十騎計り召連れられ候へども、袴がけにて候間、何事も罷りならず。殊に、義胤の馬の平首へ、鉄炮中りければ、夫より召返し、東の小口へ御出で候へども、彼の口も其通り、其上、地形悪しく候故、ならず候跡へ、馬上二百騎計り、武具にて弓・鉄炮持も召連れられ候へども、遅く候て用立たず、築山へも御帰なく、直に相馬へ引退かれ候。大越紀伊守罷出で、御立寄り候へと申し候へども、御寄なく候。新館山城・中村助右衛門城中にて、討たるべきかと存じ候て申し候は、斯様に御色立あるべき儀にこれなく候。左様に候はば、義胤御出無用の由、申すべしとて、足早に出で候所に、刑部方の者、鎗を突きかけ候へども、刑部無用の由、抱へ候て御出御無用の由、申上げらるべき由、申し候て押出し、城は堅固に持ち候。田村より白石若狭所へ、其様子申来り候間、早馬を以て大森へ申上げられ候條、夜四つ過ぎに相聞え候。則ち正宗公御早打なされ、白石若狭居城宮森へ、翌日五つ時分召着かれ、伊達信夫の人数にて、築山へ両日御働なされ、田村に人数入り候儀、計り難き由仰せられ候て、成実は十二日に白石へ早打仕り候儘、差置かれ候。両日の御供は申さず候。十六日に、小手森へ御働き候間、参るべき由仰せ下され候條、小手森へ参り候所に、城を召廻し御覧なされ、御攻めなさるべき由仰付けられ、成実は築山より助の押に差置かれ候。其外の御人数御旗本迄相出でられ、御攻めなされ候て落城仕り、悉く放火致し、今度は撫切にはこれなく、取散に仰付けられ、宮森へ打返され、翌日は田村の内大蔵の城に、田村右衛門大輔弟彦七郎と申す者居申し候。心替の衆は、数多候へども、手切れ申さず候。此彦七郎は、築山へも節々参り、三春取らせられ候様に、義胤御越の御供も、仕り候に付いて、彦七郎城へは御働なされ候。小口懸をなされ、町を引退き、空家共十計り焼払はせられ候へども、内より一騎一人も罷出でず、脇より助け候衆もこれなき條、申雲と申す田村の出家へ、前廉申合され候や、御働の所へ参らる。彼の出家を以て、月斎を頼入り、御侘言申され、召出さるべきに落居申し候へども、日暮れ候間、宮森へ打返され候。総御人数は、にしと申す所に野陣に候。次の日は、石沢と申す所に、相馬衆籠り候間、御働きなさるべき由、打出でられ候へども、田村彦七郎罷いでられ候事遅く候間、大蔵の道つかい総手備を立て、大蔵罷出でず候はば、御攻めなさるべき由、仰付けられ候所に、彦七郎罷出でられ、御目見申上げ、石沢への御先懸を致し候。石沢は田村の内にて、小地には候へども、城能く見え候。相馬の城を以て、相抱へ候間、人数も多く見え候故、近陣なさるべき由にて、其夜はにしと申す所、白石若狭抱の地に候。御在馬なさるべき由、仰付けられ候へども、然るべき家もこれなきに付いて、俄に東の山に御野陣なされ候。折節、大雪仕り、大雪仕り、野陣の衆迷惑申し候。然る所に、御築山に於て火の手見え候。大嵐候へども、物見を遣され候へば、築山引退き候て、一人も居らず候由申上げ候に付いて、石沢も引退くべき由思召し、御人数を遣され候所に、人数参らず候、先に引退き候。石川弾正居り候とうめきも引退き、弾正抱の地残なく落城、田村の内二箇所相極められ、宮森へ打返され、御在陣なされ候。
月斎・刑部少輔は、尤も梅雪・右衛門大輔、其外、相馬へ申合せ候侍、少しも表立ち候衆は、宮森へ伺候を致され、石川弾正御退治なされ、田村迄かたまり御目出度由申上げられ候。其内に、常盤伊賀も伺候を致す。右各各相談の砌、伊達を頼入るべき由、申出で候に付いて、何れも夫に同心の由聞召され、御大慶に思召され候由、御意なされ、金のし付の御腰物、伊賀に下され候。
