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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『成実記』10:岩角への移動

『成実記』10:岩角への移動

原文

一、二十五日いはつのへ御働成られ。地形を打通し御覧成られ。近陣か御責候か。彼地を取りなされ候得ば。二本松の通路不自由に成候間。明日相移さるべき由。御評定極り又黒籠へ打帰られ候。

語句・地名など

いはつの:岩角

現代語訳

一、25日岩角へ働かれ、地名を通って御覧になられ、「近くに陣を置くか、攻めるか、岩角を取ったなら、二本松への通路が不自由にになるので、明日移動すべきである」ということに話し合いで決まり、また黒籠にお帰りになられた。

感想

岩角は本宮市だそうです。

『成実記』9:小瀬川の戦闘

『成実記』9:小瀬川の戦闘

原文

一、黒籠より二十四日。からはの内と申城へ御働成られ候。彼地へ二本松衆助入候。少々内より人数を出し合戦候得共。強くも成られず候故。武別仕候而其日は何事も之なく黒籠へ打挙げられ候。築立に差置かれ四人之衆も。小瀬川と申所へ働処。政宗公御働遊ばされ候而。片倉小十郎其砌無人数に而。手勢二百計を以無兵儀に小浜近所迄参候処。小浜之人数押立小瀬川迄五里計斗追懸候。四人之衆川を越合戦仕候。小浜衆は五六百騎も参り候得共。政宗公御働を気遣候間。早々打揚候此方衆は。無人数候間。押添えず双方首十計づつ取申候。

語句・地名など

からはの内:(『政宗記』などによると)大波内

現代語訳

一、黒籠より24日、からはの内という城へお働きなされた。彼の地へは二本松衆が援軍に入った。少し内側から軍勢をだし、合戦となったが、強く攻めることもできなかった。停戦になってからその日は何事もなく、黒籠へ引き上げられた。
築館に置かれた4人衆も小瀬川というところへ戦闘を仕掛けたところ、政宗公もお働きなされました。
片倉小十郎そのころ手勢をあまり以て居なかったので、手勢200騎ばかりを遣わして兵がいなかったのが小浜の近所までやってきた。小浜の軍勢を押し立て、小瀬川まで5里ほど追いかけた。
4人衆が川を越えて、合戦となった。小浜衆は5,600騎も来たのだが、政宗公が動かれるのを心配して、はやばや引き上げたこちらの軍勢は人が少なかったので、押し添えることができず、双方首を10ほどずつ取った。

感想

9月24日の戦闘の話です。

『成実記』8:政宗、田村領へ

『成実記』8:政宗、田村領へ

原文

一、清顕公より仰越られ候小浜には。助之衆多人数と申其上塩松の者共。方々より引除候而小浜へ計集候間。御働成られ候御手際有間敷候條。田村へ御通成られ備前抱の小城共を。御取成られ然るべく候。御理に付而築館を。九月二十二日に御立なられ。黒籠と申城田村御抱候間。夫へ御馬を移され二十三日には御休息。小浜に替衆候而。人数を引籠申すべき由。片倉小十郎を以申上候に付。我等と白石若狭と桜田右京小十郎四人は。築館に相残され小浜を取申すべき由仰付られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、田村清顕公が「小浜には援軍の衆がたくさんいると言った。そのうえ、塩松の者たちはあちこちから城を引き上げ、小浜へ集まっていたので、戦闘になったら思うようにならないだろうから、田村を通られ、大内備前の治めていた小城を取られるが良い」と言ってこられた。そのとおりだとお思いになれ、築館を9月22日に出発され、黒籠という、田村が治めている城があったので、そこに移動され、23日はお休みなされ、小浜に寝返ろうとする者がいるので、軍勢を引き入れておいたらよいと片倉小十郎を介して申し上げたところ、私と白石若狭と桜田右京・片倉小十郎の四人は築館に残され、小浜を守るようにとお言いつけなされた。

感想

政宗と田村清顕のやりとりです。

『成実記』7:八丁目境について

『成実記』7:八丁目境について

原文

一、ヶ様に塩松は御弓箭に候得共。八丁目に我等親居申候処。二本松境は事切これなく候。其子細は右に書付候如く。強処へ身上を持相立候に付而。義継大内備前に加勢成られ候共。伊達の弓矢募候はば。伊達へ御詫申すべく分別と見得候。又親実元分別には会津仙道の衆。塩松へ相助候田村は敵は敵候間。二本松領中を通候間。義継に疑心申候様思案られ候而境を沈め申候。其枝分を政宗公へは申上られ候得共。我等若輩に候間きかせ申せられず候。此境事切候はば弥煩強成るべく候。申上事切仕間敷候。我等に両度迄誓詞を致させ。八丁目・二本松境無事に仕られ候。

