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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『世臣家譜』片倉家:片倉景綱

『世臣家譜』より、片倉家の記述を掲載します。とりあえず初代景綱のみ。

初代:片倉景綱(かたくらかげつな)

弘治3年(1557年)〜元和元年10月14日(1615年12月4日)
法名:傑山常英大禅定門

書き下し文

片倉、姓は藤原、其先は知らず。伝えて言う、大織冠鎌足公の後裔加藤八左衛門尉(片倉系図遠山左衛門大夫作る)景継十三世孫片倉備中(はじめ小十郎と称す)景綱祖と為す。(按じて片倉仲愛親家譜曰く、其先大織冠鎌足公の後裔片倉某より出で、其子修理亮兼春祖と為す。兼春片倉左衛門尉景継九世の孫也。兼春子壱岐守兼景、兼景子因幡守頼形、頼形子伊豆守頼親、頼親子壱岐頼高、頼高弟あり。之式部少輔景重と称す。天文十五年保山公の時、采地として置賜郡屋代永井両庄を賜り、米沢八幡宮の神職となる。景重次男あり。長じて参河景広と称す。次いで備中景綱曰く、景広子修理助景次多病、其任に堪えずを以て、受ける所の采地を叔父景綱に譲る。別して其家を立て、之に拠りて則ち景綱は、頼高の姪男、而して其支族と為す。事片倉愛親家譜に詳かなり。今姑其家の録する所に従ひて云う)景綱性山公の時始めて挙す。天正三年世子(貞山公と謂う)年甫九歳、景綱を以て之に属し、昵近、親書数十通を賜り、今家に蔵す。十三年五月貞山公会津檜原主と対陣、景綱公と密かに策を定め、単騎敵営に赴き、檜原主を誘ひ、来たりて公に謁する。公麾下に属せしむ。檜原主猶予未だ応じず、公の卒数百騎其帰路を遮る。檜原主力窮、遂に麾下に属すと云う。是歳塩松及び人取橋の役、景綱軍を従え、功有り。首若干級を斬る。十四年八月、公景綱に命じ、二本松城を守りし時、親筆の判物を賜り、是時采地若干家臣三人を賜る(関屋彦一郎国分と惣右衛門、小片治郎右衛門)其判物各其家に蔵す。是歳九月公信夫郡大森及び須川(須川間恐賀字を脱す)の南伊達成実嘗て有する所の地を賜る。其証文今家に蔵す。十六年四月、景綱伊達成実会津及び須賀川二階堂などの軍と本宮において戦ふ。敵遂に人取橋に到り、首を斬ることとりわけ多く、かつて公軍中密書数通を賜り、是歳六七月の間、窪田の役有り。景綱之に従ひ、首獲ること数級(此役景綱家臣戦功有り、公之を聞こし召し状を問ふ。各拝謁有り。大町清九郎長刀を拝賜する。佐藤治郎右衛門鎧及び佩刀を拝賜する。佐藤金蔵笄及び飲水器を拝賜する。佐藤大学香箸を拝賜る。今各其家に蔵す)十月二十六日、東照廟親書賜る。今其家に蔵す。十七年五月公駒嶺の役有り。是時景綱之に従ひ、其家臣亦戦功有り。六月会津摺上原の役、葦名義広と戦し、首百余級獲る(伊達世臣伝記に按じて云ふ、是役也猪苗代弾正盛国を先鋒と為し、景綱之に次いで撃ちて之を敗り、敵兵走る、盛国之を遂げ、三十里の所、悉く之を殲し、首二千五百級を獲る。之を埋め鯨観と為し、人号して云わく三千塚と云う)。是時景綱家臣佐藤惣六会津家士安孫子彦之丞(螺を吹くを掌す)と合戦し、其首を斬る。景綱其首及び螺を以て公に献じ、公之を褒め其螺を景綱に賜ふ。今家に蔵す(伊達世臣伝記に按じて曰く景綱酣戦い、敵景綱の旗を奪ふ。士兵之を遂い、争いて之を取り、旗悉く裂ける。景綱家臣佐藤惣六、景綱に問うて曰く、敵の陣螺如何、景綱曰く、此会津の宝器なり、総六曰く、吾主の為に、陣螺取る。以て旗裂の恥雪ぎ、即ち敵に入りて安孫子彦之丞を撃ち、其首と螺を取りて還り、景綱皆之公に献ず。公褒めて螺を景綱に賜ふ。