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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『正宗公軍記』2-8:会津・須賀川衆、本宮へ働き、人取橋に於て合戦の事

『正宗公軍記』2-8:会津・須賀川の者たち、本宮へ赴き、人取橋において合戦が起こったこと

原文

右の段は、石川弾正逆心の次第、田村御洞の様子書記し候。安積表の事は、四月五日の晩、大内備前、不図懸入り候て、会津衆、安積へ罷出でられ、須賀川衆と申合せ、働くの由、其聞え候に付いて、片倉小十郎、大森に居り候間、其段申遣し候所に、則ち二本松へ罷越し、信夫の侍衆、早々罷出づべき由申触れ候へば、俄故か一人も参らず候。小十郎・成実計り本宮へ罷越し候。高倉へ人数を籠めたき由申し候へども、差置き申すべきものこれなく候間、我等八丁目の家中共、二十騎余り鉄炮五十挺高倉へ差置き候。四月十七日高倉近江、本宮へ参られ候。もと、二本松御譜代にて、会津・安積の事、具に存じ候ものにて候間、明日の御働何方へ之あるべき由、尋ね申し候へば、近江申され候は、会津・須賀川衆計り参り候條、千騎には過ぎ申すまじく候。会津にも境の衆はくつろぎ申すまじく候。須賀川と田村境の衆とは、参るまじく候間、多人数にはあるまじく候。多数押通し本宮迄働あるまじく候。大方高倉への働に、これあるべき由申され候。左様に候はば、味方の人数は、敵の手扱により、観音堂へ打上げ、高倉へ助入り申すべく候。夫は見合せ次第に候。若し又、西宮への働に候はば、此方の人数は引籠り候て、出でず候はば、定めて観音堂へは、敵の備相立つべく候。下へ人数下げ候はば、尤もの事に候。左様これなく候はば、少々内より人数を出し仕懸け、敵を町口に迄引付け、合戦を始め申すべく候。左様に候はば、羽田右馬之助人数を出し、先手を仕り、跡を小十郎人数にて仕り、成実人数は、合戦に構はず、西の脇より観音堂へ押切り候様に、人数を出すべく候間、定めて敵の足並悪しくこれあるべく候。さ候はば、高倉より跡をつき切り申さるべく候。大勝は明日にこれあるべく候。高倉の城高く候間、何方への働も見ゆべく候間、高倉へ人数越し候はば、城の西に飛火を上げ申さるべく候。本宮への働に候はば、東に上げ申さるべく候由申合せ、高倉近江相返し申し候。左様に候へば、十八日に高倉の城の西に、飛火を上げ申し候間、扨は高倉への働と見え候由申し候て、観音堂下迄人数を打出し候所に、又東に飛火上げ候。扨は本宮への働に候や、人数を引返すべき由、申し候へば、きほひが廻り候間、此儘合戦仕るべき由申し候て、備を相立て候。成実・小十郎、観音堂へ打上げ候へば、段々に人数押来り候。鹿子田右衛門一騎先に抜け候て、足軽四五十人召連れ参り候。石川弥平へ申付け候へば、鹿子田を引懸け申すべく候。するすると参り候はば、我等は下へ引きさぐべく候間、弥弥夫に乗り参り候はば、本合戦仕るべき由申し候て、羽田右馬之助人数に、足軽三十余差添へ越し候所に、鉄炮打合ひ候て、そろそろと、弥平、敵味方の境を乗廻し引上げ候間、右衛門、初め一騎に候へども、後には十騎計り、足軽百余になり候て参り候間、小十郎も我等も、観音堂を下へ落し候へば、敵右馬之助者共、石川弥平者共追立て、観音堂迄参り候條、人数を放懸け候へば、敵崩れ候。右馬之助小姓に、文九郎と申し、年十六に罷成り候が、馬上をつき候所に取つて返し、文九郎を切り候て、歩の者二三人返し、首を取り候者候。右馬之助乗入れ候て、歩の者二人に物打仕り候故、敵引退き候間、文九郎首は取られず候。其二人の内、一人首を取り引退き候。人取橋より此方へ越し候人数は、備を破られ崩れ候て、人取橋を逃げ越し、如何様に仕り候や、橋向にて纏を取直し候故、又味方押返され候所に、前田沢助五郎と申し候て、正宗公御小姓にて候が、御勘当にて我等を頼居り候。此者馬を立廻し立廻し相退き候所に、横馬に引廻し候所を、鎗持一人走懸り、ふと腹を突き候と同事に、肩のもみ合に鉄炮当り、則ち打返され候。助五郎下立ち、具足を脱ぎ、内の者に預け、其身は手槍を取り歩になり、馬上一騎突落し、則ち首を取り、我等に見せ申し候。又本の観音堂へ、味方、追付けられ候所に、手坂左近・右馬之助・石川弥平三騎返合せ、夫より敵を押返し、又人取橋迄追付き首四十三討取り、味方三人討たれ、物別れ申候。
十七日の相談の如く仕り候はば、残なく討ち申すべき所に、飛火の立様違ひ候て、大勝申さざる事、今に無念に候。其後、近江に飛火の事尋ね候へば、今日働き候由、知らせ申すべき為め、西に飛火を掲げ候由申し候。其儀は、昨日相知り候事に候間、入らざる事を致し候由申し候へども、返らざる事に候。会津衆は一働申し候て、片平助右衛門老母を、人質に取り罷帰られ候由、後に承り候。大方は人質取り申すべき計りに、会津より罷出で、左様には申されず働き候事かと存ぜられ候。負軍に候へども、若松へ引籠り申され候小十郎は廿一日迄本宮に居られ候へども、会津衆引籠り候由、申来り候間、廿二日、米沢へ罷帰り候。

