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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『成実記』4:青木修理の内応と小手森攻め

『成実記』4:青木修理の内応と小手森攻め

原文

一、天正十三年七月始に。米沢へ拙者使者上候而。猪苗代之儀相違仕り迷惑に存候。会津に御手際御座なく候間。大内備前を御退治成られ然るべしと御尤に思召候は。備前家中之内御奉公仕候様に。一両人も申し合わせず候いかが之有るべく候由申上候得は。御意には会津に御手際これなく御馬を収められ候。此上は塩松へ御出馬と思召され候。尤御奉公之者申は猶以て然るべき儀に候間。早々からくり申すべきと仰せ下せられ候間。我等家中旧塩松より罷出候。大内蔵人・石井源四郎と申者御坐候。此両人を申付。刈松田之城主青木修理。と申者之処へ申遣候得は。尤御奉公仕るべき由合点致し候而。知行なと望候故御判形相調差越候。大内備前田村境との間の城主より。久敷人質とり申され候。政宗公御意に背候而は。塩松中残りなく城主共より。証人取申され候彼青木修理も十六に罷成候弟新太郎と申者(此頃之青木掃部事なり)子等五歳に罷成候を。差添。両人小浜へ証人に相渡申候。修理存候様は。米沢御奉公仕候は。彼人質相捨候事迷惑に存証人替に申度存候而。大内備前家老之子に。中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内次郎吉と申者三人へ状■越。只今追鳥時分に候間。罷越然るべき由申遣候に付而。何れもわかき者とも故。以後之分別もこれなし。八月五日之晩刈松田へ罷越。六日之朝追鳥狩仕。雉子十四五取料理候而。夜半時分迄大酒を仕候処。青木修理申事には。何れも酒に酔過候間浮雲候。刀脇差を渡し申候得と申候得は。三人之者共少も苦しまず候由申候へ共。修理は底意御坐候。殊に下戸にて酒はたへず。無理に脇差刀を取長持へ入。三人之者共御酒に酔候而。臥共覚えず夜を明し申候。修理は内証へ家中之者十人斗呼。具足を着せ彼三人臥候処へ。押懸起し候而修理申分には。大内備前殿に恨候儀に而。逆心仕米沢へ御奉公申候。御存知の如く弟新太郎並子等を。小浜に人質に置候間。証人替申度と命之儀は。御気遣有ましき由申断候。三人之者共相果度由申候得共。刀脇差をとられ何とも仕るべき様之無し。ほたしをうたれ刈松田に居申候。其月に修理火の手を小浜に向て挙。事切仕候而我等所へ注進申候間。即米沢へ飛脚を以て其由申上候。御出馬までは遅と御意成られ候而。小梁川泥蟠・白石若狭・原田左馬助・浜田伊豆。差越され候條。我等右両人之衆同心致罷越。刈松田近所飯野に在陣致し。我等はたつこ山と申所に在陣仕候。政宗公十二月に福島へ御出馬成らる。青木修理に我等使を差添。福島へ遣申候而即御目見仕候処に。今度御奉公仕候儀御大慶之由に而。御腰物を下され其上塩松之絵図を仕上申すべき由。仰せ付けられ絵書を宿へ差越され候に付て。大形書立上申候得ば。絵図御覧になられ刈松田近所より。御はたらきならるべき由思召候処。田村より手越に候間。此度は清顕公と御同陣。成らるべき由仰合され候間。小手森へ御働成らるべき由仰せられ候間。川股へ御馬を移され候而御働前に。清顕公と蕨か平と申所に而御対面成られ。小手森へ二十三日に。御働成らるべき由仰合わされ候得共。大雨に而相延二十四日に。小手森へ御働之所に。小浜へ助入候会津・仙道・二本松人数。小手森近所迄助来。小手森へは大内備前自身籠り。城中堅固に見得候。近々と相働かれ候得共。内より一人も出合わず城中多人数に見得候間。此方より仕懸成らるべき様もこれなく打揚られ候所に。後陳之衆へ内より人数を出し。合戦を仕懸候間。惣人数打ち返され合戦御座候。会津助之衆も打さけ。城中より申合候と見得。両口より合戦を仕懸助之衆は。二本松衆先手に而候。田村は東より働き伊達衆は北より働き候。其間に大山有て田村衆は合戦に用立たず。政宗公御旗元御不断鉄砲五百挺程召し連れられ。東の山添より押切候様に。横向に御仕懸成られ候故。城中より出候人数敗北候而。やらひへ押入首五十級討捕えさせられ候。多も討捕らえさせらるべく候得共。小口へ入らず南へ逃候。脇之者は二本松衆との合戦候而。追返候得は助之衆は。押きられ候條追留候而。少し討ちせしめられ候。大内備前は其夜に小浜へ帰申候。其夜は五里引揚られ御野陣遊ばされ候。夜懸も之有るべき歟と。辻々芝見を差置かれ候得とも何事もなく候。二十五日押詰御働成られ候は。城中より一人も出ず会津衆も助命来候得共。なかくきと申処に相備。下へ打下通路へ城中に候得共。数人は参らず候。其時は何事なく打揚られ候。左候得ば田村衆と成合候事ならず候。二十六日又御働成られ候候得共。内々出合わず候間内之様子御覧になられるべく。鉄砲を御かけ然るべき由片倉小十郎申上候に付。七八百挺程内やらひへ御かけ成られ候得共。城中堅固に持候間打揚られ候。又御野陣少御寄成られ候。拙者申上候は明日は。南の竹屋敷へ陣を越通路留申すべく候間。惣陣を相詰められ然るべき由申上候へば御意には。左様に候はば助之人数打下防ぐべき由思召され候。左様に候はば城中も出合うべく間。両口之合戦は如何たるべき由仰られ候。又申上候は。左様に候共苦しからず候。竹屋敷へ陣を移候得ば。田村衆と成合候間。城中より定而我等陣所へ出申すべく候條。田村衆と拙者に相任さるべく候。助之人数と惣御人数とを以て。御合戦成らるべく候間。両口之合戦に候共御気遣いは之有る間敷候。其上助之衆打下候とも。地形も切処に候間合戦容易に致間敷候。一昨日も城中へ押入候得共。二本松衆合戦御強仕懸申されるべく候とも。城は機遣ひ引揚申され候由申候へば。原田休雪申候は。陣を越候事は返々御無用に候。御合戦も御大切に候間。日数を以後日左様に然るべき由申され候由。半分は我等を御こさせ然るべき由申。又休雪申を尤候由申衆も候て。其日は落居申さず打揚られ候。