田村月斎・梅雪・同右衛門大輔・橋本刑部少輔、宮森へ伺候致され、片倉小十郎・伊藤肥前・原田休雪三人を以て、申上げられ候は、大越紀伊守事、初めより田村へ出仕も仕らず、今度の田村逆心の企始に候。彼の人一人引籠り居り候條、彼の城を取禿せられ候様に、仕りたき由申上げられ候。御意には、尤も兼ねて大越紀伊守仕様共、具に聞召され候。別して口惜しく思召され候。併、一働にては落城仕り候儀計り難く候。左候へば、佐竹義重、安積へ近日出馬の由、聞召され候間、若し彼の地御手間を取られ、其内、義重、出馬に候はば、彼の城、巻きほごされ候事、如何に候間、御働なるまじき由、御挨拶に候。又申上げられ候は、御一働きなされ下さるべく候。尤も佐竹殿、御出必定に候はば、御近陣などは御無用に存じ奉り候由、申され候に付いて、左様に候はば、御代官を以て、御働きなさるべき由御意候て、成実本宮に居申す所に、伺候申すべき由仰下され候條、宮森へ参り候所に、御意には、田村衆、大越への働訴訟申し候。近日佐竹義重、安積表へ出馬の由、聞召され候間、其方、御代官として、大越への御働なさるべき由にて、相越すべき由仰付けられ候。拙者申上げ候は、安積筋にて、義重御出馬の由承らず候。何方より申上げられ候やと、申し候へば、御前の衆相払はれ、須賀川の須田美濃より申上げ候由、御意に候・拙者申上げ候は、存じの外に候。美濃は無二佐竹御奉公の由承及び候。扨は北方へ申寄り候やと、申上げ候へば、両度使を遣され候に、初めの筋は悪しく候て気遣ひ申候。重ねて御意候はば、此筋を以て、仰下さるべき由、申上げ候て、佐竹義重の出馬の儀も、申上げ候事、時に石川大和殿より八代と申し候山伏を、御飛脚に差越され候。其山伏に御尋ねなされ候も、御出馬の由申し候。和州よりは、其沙汰これなく候由、御意なされ候。則ち罷帰り両日支度申し候て、舟引へ罷越し、大越への働を仕り候。請持申し候所の町構引込み、二三枢計り持ち候間、此方よりも仕るべき様、これなく引上げ候。正宗公も御忍びなされ候て、御出でなされ候。然る所に、小野・鹿俣の人数、東より戦ひ候に付き、伊達衆引上げ候に付いて、城より鹿俣衆へ出合ひ申し候て、合戦仕り候て、鉄炮なり候間、総人数相返し、敵を押切り候て、方々追散らし、首三十ばかり取り引上げ候。翌日正宗公も、宮森へ御帰なされ、御人数も相返させられ候事。

語句・地名など

見舞:不幸事があったときに見舞うこと、訪問、巡回
大功:大きな手柄をたてること、大きな事業
平首:馬の首の平たい部分
四つ:今の午前10時および午後10時ころ。よつどき。
五つ:今の午前8時および午後8時ころ。いつつどき。
折節:ちょうどそのとき
物見:見張り、敵地の様子を調べること、またはその人
伺候:そば近くに控えること、そばに行くこと
無二:ふたつと無い、うらぎることのない

現代語訳

相馬義胤が月山にいるあいだ、ますます田村の衆は言い合わせて、前々より北の方へ内密に語らっていたようで、5月11日義胤から使いがやってきて、田村の家老新館山城・中村助右衛門という者が三春へ来て、その日は町に留まった。下々のものたちの間で、伊達衆も相馬衆も三春へ入らないよう定められていたのに、双方の衆が来るならば、明日義胤が見廻りのため来られ、城を取りなさるのではないかと噂が立った。
すると12日の朝早くに山城・助右衛門の2人が登城した。橋本刑部は切腹すると多い爪、未明にやってきて、3人一緒に奥方へ会いに行き、酒を控えていた。刑部の味方の者は5人3人ずつ、鉄炮・槍。武具を盛って、城へ入った。月斎・梅雪・右衛門はやってこなかった。山城・助右衛門も50人程度城へ連れてきたが、武具は持たせていなかった。相馬義胤が来ることを言ったところ、中に入った者たちは、それぞれ担当が決まっていたようであった。梅雪はそのとき登城した。奥の方から刑部がきて、はやばやと義胤は城の下までかけつけていた。宵から大越の平、城の東の林の中の深い谷へ、7,800程、鉄炮と槍を呼び、配置していた。
