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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『木村宇右衛門覚書』119:仙台城西郭で能「実盛」を観劇したこと

『木村宇右衛門覚書』119:仙台城西郭で能「実盛」を観劇したこと

原文

一、有時、御西郭の御庭の桜盛りを御待之御能仰せ付けられ候。御役者一年御国に詰候へ共、能などは儀式正しからざれば見られぬ物と思し召す也。下々へ振舞に行囃子など有は、亭主により所により折節には良しと仰せられ、能は花の頃を催し、二十日も前に能組定まり御指南の所にて行儀正しく役者言い合わせ、初日は御親類衆御一家御一族衆惣侍衆、翌日は諸寺家衆、御座中長袴にて、夜ほのぼのと明くると御座敷の御簾あがる。其時宿老衆御能始め申さるる。其衆帰座してなをるを見て幕開け、御能始まる也。其日二番目の修羅に実盛あり。シテ語りの内に六十に余り戦せば、若殿ばらに争ひ先をかけんも大人気なし。又老武者とて人々に侮られんも口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め、若やぎ討ち死にせんと常々申し候へしが、誠に染めて候と、さも床しく語りければ、御涙をはらはらと流させ給へば、御左の上座に伊達安房成実声を忍びにたて袖濡るるほど流れ*1ける。何も御年六十に余らせ給ふ頃なり。又茂庭周防所にて能有し時、是は時雨の亭とて藤原の定家の卿立をかせ給ひ年年歌をも詠しさせ給ふ古跡なりと申ければ、御涙を流し給ふは、日頃歌道に御心を寄せられたる故ぞかしと人みな申あへり。
 付161○此ヶ条御座中之儀は存ぜず候。御能仰せ付けられ候趣は相違御座なく候事。

地名・語句など

ゆかしく:懐かしく、情緒をこめて

現代語訳

あるとき、西曲輪の庭の花の盛りを待つ能会をすることになった。役者たちは一年在国にいたが、能を見るときは儀式を正しくしないといけないと思っていらっしゃった。身分低い者に対して囃子などがある場合は、主催者や場所や時期によってはいいが、能は花の頃に催し、二十日も前に能の番組を定め、教えの通りに行儀正しく役者を呼び、初日は親類衆・一家・一族・侍衆をすべて呼んで、翌日は社寺の者たちを集め、長袴を着ておられ、夜がほのぼのと開ける頃、座敷の御簾があがった。そのとき宿老衆が「能がはじまります」といい、かれらが戻って座るのを見て、幕が開き、能が始まった。
その日、二番目の修羅能として、「実盛」があった。
シテが「六十に余り戦せば、若殿ばらに争ひ先をかけんも大人気なし。又老武者とて人々に侮られんも口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め、若やぎ討ち死にせんと常々申し候へしが、誠に染めて候」と、いかにも情緒たっぷりに語ったところ、政宗は涙をはらはらとお流しになった。左の上座にいた伊達安房成実は声を忍ばせ、袖が濡れるほど涙を流していた。お二人とも、年60を少し越えた頃であった。
また茂庭周防のところで能があったとき、これは時雨の亭であると藤原定家が年々歌を詠ませた古跡であると言ったら、涙を流されたのは、日頃歌の道に熱心であるからだろうとみな言い合った。
 付161:この条の列席者のことはわからないが、能を命じられたことは間違いないことである。

感想

他の本でもいろいろと出てくる、いわゆる「実盛で号泣事件」であります。
家中で実盛を行ったところ、途中で上座にいた政宗と成実が号泣してしまった話です。成実本人は「そこにいた者みんな泣いた」と言っていますが、本当のところは「政宗と成実が号泣」し、周りの人々が「自分たちのことと重ね合わせて感極まったのだろう」と感涙したようです。
『木村宇右衛門覚書』では政宗ははらはらと涙を流し、成実は声を忍ばせて袖を濡らすほど泣いたとあり、『名語集』ではさらに、

御聲をあげ、ひたもの御落涙あそばされ候。左の御わきに伊達安房守殿御座候が、是も御同前に、御座敷にたまらせられぬほど、落涙あそばされ候。諸人、御様子を拝み奉り、落涙仕らざるもの、あまり御座なく候。まことに実盛ましの御人様たち、御身のほどにおぼしめしあはせられ候事と、みなみな感じ奉り、落涙仕り候。

政宗は「声を上げて激しく」落涙し、成実は「座敷に座っていられないほど」落涙したとあります。
…………ホントに二人ともめちゃくちゃ泣いたんだな!!

*1:「泣かれ」の可能性もあり?