語句・地名など

現代語訳

このように塩松は戦になっていたのだが、八丁目城に私の父が居たところ、二本松との境目は争いはなかった。その詳細は以前に書いたとおりである。強いところに身代を保ちっていたので、二本松の畠山義継は加勢されたのだが、伊達の武威が上がってくると、伊達へ詫びへ入れ、態度を改めようとしているように思えた。また私の親の実元が思うところには、会津・仙道の衆が塩松へ援軍しようとしている田村は敵であるので、二本松の領内を通るため、義継に疑いの心を思われて、境目を沈めていた。その枝分かれを政宗公へ申し上げられていたのだが、私は若輩であったので、聞かされていなかった。この境界が関係が悪化するならば、さらに煩いがいっそう強くなるだろうから、申し上げた関係を悪化させることはあるべきではないと、私に二度も誓詞を出させ、八丁目と二本松の境は無事でありました。

感想

二本松と八丁目の境は八丁目城を治めていた成実の父実元が目を配り、平穏を保っていたことが書かれています。
子である成実が知らない間に政宗と実元が連絡をとっていたこと、子である成実に2回も誓詞を出させていたことなどがわかり、あまり明確に伝わっていない実元の解像度が上がる気がします。

『成実記』6:青木修理の人質交換

『成実記』6:青木修理の人質交換

原文

一、築館に御逗留中。青木修理抱置候右三人之者之儀。小浜へ内通申候に付而。大内備前も修理弟子を。相捨候事も成らず候而日限を申合。小瀬川と申処へ双方より罷出。御横目を申請弟新太郎と子を受取。九郎四郎新八郎次郎吉をとり替候て帰陣。

語句・地名など

横目:監視役

現代語訳

一、築館に滞在なさっている間、青木修理が捕らえていた3人の者のことがあった。青木修理が小浜へ内通したので、大内備前も修理の弟・子どもを捨てることもできず、日にちを決めて申し合わせて、小瀬川というところへ双方が出て、監視役をお願い申し上げ、弟新太郎と子を受け取り、九郎四郎・新八郎・次郎吉とを取り替えて帰陣した。

感想

青木修理と大内家老子息の人質交換です。
この新太郎が後の政宗の小姓頭の青木掃部です。

『成実記』5:竹屋敷への移陣と撫で斬り

『成実記』5:竹屋敷への移陣と撫で斬り

原文

一、翌二十七日。昨日竹屋敷へ陣を移し。通路迄切申すべく候と申上候処に。半分は然るべき由申候得共。落合申さず候余りあらき道にはこれなく候條。御意を詰めず候得共。未明に竹屋敷へ陣を越候に付。伊達上野我等陣処へ引続。陣を移し惣陣共に相詰むべき由仰付られ陣道具を持運候。惣御人数は常之如くに働。備を取て夫兵を野陣に相懸候。然る処に内より一人罷出。我等陣所へ小旗を振捨候間。人を越尋候得ば。我等家中遠山下野に会申度由申候。ヶ様に申者は石川勘解由と申。兼而懇切に候間。下野を越候而会わせ候処。勘解由申事には此城に。小野主水・荒井半内始として。大内備前身進奉公仕候者とも。数多籠り候通路を切られ候上は。落城程有まじく候間。御託言申城を相渡し小浜へ相除度候間。拙者を頼候由申に付て。御前へ使を上候而ヶ様に御訴訟申候。召出されるべきやと申上候処。御弓箭之はか参候様と思召され候間。召出されるべく候去りながら中之者共。小浜へは遣わされ間敷候。伊達之内へ罷降るべき由御意候間。石川勘解由を呼出し御意之通を申候得ば。又勘解由罷出城中之者共之申上候は。伊達へ罷降候事は命乞に而候。大内備前切腹も程有間敷候間。腹之供を仕度存候而御訴訟申上候間。去迚は我等前々より之あるべく候。右申上の如く小浜へ遣されくださるべく候由申候に付。其通申上候はば。右之通に仰出され候。小浜へは差越され間敷候。伊達之内へ引除申すべく候由御意候間。其時は下野川二重之内迄罷越。其様子申理候処。勘解由本丸へ参御意之通申断候処。御前より又御使下され。城中之者共こはき事を成されぬ故。申度事を申候條御責成さるべく候。若本丸迄落城申さず候はば。城之者共伊達へも引除申すべく候間。惣手へも仰付られ候由御意間。是非に及ばず候城へ取付候。下野は漸々内より罷出候。我等手よりはや火を付故。山城にて即吹揚方々へ吹付。其外押籠候処何方に而も。火を付候間存之外内々之者共。役処を離れ午の刻より御責申申の刻に本丸落城申候。撫切と仰出され方々へ御横目を差し置かれ。男は申すに及ばず女房牛馬迄切捨。日暮候而引離れ候。味方に紛れ生候者いかが敵と見候者。一人も残さず討果たされ候。其夜新城・木こり山敵地に御座候。両城共に自焼仕引除候。二十八日之未明に仰出得られ候は。木こり山へ相移らるべき由御触御座候。各陣場取に参候而招候間。我等家中者乗向尋候ば。服部源内と申而我等旧扶持仕候者に而。塩松へ本意仕候者に而。築館を引除候間。早々追懸候処に。はやはや引除から城へ乗入。其由申上候は。築館へ御馬を帰され二十二三日御休息遊ばされ候。