すると刑部は梅雪の手をとって「伊達衆も相馬衆も入れるべきでないと約束したのに、義胤を入れるとはなんということか」と言ったところ、梅雪は「いや入れたわけではない」と言った。かねてから梅雪も義胤に訪問のようにお越しください、城をお取りになるようにと内談していたけれど、刑部は功労者であったので、入れるべきと聞いたならば、すぐに討とうとするであろうと思われ言うべきでないと言ったと思われる。刑部はそう言って、具足を付けた。
城へ入った者たちはみな武具を着けてきてはいけないといい、鉄炮を打てと言いつtえ、義胤は城を半分ほど召し上げたが、鉄炮を打ち、弓を射て、防御していたので、義胤は供の者を30騎ほど連れていたが、袴姿であったので、何ごともできなかった。特に義胤の馬の首の平たいところへ鉄炮があたったので、それから引き返し、東の入り口へいらっしゃったが、その入り口はその通りで、そのうえ地形がわるかったので、何も出来ずにいたところ、その後へ騎馬武者200騎ほどが、武具をつけ、弓・鉄炮を連れてきたが、遅くきたので役に立たず、月山へも帰らず、じかに相馬へ退却された。大越紀伊が出てきて、お立ち寄りくださいと言ったが、立ち寄らなかった。
新館山城・中村助右衛門は城の中で討たれるだろうかと思って「このようになるとは思っていませんでした。もしそうならば、義胤の出馬は要らないというでしょう」というべきだと足早にでていったところ、刑部の兵が、槍を突きかけた。しかし刑部は不用であるといい、出馬は無用であると言うべきことをいって押しだして、城は固く守られた。
田村から白石若狭のところへ、そのようすを知らせてきたので、早馬で大森へ申し上げた。夜4つ過ぎに伝えられた。すぐに政宗は出陣し、白石若狭のいる宮森城へ次の日の5つ頃着かれ、伊達・信夫の兵で月山へ2日間戦闘を仕掛けられ、田村に兵を入れることはしにくいとおおせになったので、成実は12日に白石へ急いで行ったそのまま、差し置かれた。2日間の供はしなかった。16日に小手森へ戦闘を仕掛けられたので、来るように仰った。小手森へ行ったところ、城を廻りごらんになって、攻めるようにといったので、私は月山からの援軍を抑えるように配置された。そのほかの兵は、旗本衆まで出陣し、お攻めになって落城した。すべてに火を付け、今回は撫で切りではなく、ちりぢりに追い出すよう命令され、宮森へ戻られた。
翌日は田村の内大蔵という城に、田村右衛門大輔の弟彦七郎という者がいた。心変わりした衆はたくさん居たが、手切にはならなかった。この彦七郎は月山へもたびたび来て、義胤が三春を取ろうとするときにもともについてきた者だったが、その彦七郎の城へ戦闘を仕掛けた。入り口へ懸かり、町を引き倒し、空き家を10軒ほど焼き払わせたが、中から1騎1人も出てこず、脇から援軍も居なかったので、申雲という田村の僧を前もって呼んでいたのだろうか、陣屋へやってきた。この僧侶を介して、月斎を頼み、侘びを良い、呼び出されるようにきまったが、日が暮れたので、宮森へ戻られた。総勢は西というところに野陣をひいた。その次の日は石沢というところに相馬衆が籠もっているということだったので、戦闘しようと出発なされたが、田村彦七郎出てくるのが遅かったので、大蔵への道を使って総軍備えを立て、大蔵がでてこなかったなら、攻めようとご命令になった。そこへ彦七郎がやってきて、面会し、石沢への先鋒をした。石沢は田村の領内で、小さな土地ではあったが、城がよく見えた。相馬は城にこもり、兵も多く見えたので、近くに陣を惹くべきと思われ、その夜は西という白石若狭の領地に宿泊されると仰ったが、相応しい家もなかったので、急に東の山に野陣なさった。ちょうどそのとき大雪が降ってきたので、野陣の兵たちは大変苦労した。そこへ月山で火の手があがったのが見えた。大嵐であるが、斥候を送ったところ、月山から退却し、もう1人もいないと言ったので、石沢も退いただろうと思われ、兵を送ったところ、人は居らず、先に退いていた。石川弾正がいた百目木城も退却し、弾正領地の城はひとつ残らず落城し、田村領内の2箇所も手にいれ、宮森へお帰りになって、城へ入られた。