語句・地名など

相違:違いがあること/違い
迷惑:困ること/不快になること
手際:処理の仕方/技量
尤も:いかにも、なるほど/はなはだしいこと/非常に
合点:相手の言い分を理解すること/承知すること
追鳥狩:山野でキジ・ヤマドリ・ウズラなどを勢子などに生い立たせて弓や銃で狩りをするもの
浮雲:漂う雲/物事が落ち着かないで不安定な様子のたとえ
底意:表に表さない心の底/下心
ほだしをうつ(絆を打つ):自由を束縛する/ほだされる(繋がれる)/情にひかれる
やらひ(矢来):竹や丸太を縦横に組んだ雁の囲い/竹矢来・角矢来など。やらいがき
芝見(しばみ):草木に忍んで秘かに敵の様子をさぐること/忍び物見
なかくき:中久喜

現代語訳

一、天正13年7月はじめに、私は米沢の政宗公に使いを送り「猪苗代のことについて相違があり、大変不快に思っております。会津に対して伝手がなく、大内備前を攻め滅ぼすべきと思われるのであれば、備前の家来の中にこちらへ内応するように申し合わせた者がひとりもいない事を如何するつもりでしょうか」と申し上げたところ「会津にどうすることもできず攻撃を諦めた。このうえは塩松へ出馬しようと思っているので、内応者は今もその状態なので、早く調略するように」と仰られた。
私の家臣の中で、昔塩松から来た者で、大内蔵人・石井源四郎という者がいます。この二人にいいつけ、刈松田の城主青木修理という者のところに使いを送ったところ、内応することに同意した。知行などを望んでいるので、印の入った書状をつくり、送った。
大内備前と田村の境目の城主から、長らく人質を取られていたが、政宗公に反抗してからは塩松中の城主たち全員から人質を取っていた。この青木修理も、16歳の弟新太郎という者(これは今の青木掃部のことである)と五歳になる子を二人とも人質にして送っていた。
修理は伊達に内応したならば、この人質たちを捨てることになり、それはとても困ると思っているので、人質を取り替えたいと思っていた。大内備前の家老の子どもに、中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内次郎吉という者へ「いまは追鳥狩をするのによい季節なので、お越しくださいますようと」書状を送った。みな若い者であったため、たいした分別もない者たちであった。
8月5日の夜刈松田に来て、6日の朝、追鳥狩を行った。雉子14,5を取り、料理した。夜中になるまで酒をたくさん飲んでいたので、青木修理がいうことには、みな酒に酔い、ふらふらになっていた。刀や脇差をお渡しくださいといったところ、3人とも少しも気にせず渡したのだが、修理には計画があった。修理は特に下戸であったので、酒には酔わず、無理に刀・脇差を取って、長持ちへ入れた。
三人とも酒に酔い、倒れるのもわからず夜を明かした。修理はこっそり鎧を身につけた家中の者を10人ほど呼び、この三人が寝転んでいるところへ押しかけて起こして、修理は「大内備前に恨みがあるため、逆進し、伊達家に内応します。御存知のように、弟新太郎と子どもを小浜に人質に置いているので、証人の取り替えをしたい。命のことは心配するな」と言い放った。
3人は命を絶ちたいと言ったのだが、刀・脇差を取られていて、何をすることもできず、束縛されて刈松田に連れられていった。その月に修理は小浜に対して戦闘を仕掛け、関係を終わらせたので、私のところに連絡してきたので、すぐに米沢の政宗に飛脚を送ってそのことを申し上げた。
出陣まで待つのは遅いとお思いになられ、小梁川泥蟠斎・白石若狭・原田左馬助・浜田伊豆をお送りになったので、私はこの方々と一緒に出発し、刈松田の近くの飯野に在陣し、私は竜子山というところに陣をしきました。
政宗公は12月に福島へ出馬されたので、青木修理に私の使いを添えて、福島へ使わしたところ、すぐに面会されて、今回内応したことを大変お慶びになられ、刀を与え、それにくわえて塩松の地図をつくるようにとご命令されました。絵描きを連れてこられ、だいたいのところを書き上げ申し上げたところ、絵図を御覧になられて、刈松田の近所から戦を仕掛けるべきとお思いになった。
しかし田村からわざわざやってこられたので、今回は田村清顕公と一緒に陣を出すことを仰られた。小手森へ戦闘を仕掛けるよう仰られたので、川股へ移動されて、仕掛ける前に、清顕公と蕨が平というところで対面され、小手森へは23日に戦闘を仕掛けることをお決めなさったのだが、大雨であったので延期し、24日に小手森へ戦闘を仕掛けられた。
小浜への援軍である会津・仙道・二本松の軍勢が小手森の近所まできていた。小手森には大内備前その人が籠城しており、城は固く守られているようだった。
近くに寄り、戦闘を仕掛けたが、中からは一人もでてこず、城の中に多くの兵がいるようだったので、こちらから仕掛けることもできず、引き上げなさった。
すると後ろの兵たちに内側から攻めかかり、戦をしかけたので、全軍を呼び戻され、合戦となりました。
二方面から合戦を仕掛けた援軍は二本松衆を先陣にしていた。田村は東から働き、伊達衆は北から攻めた。その間に大きな山があり、田村衆は合戦には役立たなかった。
政宗公は旗本の鉄砲衆を500挺ほど連れられ、左の山のにそって押し切り、横向きに仕かけられたので、城から出た軍勢は負け、矢来へ押し入り、首を50級討ち取りになられました。もっと多く討ち取らせようとなさいましたが、虎口へは入らず、南へ逃げた。脇に控えていた者たちは二本松の衆との合戦のため押し返したならば、援軍が押しきられるかもしれないので、追うのをやめられました。少し討ち取らせられました。
大内備前はその夜に小浜へ帰った。政宗公はその夜は5里引き上げられて、野陣をしかれました。夜討ちもあるだろうかとところどころに草に忍ぶ見張りを置かれたのだが、何事もありませんでした。
25日戦闘をしかけたのだが、城中からは一人も出てこず、会津からの軍勢も中久喜というところに備えをしき、下へおりる通路から城中に入ることができたが、数人程度であった。そのときは何事もなく、打揚なさった。
しかし、田村衆と合流することができず、26日、またお攻めになったのだが、なかなか城の者たちが出てこないので、中の様子を窺うために、鉄砲を打ってはどうでしょうかと片倉小十郎が申し上げたので、7,800挺ほどを内側の砦にむけて、射撃をなされたのだが、城は固く守られていたので、引き上げなれました。また陣を少し近くに置かれました。
私は「明日は南の竹屋敷へ陣を移し、通路を止めるのがよいと思います。全ての軍勢を詰められてはどうでしょうか」と申し上げたところ、「そうしたら、敵の援軍が下ってきて、妨げになるだろう。そうなれば城中からも人が出てきて、両方面と戦をするのはどうであろうか」と仰せになった。
私は「そうなっても大丈夫です。竹屋敷へ陣を移せば、田村衆と合流でき、城中からきっと私の陣所に攻めてくるでしょうから、田村衆と私に任せてくださいませ。援軍と総軍とで合戦されるので、二方面の戦となっても、ご心配はない。そのうえ、援軍がもし下ってきても、難しい地形なので、合戦は簡単なものではありません。一昨日も城へ押し入りましたが、二本松衆が強く仕掛けたとしても、城内の者は心配して引き上げるでしょう」と申し上げた。
すると原田旧拙斎は「陣を移すことはまったく不要にございます。戦も大切ですが、日にちをかけて後日そのようになさるのがよいでしょう」と言った。
半分は私に同意したが、また旧拙斎のいうことに同意する者も居て、その日は城を落とすことなく、切り上げられました。