語句・地名など

現代語訳

前の段は、石川弾正が裏切ったようす、田村家中の様子を書き記した。
安積方面のことは、4月5日の晩、大内備前が急にかけいって、会津衆が安積へでてきて、須賀川衆と連絡し、戦闘をしかけたことが聞こえてきたとき、片倉小十郎は大森にいたので、その話を言うためにすぐに二本松へやってきて、信夫の侍大将たちに出陣するようにと言い廻ったのだが、急なことであったので、1人も来なかった。小十郎と成実だけが本宮へやってきた。高倉へ兵を集めたいと言ったが、置くべき兵もいないので、私の八丁目の家臣たちを20騎ばかり鉄炮を50挺高倉へ置いた。4月17日、高倉近江が本宮へやってきた。もともと二本松に代々仕えていたものであったので、会津や安積のことについて、詳しく知っている者であった。
明日の戦闘はどこへあるかと尋ねたところ、近江は、会津・須賀川衆のみ来たので、1000騎以上にはならないでしょう。会津にも、境目の兵はくつろいでいることはありません。須賀川と田村の境の衆は来るとは思いませんので、多人数ではないと思います。多くが押し通し、本宮まで戦闘になることはないでしょう。おおかたのところ高倉への攻撃になるだろうと言った。
層であるならば、味方の兵は敵の様子によって観音堂へ打上、高倉へ援軍するべきである。それは様子次第である。もしまた西宮への働きかけがあったならば、こちらの兵は籠もって、出ないようにしたら、きっと観音堂へは敵の備えがやってくるでしょう。下へ人数を下げるのがよいと思われます。そうでなかったなら、少し中から兵をだしてしかけ、敵を町の入り口まで引き付けて、合戦を始めるべきである。そのようであるならば、羽田右馬助兵を出し、先鋒を勤め、その後ろを小十郎の兵を起き、成実の兵は合戦にはかまわずに西の脇から観音堂へ押しきるように、兵をだすようにするので、きっと敵の足並みは悪くなることだろう。ならば、高倉から後ろを突っ切るべきでで、戦は明日なるであろう。高倉の城は高いとところにあるので、どこからへの動きも見えるだろうから、高倉へ兵を送ったならば、城の西に烽火を揚げる。本宮への動きならば、東に上げるようということを決め、高倉近江を城に返した。
すると、18日に高倉の城の西に烽火を上げたので、では高倉へのはたらきと思ったので、観音堂の下まで兵をだしたところ、また東に烽火が上がった。さては本宮への戦闘だろうか、兵を引き返すべきかと言ったところ、勢いがまわったので、このまま戦にすべきだと思い、備えを立てた。成実と小十郎は観音堂へ引き上げたところ、段々と兵が押してきた。鹿子田右衛門は1騎先にぬけてきて、足軽4,50人を連れてやってきた。石川弥平へ鹿子田を引っかけるように命じた。するするときたならば、私は下へ下がるので、其れに乗ってきたならば、本合戦にすると言った。
羽田右馬助の兵に足軽30人余りを添えてきたところ、鉄炮の打ち合いがあり、そろそろと弥平は敵味方の境目を乗り回し引き上げてきた。鹿子田右衛門ははじめ1騎であったが、のちには10騎ほど、足軽100人あまりになってやってきたので、小十郎も私も観音堂を下にしておりてきたら、敵は右馬助や石川弥平を追い立てて、観音堂までやってきたので、兵を放ったところ、敵は崩れた。右馬助の小姓に文九郎という16になる者がいたが、騎兵を突いたところ、取って返され、文九郎は切られ、徒歩の者が3,4人戻ってきて、頸を取ろうとした。右馬助は乗り入れて、徒歩の者2人に取りかかったので、敵は退き、文九郎の頸は取られずに済んだ。その2人のうち、1人は頸をとって退いた。人取橋からこちらの方へやってきた兵は、備えを破られて崩れ、人取橋を逃げて言って、どのようになったのか、橋の向かいで陣形を直し、また味方が押し返されているときに、前田沢助五郎といって、政宗の小姓だったが、勘当されて私のところに来ていたものがいた。この者は馬を立ち廻し立ち廻し退いたときに馬が倒れてしまった。そこに槍持ちが1人走りかかり、ふと腹をついたと同時に肩に鉄炮があたり、すぐに馬を打ち返された。助五郎は徒立ちになり、具足を脱いで味方に預け、本人は手槍をとって徒で騎馬を1騎突き落とし、すぐに頸を取り、私に見せた。またもとの観音堂へ味方がおいつかれたところに、手坂左近・右馬助・石川弥平の3騎がやってきて、それから敵を押し返し、また人取橋まで追い付き、頸を43討ち取り、味方は3人討たれ、物別れとなった。
17日の相談のようになっていれば、敵を残りなく討ち果たせただろうに、烽火の立ち方がちがって、大勝利できなかったのは今も無念である。その後、高倉近江に烽火のことを聞いたところ、今日働きがあると知らせるべきであると思い、西に烽火をあげたと言った。そのことは昨日わかったことであったので、不要なことをしたけれども、言っても会のないことである。
会津衆はひと戦闘をして、片平助右衛門の老婆を人質にとり、かえったと後で聞いた。
おそらく人質を取りに行くために会津から来て、層とは思わず戦闘になったかと思われた。負け戦であったけれども若松へ戻った。小十郎は21日まで本宮にいたが、会津衆は引き籠もっていると聞いたので、22日米沢へ帰った。

感想

規模は以前の者とは大きく違いますが、再びの人取橋合戦です。
『正宗公軍記』『政宗記』ではこの戦について「人取橋」と書いており、一方『成実記』ではまだ「橋」としてしか書いていません。
いつ頃から人取橋と言われるようになったのか、気になるところです。