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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『正宗公軍記』2-9:石川弾正逆心仕り、相馬へ忠節の事

『正宗公軍記』2-9:石川弾正が相馬へ寝返ったこと

原文

田村の衆、相馬へ申合の衆も、伊達御忠節の衆も、石川弾正逆心仕り候間、正宗公御出馬なさるべき由、存ぜられ候へども、一切其沙汰これなきに付いて、月斎・刑部少輔、白石若狭を頼み、米沢へ申上げられ候は、弾正逆心仕り候間、則ち御出馬なされ、御退治をなすべきの由、存じ候所に、左様にもこれなく候。田村は、過半相馬へ申合され候へども、正宗公御出馬を気遣ひ仕り候て、手切申さず候。弾正は相馬義胤を引出し申すべき為めを以て、手切仕り候間、御出馬なし下され候様にと、申上げられ候。御意には、石川弾正手切仕り候上、則ち御出馬なさるべき儀候へば、最上御弓箭に候。何れも境目には、大身の者候へども、長井は、最上に小身者計り差置かれ候間、米沢をあけ、御出馬なされ候事、御気遣に候。其上、弾正抱の地、一箇所も取らせられず候て、一働・二働の分にて、御出馬なされ候事、如何に思召され候に付いて、御延引なされ候由、御挨拶に候。月斎・刑部申上げられ候は、左様の御底意とは、世上に於て存ぜず、一切御馬くつろぎ申さざる由、田村侍共も存候はば、残なく相馬へ相附くべく候。何方の御弓箭も、左様に御手際の御座候儀は、これなく候間、久しく御在陣は罷りなるまじく候。早く御出馬一働なされ、御入馬候様にと申上げ候。御出馬を恐しく存じ候て、今に田村の者共、手切仕らず候。斯様に候所、罷りならず候はば、我等両人の切腹疑なく候由、頻に御訴訟申さるるに付いて、左候はば、御出馬候て、一調儀なさるべき由、御意にて御陣触仰付けられ、大森へ四月十四日に御出馬なされ、五日御逗留にて、二十日に塩の松の内築館へ相移られ候。石川弾正抱の地は、築山其身の居城に候小手森の城、彼の地は、塩の松御手に入れ候砌、弾正御加増に下され候城に候。とうめきと申す城は、相馬境目にて、親摂津守居り候。小手森は、築山近所にて候間、小手森へ御働なされ候所に、相馬義胤、正宗公御出馬の由聞召し、一日前に築山へ御出で、相馬衆相抱へ候。小手森へは、石川弾正自身に籠り候。築山は相馬衆にて抱へ候。正宗公小手森の地形御覧なさるべく思召し、北より南へ御通なされ候を、内より鉄砲を打懸け候へども、召連れられ候衆には、鉄砲一つも御打たせなく、御通なされ候。其日は、何事なく打上げられ候。成実は、南筋気遣に存じ候間、二本松へ其夜罷帰り候。