感想

青木修理の内応と小手森攻め前半になります。
青木修理が証人替をするあたり、とても興味深い展開になっています。
竹屋敷への移陣についてはまた次の章で…。

『成実記』3:二本松の状態と猪苗代盛国の内応条件

『成実記』3:二本松の状態と猪苗代盛国の内応条件

原文

一、会津へは御事切候得共。二本松境は手切もこれなく。八丁目に私親実元隠居仕候処へ。二本松義継より細々使を預り御念頃に申。其子細は会津・佐竹は御味方に仕候得共。本々より二本松・塩松は。田村へも会津へも。佐竹へも。弓箭のつのり候処へ。頼入身を持たれ候身上に候間。此度も伊達募候はば。我等親を頼み伊達へ御奉公申すべき由。義継思召御懇切候故。境目事切これなき候條。我等事は八日に大森を罷立。九日に直々政宗公御陣屋へ参伺公致し候処に。御意には二本松境如何と御尋候。先以静に御坐候。義継も大事に思召候哉。打絶てず親処へ遊佐下総と申者。我等親久敷懇切に候間。彼者を使に預り。又飛脚とも預り候。彼境は御心次第に事切れ仕るべき由申上候得は。御前之人を相払われ。会津へ之御事切之段々。原田左馬助合戦に負候様子残りなく仰聞かされ候。会津に御奉公之衆これなく候而。何方も大切処に候間。成られるべく様これなく候間。御人数相返され定而昨日人数に会い申すべき由御意候而。二本松境は先沈め申すべく候。両口之事切は如何之由御意候。我等申上候は。会津に御奉公の衆御坐無く候共。稲苗代弾正をからくり見申すべき由申上候得は。手筋も候哉と仰せられ候間。羽田右馬之助と申者。稲苗代家老に石部下総と申者へ。筋御坐候而別而懇切に御坐候。此度召連伺公仕候由申候へば。即右馬助召し出され稲苗代に其身好身之有る由。聞こし召され候間状を相調越申すべき由仰せ付けられ候條。御前に於いて状を認め申候。我等片倉小十郎・七宮伯耆状をも。相添申すべき由仰せられ候由之間。何も状を出申候。此状は檜原より稲苗代へは三十里候間。是より遣わさるべく候返事は大森へ差し越されるべく候間。早々罷り帰るべき由御意成られ候。拙者申上候は。今日は人馬も草臥日も早詰り候間。明日罷帰度由申上候得は。二本松境を御心許思召候間。此方に居候而御用なく候間。一刻も急ぎ罷り帰るべく候由御意候條。檜原を日帰にいたし罷帰候。此七宮伯耆は。久敷会津牢人に而。不断御相伴を仕御咄衆に候を。会津衆何れも存候故差添られ。左候へは四五日過候而檜原より御使と為し嶺式部七宮伯耆。大森へ差越され稲苗代より之状は。御披成られ候は合点に而御大慶成られ候。其方此口に居申候間。其口よりからくり申すべき由に而。両人遣わされ候人存ぜぬ処に。宿を申付差置。本猪苗代より罷出候。三蔵軒と申者出家を使に申付。出湯通を越申候。書状之文言は檜原よりも進候御返答披見申候。政宗へ御奉公申すべき由満足仕候。此上は望之儀も候はば承るべく候。政宗判形を進ずべく候由を申に付。弾正望之書付越申せられ候。
 一、北方半分知行に下さるべく候
 一、我等以後に御奉公申せられ候衆には。会津に於いて仕置きの如く座上に差し置かれくださるべく候。
 一、御弓箭思召様にこれなく。猪苗代を引除候はば。伊達之内に而三百貫堪忍分を下さるべき事。
右三ヶ條之外望も御坐無く候由。書状相認差越申され候に付式部伯耆は大森に逗留致。書付計檜原へ上申候。政宗公御覧成られ書付之通少も御相違者間敷と。弾正書付をば御前に差し置かれ。引除分の堪忍分。はやく御書付下さる由に而。刈田・柴田之内処を指し為され。三百貫文御書立御判差添遣はされ候。式部伯耆は御書付を我等に渡。即檜原へ罷帰候。又三蔵軒に御判を持たされ。猪苗代へ差越申候。二三日過罷帰候。御判形相渡申候。去りながら子息盛胤会津御奉公是非仕るべき由申候に付。是をいか様にも催促申候而。事切仕るべき由申越され候。一両日過候而。三蔵軒を遣し早々事切と申候様にと申候得共。盛胤一円合点申されず。家中二に分り六ヶ敷成候由申候間。事切罷り成らず候。会津口之御弓箭ならず候而。檜原に新地御築。後藤孫兵衛差し置かれ御入馬成られ候。

地名・語句など

細々(こまごま):丁重に/細やかに/ことこまかに
募る(つのる):権力や武力をふりかざして度を超えた行動をとる/いっそうひどくなる。こうじる
懇切(こんせつ):頻りに願う/非常に懇ろなこと
先ず以て(まずもって):とにかくにも/何といっても
一円:すべて、ことごとく/ひとすじに