乃ち其螺の名を安孫子螺と曰と云う)十月公会津の戦功を賞め、会津の内五箇の地を増賜す。朱印今家に蔵す。是月また須賀川の役有り、景綱軍に従わずと雖も、士卒を出し、之に応ず。家臣佐藤次郎右衛門、火を放ち城を焼き、城之を為し陥す。公之を褒め、采地若干を次郎右衛門に賜ふ。十二月太閤秀吉賜ふところの書、今家に蔵す。十八年大閤秀吉北條氏を伐し、兵を進め小田原を攻める。上杉景勝佐竹義重皆使いを馳せ、其師に労す。公期を後し、老臣を集め問うて曰く事如何、景綱其師に会ふを勧め、言甚剴切、其夜窃かに景綱宅に臨み、其寝に入りて問うて曰く、果して昼の如く日言う所乎、景綱嗟嘆し、対して曰く公遅れ疑い其師に会せず、則ち大軍至るや、之を譬える。群蝿のごとし、之を払いて復た来たり、之を殺して復た集まる。大軍之敵うべからず若し此、公其言に感じ、手より其佩するところの刀(真守)を賜ふ。是刀を立割真守と名す。当家の宝刀也。是に於いて公遂に太閤に小田原の営に会し、是時景綱之に従ひ、太閤秀吉に拝謁し、太刀目録を献ず。是歳太閤秀吉虎皮鞍覆四枚床机一脚を賜ふ(伝えて言う景綱田村の地就て時之を賜ふ)是歳太閤秀吉田村の地を賜ふ(伝えて言う田五六万石)是時朱印及び領地禁制の朱印を賜ふ、景綱信夫郡大森城自り田村に移住し一二年、其意謂う、己秀吉の恩を蒙り、則ち其君の事の志或弛むを恐れ、太閤秀吉に請うて田村の地及び朱印を復し、其領地禁制の朱印、今尚家に蔵す。七月公小田原の役自り米沢に還る。大里の役有り、景綱及び伊達成実等火器隊を率い、囲みて之を攻む。首数級を獲る。公の上洛促し、五月公米沢に還り、太閤秀吉の命を奉じ、大崎葛西の賊を討つ、六月十四日米沢を発し、二十一日大崎境に陣す。二十四日加美郡宮崎を攻む。是城也笠原民部保守の所、而して要害の地也。敵銃を放つ。銃丸雨の如し。浜田伊豆、松木伊勢、小島右衛門など之に死す。公馬に乗り、城に迫り、飛丸其馬に中る。景綱浅黄色手巾を以て抹額と為し、浅黄色の帷子を以て羽織とし、之鎧の上に著る。士卒先ず之を指揮し、二十五日景綱先導者を求む。窃かに火箭を放ち、城陥す。首八十余級、鼻百余を取る之京師に伝わり、太閤秀吉甚だしく嘉し、是時東照廟書及び帷巾ニ端折(俗に菓子を盛る器と謂う、折りて曰く)一箱を賜ふ。以て宮崎の戦功を労す。七月公佐沼の役有り。景綱及び鬼庭(後に茂庭に改む)石見綱元等急いで之を攻め、城は陥し、銃士五百人余卒二千余人を獲る。是歳公岩出山に移封の日、景綱亦信夫郡大森城より亘理館に移住す。文禄元年五月公上洛し、是時景綱これに従い、二年三月朝鮮の役、蔚山及び釜山海で戦い、功有り。是時太閤秀吉景綱に赤漆快船一艘(小鷹丸と名す)を賜ふ。摂州大阪産渋谷彦三郎はよく棹歌を唱え、景綱聞いて之を挙ぐ。是役高麗鞍を獲り、今家に蔵す。彦三郎の裔其采邑桃生郡大須に住まう。棹歌を以て篙工長年教え、今に至り遺音に伝ふと云う。慶長五年七月公白石(刈田郡に在し、是時上杉景勝領する所、景勝家臣甘糟備後清長これを保つ)の役に有り、景綱父子これに従い、屋代勘解由兵衛景頼先鋒と為し、火城市に放ち、敵兵乱れ騒ぐ。皆逃げ本城を保つ。景綱長子重長、窃かに第二郭屏に乗り、本城石垣に附き、而して先に登った。重長時年十七始めて陣に臨む。是時首七百余を獲る(是時景綱家臣佐藤次郎右衛門弟佐藤大学奇計に出、小原邑民悉く公に属し、且つ兵勢益強く、而して戦功有り、公因りて之を賞し、佐藤兄弟感状及び田禄を賜ふ)城将に落ちんとす、登坂式部勝乃其弟讃岐は(登坂兄弟は甘糟清長の党)降るを乞い、公許諾す。登坂兄弟尚疑懼の心を懐し、景綱及び石川大和因りて之に誓書を送る。鹿子田右衛門(甘糟清長の党)降るを欲さず、戦死を欲し、将に門を出んとし、城兵之を憎み、銃を放ちて斃す。