翌日天気然なくに候へども、築館へ伺候申し候へば、御働相止め申し候間罷帰り候。日々参り候へども、天気悪しく御働これなく候。廿五日に大森へ御引籠なされ候へば、月斎・刑部少輔承り驚き申され候て、白石若狭と我等両人頼み候て、申上げられ候は、一働申され候へども、四五日も御働なさるべき由存じ候所、天気故とは申し乍ら、一日御働き御引籠なされ候。最上境を御気遣と相見え申す由、田村の者共存じ候はば、此頃迄伊達を頼入り候者共も、心替仕るべく候間、せめて大森に御在陣なされ、田村へも長井へも、不慮の儀候はば、御早打なさるべき由思召され、大森に御在馬なされ候由、諸人存じ候様に仕りたき由、月斎・刑部申され候。両人申され候事、拠なく存じ候て、若狭同心申し、大森へ伺候致し、原田休雪・森屋守伯・伊藤肥前・片倉小十郎四人を以て、月斎・刑部申され候通り申候所、伊藤肥前申し候は、御訴訟は尤もに候へども、御存じの如く候。長井には大名一人これなく候境に候へども、小身衆計り籠り、御出馬なされ御早打と申し候ても、最上境へは、大森より百里に及び申し候間、御用に立たざる儀に候。当地に御在馬は如何に存じ候由、白石若狭申し候は、田村の様子、大方に存ぜられ候や、月斎・刑部御奉公を存詰められ候。計を以て、先づ踏静め候分に候。大森を御引籠なされ候はば、両人も頼みなく存ぜられ、存分違ひ申す儀も計り難く候由、申し候所に、肥前申し候は、田村を相抱へられたく思召し候ても、長井に急事到来申し候ては、詮議なしに候。左様に候はば、以来には田村の御抱も、罷りなるまじく候間、先本に急事これなき様に、申したき由申し候。小十郎申し候は、是にて問答入らざる事に候。御耳に相立ち御意次第に申し、然るべき由申し候て罷立ち、披露致され候所、御意には、尤も両人申す所拠なく思召し候。此度は天気故、御手際これなく候て、大森へ御引籠なされ候。尤も当地に御在陣なされ、何方へも御早打なさるべき間、月斎・刑部心安く存ずべく候由、御意を請け罷帰り、白石若狭を以て、其通り申候所に、月斎・刑部少輔満足申され候。
大森御逗留の内、高倉近辺を御覧なされず候由仰せられ、五月十一日、大森より御日帰、前田沢迄出て、堀の内迄御覧なされ、御日帰になされ候。某は御出も存ぜず、本宮にて追付き御供仕り候。
田村に於ては、内々色々の申分共に候。月斎・刑部申され候は、大森には正宗公御在馬なされ、築山には義胤御座候。兎角双方の衆入り申し候事、如何に候間、伊達衆・相馬衆共に、如何様の御用候とも、入れ申すまじき由存じ候。如何これあるべき由、梅雪・右衛門大輔へ申断られ候。其外、表立ちたる衆へ相談申され候へば、何れも然るべき由申され候間、片倉小十郎所へ、両人より其通り、内証申され候に付いて、御飛脚にても遣されず候。