現代語訳

会津へのことは決まったのだが、二本松との境目は関係は続いていた。八丁目城に私の親実元が隠居していたところへ、二本松の畠山義継からことこまかに使いをもらい親しくしていた。というのも、会津・佐竹は味方ではあったが、もともとから二本松と塩松は、田村へも会津へも佐竹へも戦の起こりやすいところであったので、どこかへ頼ることなく居られる所では無かったので、今回ももし伊達が戦を武力行使するのならば、私の親を頼りに、伊達へ奉公したいと義継はしきりに願っていた。
そのため、二本松の境は安全であったので、私は8日に大森を出発し、9日に直接政宗公の陣屋へ行き、伺候した。すると政宗公は「二本松との境の様子はどうであろうか」とお尋ねになった。「まったく平穏であります。義継も大変だと思っているのか、間断なく私の親の実元のところに遊佐下総という私と長らく親しくしている者がいるのですが、これを使者にし、また飛脚も来ています。二本松のことは政宗公の願いの通りにできるでしょう」と申し上げたところ、政宗公はそこに居た者たちを人払いなされ、会津への事切の詳細ー原田左馬助が合戦に負けた様子を全部お教えくださいました。
会津にこちらに奉公する者は居らず、どの方面のことも大変な状況で、どうすることもできないので、軍勢を返した。昨日はもっと軍勢を集めるべきであったとお思いであったので、二本松との境目はまず平穏でいるようしなくてはいけない。二方面での対決は難しいとお考えであった。
私は「会津にこちらに従う者は居ないようですが、猪苗代弾正盛国を策略してみてはどうでしょうか」と申し上げた。「頼みになりそうな者はいるか」と仰せになったので、「羽田右馬介という者がおります。猪苗代家の家老に石部下総という者と、関係があり、とても仲良くしております。今回羽田を連れてきております」といったところ、すぐに右馬助をお呼びになり、猪苗代に親しい者がいるときいたことをお聞きになって、書状を作り送るようご命令になりました。
そのため政宗公の前で書状をしたためました。私・片倉小十郎・七宮伯耆も差し添え状を作るようにと仰ったので、みな書状を作り、出しました。檜原から猪苗代までは30里あるので、今後送ってくる返事は大森へ送るようにするので、私は早く帰るようにとご命令になった。
私は「今日は人も馬も疲れ、日も暮れたので、帰るのは明日にしたい」と申し上げたところ、二本松との境の状況を心もとなく思われたので、「今ここに居ても用事がないので、一刻も早く急いで歟居るようにご命令があった。そのため檜原から日帰りで大森まで帰った。
この七宮伯耆というのは、長く会津にて浪人していた者だったが、普段政宗に仕え、相伴する御咄衆となっていた。会津の者たちを良く知っていたので、書状を持っていった。
すると、4,5日過ぎて、檜原からお使いとして嶺式部と七宮伯耆によって、猪苗代から大森に使わされた書状を御覧になった。結果は合意に達したので、大変大喜びなされた。そなたはこの方面に居るので、おまえの方から調略するのがよいので、二人を私のところにお遣わしになった。人が知らぬあいだに宿を申し付けて人を置き、猪苗代からやってきた三蔵軒という僧侶を使いに命じ、出湯通を越えた。書状の内容は檜原からきたご返答も見た。政宗へお仕えすると聞き、満足した。
これより望みがあれば承り、政宗の判の入った書状を送ると申し付けたところ、猪苗代弾正の書付が送られてきた。
 ①北方の半分を領地としてくださること。
 ②私のあとにお仕えすることになった者たちには会津においての仕置のときのように、上座においてほしいこと。
 ③戦が思うように行かず、猪苗代を退去するようなことになるならば、伊達家の領内にて、300貫文の生計を立てられるに足る俸禄をくださること。
この三カ条以外は望みはないというので、書状をしたため、送ることになったので、式部と伯耆は大森にしばらく滞在し、書付のみ檜原へ送りました。
政宗公はこれを御覧になり、書付のとおり、間違いなく了解したと、弾正の書付をそば近くに置き、退去するときの堪忍分についてはやく書付下さったので、刈田・柴田と定められ、300貫文の書立の判がついた書状を添えて遣わされた。式部と伯耆は書付を私に渡し、すぐに檜原へと帰っていった。また、三蔵軒に判状を持たせ、猪苗代へ送った。2,3日過ぎて帰ってきて、判状は無事届けられた。
しかしながら、猪苗代弾正盛国の子、盛胤は会津への奉公をするべきと言ったので、これをどうやって説得して事切れすべきかと言ってきた。数日が過ぎて、三蔵軒を遣わし、早く事切れせよと言ったのだが、盛胤はまったく同意せず、家中は2つに別れ、手切も難しくなったということで、関係断絶はできず、会津方面への戦は叶わなかった。
政宗公は檜原に新しい砦を作られ、後藤孫兵衛を城代として置かれ、入城なさいました。

感想

二本松の状態を成実から聞き出した政宗は、会津からの内応を望み、そのつてがないかと成実に尋ねます。家臣羽田右馬助(実景)を利用して猪苗代盛国の内応を誘いますが、子の盛胤の反対に遭い、結局は上手くいかずに終わりました(その後内応しますが)。
このあたりでよく名前が登場する七宮伯耆は政宗に仕えていましたが、その後成実の家中に入り、野路嘉左衛門の家系となったことが、『亘理世臣家譜略記』に書かれています。また、フォロワーの三浦介さんによると、七宮伯耆の兄は蘆名盛氏の懐刀だったという伝承がある智将・七宮自然斎なのだそうです。
不思議なつながりですねえ。