語句・地名など

現代語訳

一、翌27日、昨日竹屋敷へ陣を移し、通路まで切りましょうと申し上げたところ、半分はその通りと言ったのだが、結局決着が付かなかった。難しい道ではなかったので、お許しはもらわなかったが、未明に竹屋敷へ陣を移したところ、伊達上野(政景)が私の陣所に引き続いて陣を移し、総軍もともに動くようにとご命令になり、戦道具を持ち運んだ。総軍はいつものように動き、備えを取って兵を野陣に仕掛けた。
そうしているところ、中から人がひとり出てきて、私の陣所へ小旗を振り捨ててきたので、人を送って聞いたところ、私の家臣の遠山下野に会いたいということを言った。こう言ってきたのは、かねてから親しくしていた石川勘解由という者であった。遠山下野を送って、会わせたところ、石川勘解由は「この城に小野主水・荒井半内をはじめとして、大内備前に使えている者たちであるが、多くの兵が籠城し、通路を切られたならば、まもなく落城するだろうから、謝罪するので、城を渡し、小浜へと退きたい」と言ってきた。
私を頼ると言ってきたので、政宗公へ使いを遣わし、このように訴えた。「呼び出しますか」と言ったところ、戦というのはそういうものだとお思いになり、呼びだそうと思われたが、籠城している者たちを小浜へ遣わすことはできないので、伊達の領内へ降参するべきであると仰せになったので、石川勘解由を呼び出し、その通り伝えたところ、また勘解由がやってきて、中の者がいうのには、伊達家に降参することは命乞いであり、まもなく大内備前も切腹させられるのであれば、切腹の供をしたいと思っていると訴え、私は前からそう思っていた。そのように小浜へ遣わしくださいますようと言ったので、その通り申し上げたところ、「小浜へは送ることはならない、伊達の領内へ退くように」とご命令なさった。
そのときは下の川が二重になっているところまでやってきて、その様子を伝え、断った。勘解由は本丸へ言って、仰せのとおり言い伝えた。
政宗公からまた使いが送られ、城の者たちは、強いことができないと言いたいことを言ったので、政宗は攻めるべきであると思われ、もし本丸まで落城しないときは、城の者たちも伊達へしりぞくだろうと言うことで、総軍へご命令なさることをおっしゃったので、仕方なく城へ攻めかかった。
下野はようやく内側からでてきた。私の方からすぐに火を付けたので、山城であったため、すぐに燃え上がり、あちこちへ燃え移った。その他籠城しているところにも火を付けたので、想像以上に中の者たちは担当のところから逃げた。午の刻から攻めて、申の刻に本丸が落城した。
政宗公は撫で斬りせよと仰って、あちこちへ監視役をおかれ、男は言うにおよばず、女や牛馬まで切りすてた。日が暮れたので、退却する味方にまぎれて生き残った者も敵とわかる者は一人も残さず討ち果たされた。
その夜、新城と木こり山城という敵地の城が2つとも自ら火を付けて、退却した。
28日の未明に、木こり山へ移るとご命令があった。
それぞれ陣場取りに来て招いたところ、私の家臣も向かい、尋ねたところ、服部源内というかつて私の家臣であった者だが塩松へ仕えるようになった者であったのが、築館を退いたのですぐにすぐ追いかけるようにと言われたので、おいかけたところ、はやばやと退き、城へ乗り入れた。
そのことを申し上げたところ、政宗公は築館へお帰りになられ、22,3日お休みになられた。

感想

大内定綱は既に小浜へ逃げていましたが、降参する交渉をしましたが、小手森城は落城し、撫で斬りが行われました。
このときの人数については書状などで変わっているため、話題によくなっています。