語句・地名など

大身:身分の高い者、禄高の高い者
小身:身分の低い者、禄高の低い者
挨拶:挨拶、返事、返答
一切:すべて
築山:月山
手際:処理、できばえ

現代語訳

田村の衆は、相馬へ言い合わせた者も、伊達に忠節を誓った者も、石川弾正が反逆したので、月斎と刑部少輔は白石若狭を頼りに米沢へ「弾正が寝返ったので、すぐに出陣し、退治をしてほしいと思っていたのに、そうならず、田村の衆は過半数が相馬へ言い合わせていたが、政宗の出馬を心配して、手切をせずにいた。弾正は相馬義胤を引き出すために手切をしようとしたので、出馬してくださるように」と言ってきた。
石川弾正が手切をしたので、すぐに出馬しようと思っていたら、最上との戦にあった。どこも領地の境目には、重臣がおかれていたが、長井は最上との境には小身のものばかり差し置いていたので、米沢をあけ、出馬されるのは心配だと思われた。そのうえ、弾正が支配していた地を一箇所も取れずにいたので、ひとつふたつの動きで出馬するのはどうであろうかと思われたので、延期になっていたとの返事であった。
月斎と刑部は「そのようなことをお思いであったとはわからなかった。まったくお休みなく戦をしていると田村の侍たちがしっていれば、残らず相馬の味方になるでしょう。どちらの軍もそのような手際であることはないので、長く在陣することは無理でありましょう。早く出馬して戦闘をされ、こちらに来られるように、と言った。いま田村が手切をしないでいるのは、政宗の出馬を怖ろしく感じていたので、そうでないとわかったら、私たち二人は切腹させられることは間違いない、と頻りにうったえてきたので、そうであるなら、出馬して、ひと働きするべきかと思われ、出陣の命をだされ、大森へ4月14日にこられ、5日ほど逗留なさったあと、20日に塩松領内の築館に移られた。弾正の支配地は、月山という城に本人が入り、塩松を手に入れたあと、弾正に加増した小手森であった。百目木というも城は、相馬との境目なので、弾正の親である摂津守が守っていた。小手森は月山の近くであったので、小手森へ戦闘しかけたところ、相馬義胤は政宗が出陣したことを尻、1日前に月山に来て、相馬の衆が籠城していた。小手森城には石川弾正自身が籠もっていた。月山は相馬衆が籠もった。政宗は小手森の地形を見たいと思われ、北から南へお通りなされたところ、城内から鉄炮を打ちかけられたが、お連れになった衆には鉄炮を一発も撃たせず、お通りになった。その日は何ごともなく引き上げなさった。成実は、南方のことが心配であったので、二本松へその夜帰った。毎日来たけれど、天気が悪く、戦闘はなかった。25日に大森へ引き籠もりなさったので、月斎と刑部はそれを聞き驚いて白石若狭と私のふたりを介して「ひと働きとはいっtが、4,5日程度は戦なさるだろうと思っていたところ、天気のせいとはいいながら、1日動いただけで戻られるのは、最上境を心配してのことかと田村の者たちは思ったら、いま伊達を頼っている者たちも、心変わりするだろうから、せめて大森に在陣し、田村へも長井へも、想定外のことが起こったならば、すぐに出立できるように思われ、大森にいられるのだと皆が思うようにしてほしい」と月斎と刑部は言った。2人のいうことは根拠がないと思ったので、白石若狭が一緒に付いて、大森へ行き、原田休雪・森屋守伯・伊藤肥前・片倉小十郎の4人で、月斎と刑部の言っていることを伝えた。伊東肥前は「訴えは尤もであるが、御存知の通りである。長井には身分の高い家臣がいない境とはいえ、身分低い者ばかりが居り、もし出馬し、すばやく攻めたとしても最上境までは大森から100里以上かかるので、間に合わない。ここに在馬するのはどうかと思う」と言った。白石若狭は「田村の様子が大変だと思う。月斎と刑部は奉公を思い詰め、計略で、まず安心させるべきであると思う。大森から引き上げたなら、2人も頼りなく思われ、考えを返すことも計算できない」と言ったので、肥前は「田村を保護したいと思われても、長井に何かあったらしかたない。そうなったら田村の支配もどうにもならないだろうから、さきに長井に何も起こらないようにするべきだ」と言った。小十郎は「ここで話していても無駄である。政宗に知らせ、御意見の通りにしましょう」と言って政宗の前にいき、それを知らせた。
政宗は2人のいうことは根拠がないと思われた。「今回は天候のため上手くいかず、大森に籠もった。この地に在陣していたら、どちらの方面へも急いで動けるので、月斎・刑部は安心するように」と仰せになったのを聞いて戻り、白石若狭を介して、その通り言ったところ、月斎と刑部は満足した。
大森城に逗留なさった間、高倉近辺を見たことがないと仰ったので、5月11日に大森から日帰りで、前田沢まででて、堀の中までごらんになり、日帰りになった。私は出発なさったのを知らず、本宮で追い付き、お伴した。
田村のことについてはうちうちでいろいろと言っているようだった。月斎と刑部は、大森には政宗が在陣し、月山には相馬義胤がいる。とにかく双方の衆が入っているのはどうかと思い、伊達衆・相馬衆ともに、どのようなことがあったとしても、双方の兵を入れるべきではないということを思い、どうかと梅雪・右衛門大輔へ言った。そのほか、主な者たちへ相談したところ、みなそうあるべきだと言ったので、片倉小十郎のところへ2人からその通りと秘密に取り決めたので、飛脚も寄越さなかった。

感想

相馬方と伊達方に分かれる田村家中の様子、そして寝返った石川弾正について書かれています。