乃ち草を積み、其尸を焚いた。敵兵悉く降り、城遂に陥、而して今白石城門閾及び柱尚焦ぐ。是其尸を焚の処云う、是歳十月公桑折及び福島梁川の役有りて景綱之に従い、戦功有り。是時手配の書数通を賜る。六年五月屋代勘解由兵衛の臣庄子隼人罪有りて、公書を景綱に賜ひ之を誅せしむ。景綱即ち家士佐藤治郎右衛門及び其弟大学之を誅す(景綱家士佐藤兄弟、庄子隼人を誅して還り、公召して見、永楽銭各五貫文を褒賜す。且つ庄子隼人大小刀を以て、佐藤兄弟に之を頒して賜ふ。子孫今其家に蔵す)。九月景綱公に従ひて伏見に赴く。台徳廟に江戸にて謁伏し、佩刀を拝賜る。景綱長子重長亦伏謁す。是時景綱父子食餞に賜り、且つ命藤沢駅に至り、道中伝馬を仮る。是歳東照廟邸宅を江戸に賜ふ。景綱辞して之を受けず。七年十二月公刈田郡白石城を賜ひ、(治去十三里半)且つ公其親しき目算の所の田一万三千石、及び其山林竹木遊猟の地、皆悉く之を賜ふ。是歳公景綱を召して曰く、汝齢已に強過ぎ、且つ汝体肥る。重鎧恐らく身に適さず也。因りて公の軽き鎧を賜ふ。且つ命曰く是の服以て汝の天命を全うし、以て汝の軍令を出し、今其賜ふところの鎧、家に蔵すと云う。十九年十月東照廟大阪の役有り。公藩に在して閣老書に至り、将に命奔らんとす。是時景綱中風疾有りて、従うを得ず。重長(景綱長子)之に代わらしめ、重長先鋒志有りて、乃ち公朝、閫内に入りて、重長、公の廊下に侍る。請いて曰く、是行也臣願ふ先鋒と為す。公坐定重長に進み、手を執りて曰く、汝先鋒に命ぜず。其誰の命と言い畢ると涙を下した、重長亦泣き、拝謝して去る。是月十月公駕を発し、白石城に宿す。是夜景綱疾力して公に拝す。且つ白地黒鐘紋纏を重長に授く。泣きて公の前にて戒めて曰く、吾毎陣に臨み、此纏を以て忠をつくし、功を効く、人皆知る所也。汝克勤属し吾の前の功を空くこと勿れ。且つ告げる日、此役也。師必ず成。而して来年必ず又乱れ、其言尤も慇懃に加ふ。是時重長銃三百挺弓百張槍二百卒一千余人を将す。以て軍に従ふ。十二月公大阪を攻め、敵城銃を放つ。飛丸雨のごとし。公の軍竹束を擁して之に迫る。傷者多く、重長矢石を冒し、以て進む。公其勇を賞し、是月軍果成る。元和元年十月、景綱病死、是月十四日送葬。公愛するところの馬(名片浜栗毛)一匹を以て之を賜ふ。以て其葬を助く。

語句など

香箸(こうばし):香道において香を挟む箸
剴切(がいせつ):適切でピタリと当てはまる/丁寧にいさめる
嗟嘆(さたん):感心してうなる/舌打ちして嘆く
抹額(まっこう):ハチマキをする
篙工(さおとり):船頭
門閾(もんいき):門の敷居
閫内(こんない):敷居の中

現代語訳

片倉、本姓は藤原、そのさきはわからない。伝えて言うところによると、遠山左衛門大夫が作った片倉系図によると、加藤八左衛門尉景継の13世の子孫片倉備中(はじめ小十郎と称す)景綱を祖とする。
片倉仲愛の親、家譜を調べて言うには、その祖先は大織冠藤原の鎌足の後裔である片倉某より出て、その子修理の末兼春を祖とする。兼春は片倉左衛門尉景継の9世の孫である。兼春の子壱岐守兼景、兼景の子因幡守頼形、頼形の子伊豆守頼親、頼親の子壱岐頼高。
頼高には弟がおり、これが式部少補景重と名乗る。
天文15年保山公伊達晴宗のとき、采地として置賜郡屋代・永井の両庄を賜り、米沢八幡宮の神職となる。景重に次男があり、長じて三河景広と名乗る。
続けて備中景綱がいうには、景広の子修理助景次は体が弱く、その役割を果たすことができなかったので、受けていた采地を叔父である景綱に譲った。別れてその家を立て、このため景綱は頼高の甥となり、その支族となった。このことは片倉愛親の家譜に詳しい。いまはとりあえず、その家譜に記されていることに従って語る。