月斎と刑部はもちろん、梅雪・右衛門大輔、そのほか相馬へ傾いていた者たちも主立った人たちは宮森へやってきて、石川弾正を倒し、田村の支えまで固まったことをめでたいと申し上げた。その中に常盤伊賀もいた。この人々が相談していたとき、伊達を頼るように言ったので、みなそれに同意したことを聞き、大変お喜びになったので金熨斗付きの刀を伊賀に下賜なさった。
田村月斎・梅雪・右衛門大輔・橋本刑部は宮森へやってきて、片倉小十郎・伊東肥前・原田休雪斎の3人を介して「大越紀伊ははじめから田村へ出仕もせず、今回の裏切りの発端である。かれは1人こもっていたので、かれの城をとりあげるようにしたい」と申し上げた。政宗は大越紀伊がしたことを詳しく聞いていた。特に口惜しく思われていた。あわせて、一度の戦闘では落城させることは難しいだろう。そうであるなら、佐竹義重が安積へ近く出陣するということをお聞きになったので、もしかの領地に手円居、そのうちに義重が出てきたならば、かの城はまきほごされるだろうことはどうだろうかと思われるので、戦闘はするべきではないとお返事になった。
4人はまた「ひと働きしていただきたい、佐竹殿が出てくることはほぼ確定なので、近くに陣を張ることは無用である」と言ったので、「そうであるならば、代官を立てるのでそれに戦闘させる」と思われ、成実が本宮にいるところにそばに来るようにと仰られたので、宮森へくると、田村衆は大越への戦闘を訴えている。近く佐竹義重が安積方面へ出馬のことを聞いたので、その方に代官として大越への戦闘をしてもらいたいので、やってくるように」とご命令になった。
私は「安積方面で義重が出陣するという話は聞いていない。どこから言った話だろうか」と尋ねたら、人払いをして、須賀川の須田美濃からの報告であると言った。成実はそれは知らなかった。美濃は一心に佐竹に仕えていると聞いていた。さては北方へ言い寄ってきたのか」と申し上げたら、「2度使いを送り、初めの対応は軽く、心配だったが、重ねてきいたところ、このつてを使っていうようにと言ったところ、佐竹義重の出陣について言ってきた。そのとき石川大和昭光より八代という山伏を飛脚に遣わせてきた。その山伏に尋ねたところ御、出馬のことを言っていた。石川大和からは連絡がない」と仰せになった。直ぐに私は帰り、2日で支度をし、舟引へやってきて、大越への戦闘をした。
受け持ったところの町構えを引き込み、2,3曲輪のみを固く守ったので、こちらからもできることがなかったので、引き上げた。政宗もお忍びになって、お越しになった。そうしているところに、小野・鹿俣の兵が東から戦ってきたので、伊達衆は引き上げるので、城から鹿俣衆へ出会ったので、合戦となり、鉄炮を討ったので、総軍が押し返し、敵を押しきって、あちこちへ追い散らし、首を30ほどとり、引き上げた。翌日宮森へお帰りになり、兵もお返しになった。

感想

義胤の田村への出陣とその失敗、その後の田村への伊達の干渉について書かれています。
『正宗公軍記』はここで終わります。
一人称が「拙者」だったり、政宗に「公」を付けていたりで、『伊達日記』とも『政宗記』とは細かい語句や数の異同があります。
どの順番で書かれたかはまだわかりませんが、兵の数や首級の数などの相違を見ていると、『政宗記』より『伊達日記』より、しかし文体的には『政宗記』より…という特徴がありまして、今のところ『伊達日記』より後に書かれている『政宗記』プロトタイプなのではと思っております。
今後また考え変わるかもしれませんが、とりあえずこちらはここで終了です。