『成実記』2:大内氏の対応と猿倉越の敗戦

『成実記』2:大内氏の対応と猿倉越の敗戦

原文

一、天正十三年正月に成。大内備前申上候は。雪深普請成難く候間。御暇申請罷帰妻子を召連。支度をいたし伺公申すべく候。其上数年佐竹・会津御恩賞相請候。御礼をも申上度と申候に付。御暇下され其後雪消候へども罷登らず候。之に依指南遠藤山城より罷登べく候由。度々申遣と雖参らぬる後には。何と御意候共伺上申間敷由申払候。大内御退治成られ候へば。会津・佐竹・岩城・石川近年仰組られ候御一党に候間。御敵に成らるる事輝宗公御笑止に思召され。大内伺公申様に御異見成さるべしと思召候而。宮川一毛斎五十嵐蘆舟斎両使を以て。御意には罷登然るべく候。田村へ之御首尾を以てヶ様に仰られ候間。其身命知行少も気遣申間敷候。輝宗公御請取成られ候由。仰遣され候得共。御意は過分乍斯如申上候上は。縦滅亡に及候共。伺公申間敷由御返事申候。又重而片倉意休斎・原田休雪斎両使を以。仰下さるるは気遣申処尤に思召候。左様に候はば人質を上申すべく候。其身罷登らず候共。政宗公へ御訴訟成られ下さるべく候由。仰遣され候得共。何と御意候共人質をも。上申間敷候由申払候。大内親類・大内長門と申者。米沢へも節々使者に来。御親子共に御存知候者に候。後は我斎と申候。彼者休雪・意休に向て。政宗公大内御退治は思いよらぬも候由に而。散々悪口致候に付。両人之御使腹を立其方共米沢へ相上候歟。御退治歟末を見候得とて罷帰。則其段披露致候御父子共口惜思召御坐なられ候。然るに政宗公原田左馬助・片倉小十郎。を召し出され御意ならるるは。会津より使者大内備前御赦免候而。米沢へ遣わさるべく候はば。此方に於いて介抱有間敷由理に而。扨又内々は会津より之御底意を以。申払候由聞こし召され候も。何迚大内一人に而敵仕るべき哉。会津に於いて御表裏御無念思し召され候條。会津へ御事切なられ度候。併何方も大切所に候間。会津之内に御奉公仕るべきは一両人も候共。御弓矢成られ度思召候由仰出られ候。左馬助申上候は。会津よりは一段年頃之御使者に而。大内備前申払候事不審之由存候由は。扨は会津より之御底意を以て申払候哉。是非なき事に候哉。会津牢人に候彼者を。差越一両人も御奉公申様にからくり申すべき由申上候。政宗公御意には左様之才覚も。在候者に候哉と御尋ね成られ候得は。底意は存申さず当座才覚は能者に御坐候。其上御奉公之儀に候間。如在は仕間敷候由申上に就。左候はば申付べき由御意に而差越候処に。会津北方に柴野弾正と申者。御奉公仕るべくと申上候。其外も二三人同心候方御坐候。当方へ御出馬に於いては事切仕るべき由申候に付。五月二日に。原田左馬之助を猿くら越と申難処を越。弾正処へ差し越され候処に。弾正城も持ち申さず少抱能屋敷に居候而。手替仕候処。左馬助罷越火の手を揚候処。会津衆殊之外取乱候。方々より人数助来候得共。何も替候哉と気遣申候に。右からくりの使太郎右衛門。又会津之人数へかけ籠候而。替衆は弾正一人にて。左馬助無人数に而。一頭越候由申に付而。其時会津衆心安処一戦仕候間。左馬助敗軍致し与力家中数輩討死。弾正妻子共に召連引除候。政宗公三日に檜原へ御出馬成られ。檜原は即ち御手に入候得共。御隠密候御手切故。長井之御人数計召連られ惣御人数参らず候間。御陣触成らるる御人数参候を。相待たれ同月八日に。大塩へ御働成られ候得共。会津之惣人数大塩城に籠置堅固に相抱。大切処に而大塩の上の山迄は。日々御働き成られ候。下へ打さけられべき地形も之無き処に。城御坐候間近々と御働成られ候得共。人数之備を取らず地形も之なき大山に而路一筋に候故。檜原を引離さぬ様細道一筋にて罷り成らず、一働き成さるる不背之衆は相返され、檜原に御在馬成られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、天正13年正月になり、大内備前が「雪が深く、屋敷の工事が難しいので、暇をくださって帰り、妻子を召し連れて支度をして奉公したく思います。それに、数年佐竹と会津の恩賞をもらっていました。その御礼もしたいのです」と言ったので、政宗公は猶予を与えられたが、その後雪が消えても大内は参上しなかった。
このため、指南役である遠藤山城基信より、参上すべきであるということを言って使わしたが「なんと命令されようとも、伺いにあがることはない」と言い放った。