景綱は性山公輝宗のころ初めて名をあげる。
天正3年世子(貞山公政宗)が9歳のとき、景綱を政宗に従わせ、近習とした。親書数十通を賜り、それはいまも家に残っている。
天正13年5月、貞山公政宗は会津の檜原の主と軍を起こす。景綱と政宗はひそかに計画を立て、一人で敵の陣へ赴き、檜原の主を誘い、主は来て政宗に会い、政宗は家臣としたが、檜原の主が応じなかったので、政宗の兵数百騎でその帰路を遮った。檜原の主はどうすることもできず、ついに麾下に属することになったという。
この年、塩松と人取橋で合戦があり、景綱は軍を率い、戦功をとげた。首若干数を斬った。
天正14年8月、政宗が景綱に二本松城を守らせていたとき、直筆の判物を与えられ、このとき采地若干と家臣3人を賜った(関屋彦一郎国分と惣右衛門、小片治郎右衛門)。その判物はそれぞれの家にある。
この年9月、政宗は信夫郡大森と須川(須川の間を恐れ、賀字を脱す)の南、伊達成実がかつて持っていた土地を与えた。その証文は今も家に残る。
天正16年4月、景綱と伊達成実は会津と須賀川、二階堂などの軍と本宮で戦をした。敵はついに人取橋に至り、首をとることとりわけ多く、かつて政宗は戦中に密書数通を与えた。この年、6月7月のあいだ、窪田の合戦があった。景綱はこれに従い、首を数級取った(この戦で景綱の家臣が戦功をあげた。政宗はこれをお聞きになり、状況を聞き、それぞれ拝謁し、大町清九郎長刀を賜る。佐藤治郎右衛門は鎧と佩刀を、佐藤金蔵は笄と、水飲みの器を、佐藤大学は香箸を賜った。現在もそれぞれその家に残っている)。
10月26日、徳川家康から親書を与えられる。現在もその家に残っている。
天正17年5月、政宗は駒ヶ嶺の合戦に参加した。このとき景綱は従って、その家臣たちはまた戦功をあげた。6月会津の摺上原の合戦が怒り、葦名義広と闘って、首を100級余りを討ち取った。
(伊達世臣伝記に詳しく記されたところによると、猪苗代弾正盛国を先鋒とし、景綱はこれに次いで撃って敵を破り、敵兵が走って逃げるのを、猪苗代盛国はこれを追い、30里のところでことごとくこれを殲滅し、首2500を取った。これを埋めて鯨のような見かけとなり、人はこれを三千塚とよんだ)。
このとき景綱の家臣佐藤惣六は会津の家臣安孫子彦之丞と合戦し、その首を切った。安孫子は法螺貝を吹く役目をしていた。政宗は是を賞めて、その法螺貝を景綱に与えた。今家にある(伊達世臣伝記によると、景綱はこの戦で、敵に景綱の旗を奪われた。兵は是を追い、争ってこれを取ったが、旗はすべて裂けてしまった。景綱の家臣の佐藤惣六は景綱に「敵の陣法螺貝はどうか」と聞いた。景綱は「これは会津の宝物である」と云った。惣六は「私は主のために陣法螺貝を取ります」と云った。これで旗を裂かれた恥を払おうと、すぐに敵陣に入って、安孫子彦之丞を撃ち、その首と法螺貝を取って帰り、景綱はこれをすべて政宗に献じた。政宗は褒めて、法螺貝を景綱に与えた。このため、その法螺貝の名を「安孫子螺」と呼ぶのだという)
10月政宗は会津での戦功を褒めて、会津の内五ヶ所の土地を増やして与えた。朱印は今家に保存されている。
この月は須賀川の合戦もあった。景綱は戦に参加しなかったが、家臣を送り、これに参加した。家臣の佐藤次郎右衛門、火を放ち、城を焼き、城はこのため陥落した。政宗はこれを褒め、采地を若干次郎右衛門に与えた。
12月、太閤秀吉が与えた書が、今家に保存されている。
天正18年太閤秀吉は北條氏を伐するため兵を進め、小田原を責めた。上杉景勝・佐竹義重らはみな使いを送り、その軍に参加した。
政宗はそれに遅れたため、老臣を集めてどうすればよいかと尋ねた。景綱はこの戦に参加するように進め、はっきりと言い切った。この夜政宗はひそかに景綱の屋敷を訪れ、その寝所を訪れて質問した。果たして昼云ったとおりであるかと尋ねた。景綱は嘆いて、政宗に対して「政宗が遅れてこの戦に参加しないなら、すぐに大軍がやってくるだろう。譬えるならば、群れる蝿のようなものである。払っても殺してもやってくるだろう。大軍には敵わないだろう」と言った。政宗はその言葉に感心し、手ずから佩刀していた刀(真守)を与える。この刀を立割真守と呼ぶ。これは我が家の家宝である。
このようにして政宗はついに太閤秀吉と小田原の陣にて面会した。このとき景綱は政宗に従って太閤秀吉に拝謁して太刀目録を献上した。この年太閤秀吉は虎皮の鞍四枚・床机一脚を与えた(伝えて言うところによると、景綱は田村の地をこのとき与えられたという)。この年太閤秀吉は田村の地を景綱に与えた(は田5,6万石と伝わる)。
このとき朱印と領地禁制の朱印を与えられる。景綱は信夫郡大森から田村に移住し、1,2年住んだ。その意図は、私は秀吉の恩賞を賜り、主君の志が弛むのを恐れて、太閤秀吉に田村の地と朱印を頼んだ。その領地禁制の朱印は、今もなお家に保存されている。
7月、政宗は小田原の合戦より米沢へ帰還した。大里の合戦が起こった。景綱と成実は火器隊を率い、囲んでこれを攻めた。首数級を取った。
政宗の上洛を促されたので、政宗は5月に米沢に戻り、太閤秀吉の命によって大崎・葛西の反乱軍を討った。6月14日米沢を出発し、21日大崎境に陣をしいた。24日加美郡宮崎を攻めた。この城は笠原民部が守っていたところで、重要な拠点であった。敵は銃を放ち、弾丸は雨のようであった。浜田伊豆・松木伊勢・小島右衛門などが討ち死にした。
政宗は馬に乗って城に迫ったが、弾丸がその馬にあたった。景綱は浅黄色の布を額に巻き、浅黄色の帷子を羽織って、この鎧の上に着た。兵たちはこれを指揮した。25日、景綱は先導者を探した。ひそかに火矢を放ち、城は陥落した。首を80級余り、鼻100個余りを取った。このことは都にまで伝わり、太閤秀吉は大変に喜び、このとき家康は書と帷子2端、折(俗に菓子を盛る器であったとという)一箱を与えられた。これにより宮崎の合戦の戦功を褒めた。
7月政宗は佐沼合戦に参加した。景綱と鬼庭(のちに茂庭に改めた)石見綱元らは急いで攻め、城は陥落し、鉄砲隊500人あまり、兵卒2000人あまりを取った。
この年政宗は岩出山に移封となった。その日、景綱もまた信夫郡大森から、亘理館に移った。
文禄元年5月政宗は上洛したが、このとき景綱もこれに従って、2年3月の朝鮮の役、蔚山と釜山海の戦いで戦功をあげた。このとき、太閤秀吉は景綱に赤漆のよい船を一艘(小鷹丸という)を与えた。摂州大阪のうまれである渋谷彦三郎はよく棹歌を歌ったので、景綱はこれをきいてかれを召し抱えた。この戦で高麗鞍をとり、その鞍は今も家にある。彦三郎の末裔は桃生郡大須に領地をもらって住んだ。棹歌がすばらしいため、長年船頭を教え、今に至っても伝わっているという。