大内定綱を討とうとすれば、会津・佐竹・岩城・石川が最近同盟を組んでいるので、その敵となることを輝宗公は大変なことだと思われ、大内定綱が伺いに来るように言って聞かせようと思われて、宮川一毛斎・五十嵐蘆舟斎の二人の使いを遣わし、命令に応じて参上するようにと伝えた。田村とのもめ事についてもこのように仰せなので、その身代や知行については少しも心配することはないと輝宗公が引き受けなさったことを言って使わしたのだが「お心は身に過ぎるが、このように申し上げた以上は、たとえ滅亡することになっても、伺候することはない」と返事が返ってきた。
また、さらに片倉意休斎・原田休雪斎を使わし「心配するところはもっともである。そうであれば、人質を送ってくるならば、本人は参上しなくとも、政宗へとりなしてやろう」と言って遣わされたのだが、「なんと言われても、人質もさし上げることはしない」と言い放った。
大内定綱の親類で、大内長門と言う者は米沢にも折々使者に来て、輝宗も政宗もよく知っている男であった。のちには我斎と名乗っていた。この者が休雪斎と意休斎に向かって「政宗公は大内退治はできないだろう」とさんざん悪口を言ったので、二人の使いは腹を立て、「おまえたちは米沢へくるか、先がどうなるかを見ていろと帰ってきて、すぐにそのことを伝えたところ、輝宗・政宗親子ともに悔しくお思いになった。
ならばと政宗公は原田左馬助宗時と片倉小十郎景綱をお呼びになり、お話になった。会津よりの使者が大内定綱を赦し、米沢へ遣わすならば、こちらにて面倒を見てやる道理はない。しかしまた内々に会津からの内意を受けて、こちらを断ってきたのだとお聞きになっても、大内一人で敵になるなどということがあるだろうか。会津に対しても態度の違いに悔しく思われたので、会津と手切をしたいと思われた。
しかし何といっても攻めるに難しいところであるので、会津の衆の中に寝返りするような者がひとりかふたりでもいたなら、合戦したいとお思いであることを仰った。
左馬助は「会津からの使者はひとしお仲良くしている使者ですから、大内備前がこちらを断ってきたことはおかしなことだと思います。もしかしたら、会津からの内々の命で断ってきたのではないでしょうか。仕方ないことではないでしょうか。会津の牢人である誰かを送り、一人二人が寝返るよう、調略すべきかと」と言った。
政宗公は「そのような才覚があるものはいるだろうか」とお尋ねになったので「内心はさておき、さしあたりの才覚はよい者がおります。そのうえお仕え申し上げるのであれば、抜かりなくできる者でございます」と言った。
ならば連絡しろと政宗公が仰ったので、連絡を取ったところ、会津の北方に柴野弾正と言う者が寝返るであろうと左馬助は言った。
「他にも2,3人同じように考えている者がおります。こちらへ来られるときには、手切をするよう言ってあります」と言ってきたので、5月2日に、原田左馬助宗時を猿倉越という難所を通り越し、柴野弾正のところへ遣わしたところ、弾正は城も持たず、少数の兵だけ持ち、良い屋敷におり、反逆したところ、左馬助が来て、火の手を上げた。
会津衆は大変取り乱し、あちこちから援軍がきたのだが、誰が裏切ったのかと心配していた。この調略の使いをしていた太郎右衛門がまた会津の手勢へ駆け込み、裏切ったのは弾正一人で、左馬助は兵を持たず、一頭で来たのだと言ったので、会津衆は安心して一戦を仕掛けた。
左馬助は負け、与力・家中の数名が討死した。弾正は妻子たちをつれて退いた。
政宗は3日に檜原へお越しになり、檜原はすぐに手に入ったが、秘密裏の手切であったので、長井の手勢のみ連れてこられ、すべての軍が来ることはできなかった。命令なさった軍勢が参るのを待たれ、同月8日に大塩へ兵を出されたのだが、会津衆は全て大塩城に籠もって、固く守りを固めていた。大変難しい攻め所であるので、大塩の山の上まで毎日のように兵を出された。下に避けるべきところもない場所に城があったので、近くまで兵を出されたが、備えを置く場所もない大山で、道は一筋だった。檜原を失わぬよう細い道一筋であったため、戦闘することはできず、一戦した援軍は返されて、政宗公は檜原にご滞在なされた。

感想

『伊達日記』の1・2章とがひとつの章になっているのですが、あまり違わないかと思っていましたら、使いが大内氏を尋ねたところの会話や、調略のやりとりなどの詳細が『伊達日記』の方が詳しいですね。
だいたいのところは同じなのですが、少しずつ違いがあります。
これについてはちょこちょこ見ていきたいところです。

『成実記』1:政宗の家督相続と大内定綱

『成実記』1:政宗の家督相続と大内定綱

原文

一、輝宗公御代々。佐竹・会津・岩城・石川。何も御好身半にて御入魂也。右各数年田村へ御弓箭成られ。清顕公御手つまりに成候。政宗公之御舅に御坐候得共。輝宗御代故是非に及ばず御坐成られ候。然る処に。政宗公御十八之天正十二年十月。御代を御受取成られ候。之に依方々より御祝儀之御使者参候に。塩松之主大内備前も伺公致し。政宗公御意には。大内事代々伊達を頼入候由聞召及ばれ候処。近年は左様に之無く候條。此儘米沢に相詰申すべき由仰出され候。大内申上候は。忝き御意と申我等親之代より。御奉公仕候得共。近年伊達御領御弓矢に付而。田村を頼入候処に。少々之儀を以御意にかかり。其後会津佐竹を頼入御介抱を以身上相続候故。唯今より米沢相詰御奉公仕るべく候間。屋敷を申し受け妻子引越申すべき由申上。其の年は米沢にて越年仕候。

語句・地名など

好身:誼/親しい交わり、それによる好意や親しみ
入魂:昵懇/仲が良いこと

現代語訳

一、輝宗公の時代、佐竹・会津・岩城・石川の諸氏はいずれも交流があり、仲良くしておられた間柄であった。この諸氏はこの数年、田村氏と戦を始められており、田村清顕公はすることができず困っておられた。政宗公の舅であったのだが、輝宗公がご当主であったので、やむを得ない状況であった。
ところが、政宗公が18歳の天正12年10月、家督を相続されたので、あちこちからお祝いの使者が来たところ、塩松の領主大内備前(定綱)も機嫌伺いに参上した。
政宗公は、大内は代々伊達を頼みにしていたと聞くが、最近は交流がなくなっていたので、このまま米沢に滞在してはどうかと言い出された。
大内定綱は忝い御言葉であるといい、「私の父の代から伊達家に奉公しておりましたが、最近は伊達家の中での争いがあったため、田村を頼りにしていたのですが、小さな諍いがあって勘気を蒙ったので、その後会津・佐竹を頼み、保護していただき、領地を存続させておりますので、ただいまから米沢に在住して、お仕えしたいと思います。なので、屋敷をいただき、妻子を引きつれて来ようと思います」と申し上げた。
大内定綱は、その年は米沢にて年を越した。

感想

今回から、仙台叢書版の『成実記』の原文をあげていきたいと思います。
大体のところは同じなのですが、ところどころ文字や語句の違いがあります。
一番単純な違いを言いますと、この段落はひとつの記事の量が少ないですね。