慶長5年7月、政宗は、刈田郡にあり、このとき上杉景勝の領地であり、景綱の家臣甘糟備後清長が守っていた白石での戦を行った。景綱・重綱親子はこれに従軍し、屋代勘解由兵衛景頼を先鋒とし、日を城に放つと、敵兵は乱れ騒ぎ、みな逃げたため、城に立てこもった。景綱の長男重長はひそかに第二曲輪の兵に乗り、城の石垣に取り付き、先に登った。重長はこのとき17歳で、初陣であった。このとき首700余りを取った(このとき景綱の家臣佐藤次郎右衛門の弟佐藤大学は奇計に出て、小原村はことごとく政宗に付、また兵の勢いはますます強く、戦功をあげた。政宗はこれを褒め、佐藤兄弟に感状と田禄を与えた)。城がまさに落ちようとしたとき、登坂式部勝乃の弟讃岐(登坂兄弟は甘糟清長の血縁である)は、降伏を願い出て、政宗は許した。登坂兄弟はなおも疑いのため心配したため、景綱と石川大和はこのために誓書を送った。甘糟清長の親類であった鹿子田右衛門は降伏を望まず、戦死しようとしてまさに門をでようとしたので、城兵はこれを憎んで、銃でこれを撃って斃した。すぐに草を積みかさねて、その死体を焼いた。敵兵はことごとく降参し、城は遂に陥落した。そのため白石城の門の敷居と柱はいまもなお焦げている。これはその屍を燃やしたときのものだという。
この年10月桑折および福島梁川の合戦があった。景綱は従軍し、戦功をあげた。このとき手配の書を数通を与えられる。
6年5月屋代勘解由兵衛の家臣庄子隼人が罪を犯したため、政宗は景綱に書を送り、これを誅殺させた。景綱はすぐに家臣佐藤治郎右衛門とその弟大学がこれを誅殺した(景綱の家臣佐藤兄弟が庄子隼人を誅殺して戻ったのを、呼んで面会すると、おのおのに永楽銭5貫文を褒めて与えた。また庄子隼人の大小刀を佐藤兄弟にこれを分けて与えた。子孫はこれを家に保管している)。
9月景綱は政宗に従って伏見に赴いた。秀忠に江戸で面会し、佩刀を与えられた。景綱の長男の重長もまた拝謁した。このとき景綱親子は饗応の席に加わった。また藤沢駅に行くよう命を賜り、伝馬を走らせた。この年家康より屋敷を江戸に与えられたが、景綱はこれを辞退し、受けなかった。
慶長7年12月政宗は刈田郡白石城を与え(治去ること13里半)また、政宗は目算13000石およびそ山林・竹木・遊猟の地をことごとくみな与えた。
この年政宗は景綱を呼んで、「おまえは年を取り、太った。重い鎧はおそらく身に合わないだろう」と言った。そのため政宗の軽い鎧を与えられた。また「この服を着て天命を全うし、おまえの軍令を出せ」と命じた。このとき与えられた鎧は今も残されている。
慶長19年10月、家康による大坂の陣が起こった。政宗は在所に居たが、閣僚の書が来て、まさに戦に向かおうとした。このとき景綱は中風を病んでいて、従軍することができなかった。景綱の長男重長を代理として送る。重長は先鋒を臨んだため、朝部屋の中に入ると、重長は政宗の廊下に侍っていた。先鋒を命じられることは家臣の願いであると頼んだ。政宗は座って重長に近寄り、手を取って「おまえを先鋒にはしない。その命はだれのものか」と言い終わると、涙を落とした。重長もまた泣き、礼を言って去った。
この年10月城を出発し、白石城にて宿泊した。この夜景綱は力を振り絞って政宗に拝謁した。また白地黒鐘の紋の纏を重長に授けた。泣いて政宗の前で、戒めて「私が戦に出るとき、この纏をいつも忠をつくし、功をあげたことは、みなが知っているとおりである。おまえは励み、私のいままでの戦功に隙間を空けてはいけない」と言った。
また告げて「この戦は必ず成功するでしょう。来年また必ず乱れるでしょう」と告げて言った。その言葉は尤もであり、心をこめて言った。
このとき重長はまさに銃300挺・弓100張・槍200挺・兵1000人あまりをつれて軍に従った。
12月政宗は大阪を攻め、敵城に銃を放ち、弾丸は雨のごとしであった。政宗の軍は竹束を持ち、これに迫った。死傷者は多く、重長は矢石で対抗して進んだ。政宗はこの勇姿を褒め、この月戦は終わった。元和元年10月、景綱は病死し、この月14日葬儀を行った。政宗は片浜栗毛という愛馬一匹を与えて追悼した。