『成実記』仙台叢書版・目次

『成実記』仙台叢書版
各章の数字およびタイトルは当ブログで便宜上つけたもので、原文にはありません。

解題

(仙台叢書3巻207p『成実記』解題)

原文

本書は、仙台開闢第一の功臣たる伊達安房成実が、十七八歳の少年時代より、一年上なる藩祖政宗卿の股肱となり、千軍万馬の間に駆馳し、一生百死の地に往来し、自ら閲歴したる事実、すなわち天正十二年十月政宗卿が家を承られたる時より筆を起し、慶長五年六月、白石城を陥落するに至る迄の、樽俎折衝戦闘攻伐の実況を記したるものなれば、修史の好材料として史家の嘖々称揚する所なりとす。但白石落城以後の記事は何人の手に成りしものなるや明かならず。是れ或いは其臣僚の筆記したるなるべし。
成実藤五郎と称し、のち安房と称す。伊達本宗左京大夫稙宗朝臣の第六子、兵部少輔実元の子なり。人となり英毅剛明三徳を兼ね、政宗卿に奉仕し、結髪軍に従ひ、伊達氏中興の偉業を翼賛せり。仙道再度の合戦は、伊達氏安危存亡の繋る所、成実縦横奮闘敵軍終に大に敗れ、七雄をして顔色なからしむ。是れ勇ならずや。又一兵を用ゐず猪苗代盛国大内定綱片平重綱等を降致したるは智ならずや。白根沢某が不臣の罪を尤めず、却て之を薦て大将となして其能を発揮せしむ是れ仁ならずや。後故あり奔る徳川上杉二氏厚禄を以て之を招く従わず。政宗卿百方招諭するに会し、茲に至て来帰し後二万五千石を領し亘理城を治め、一門に列せり。正保三年六月四日歿す。年七十九亘理町大雄寺に葬る。裔孫邦成北海道胆振有珠郡伊達村拓殖の功に依り、華族に列し男爵を授けらる。蓋し積善の余慶子孫に及ぶもの非か。

現代語訳

この本は、仙台を開いた第一の功臣である伊達安房成実が、17,8歳の少年時代から、ひとつ年上である藩祖政宗卿の股肱の臣となり、戦場を駆け、ほとんど生き残ることのできない地を渡り、自ら見た事実ーすなわち天正12年10月政宗卿が家督を相続されたときから書き始め、慶長5年6月白石城を落とすに至るまでの外交上の駆け引き、戦いのようすの実際の様子ーを記したものであるので、歴史書を編纂するに当たってのとてもよい史料であるとして、歴史家が盛んに褒めたたえる理由である。
ただし、白石落城以後の記事は、誰の手によって書かれたものであるか、明らかではない。あるいはその家臣が書き残したものだろう。
伊達成実は藤五郎と名乗り、のち安房と名乗った。伊達本家左京大夫稙宗の第六子である兵部少輔実元の子である。人柄は気性が強く、明るく、三つの徳を兼ね備えていた。政宗公に仕え、元服して戦に従い、伊達氏中興の偉業を助けた。
仙道での二度の合戦は、伊達氏の存亡のかかったものであったが、成実は自由自在に奮闘し、敵軍はついに大敗し、敵の七人の将の顔色を失わせた。これは勇ではないことがあるだろうか。また一兵も使わずに猪苗代盛国・大内定綱・片平重綱などを味方に寝返らせたことは智ではないことがあるだろうか。
白根沢某という男の、不忠の罪を咎めず、逆にかれを推薦して大将としてその能力を発揮させた。これは仁でないことがあるだろうか。
その後、理由があって出奔するが、徳川・上杉の二氏が高禄を以て誘ったが、それに従うことはなかった。政宗卿があらゆる手段をもちいて招き寄せて諭したところ、ついに帰参し、その後2万5千石を領地として、亘理城を治め、一門に名を連ねた。
正保3年6月4日、没す。享年79、亘理町の大雄寺に葬られる。子孫の邦成は北海道胆振有珠郡伊達村の開拓殖民の功のため、華族になり、男爵となった。まさしく善行の積み重ねが先祖から子孫に及んだものであろう。

参考文献蔵書目録

蔵書目録(20130730更新)

注:
こちらのリストにある参考書籍は「自分の所有」を示すのみで、「すべてを読んだ/読んでいない」「その考えを支持/反対している」「好/悪の感情を持っている」などを示すものではないことをご了承ください。
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分類については、便宜上のもので、明確な区別があるものではないことご了承ください。

 

史料・市町村史:

『政宗記』:伊達史料集上
『伊達日記』:群書類従21輯 合戦記
『成実記』:『仙台叢書』版
『政宗公軍記』:『国史叢書』51
『名語集』:宝文堂版/仙台叢書版
『仙台志料』国会図書館デジタルアーカイブ
『伊達家治家記録』性山公/貞山公/義山公
『伊達世臣家譜』
『亘理世臣家譜略記』
『伊達史料集』人物往来社
『本源自性院記』:近衛信尋の日記
『氏郷記』:『史籍集覧』収録
『蒲生氏郷記』:『史籍集覧』収録
『蒲生氏郷記』:『群書類従』収録
『蒲生軍記』:『国史叢書』収録
『政宗文書補遺』市史せんだい
伊達邦宗『伊達家史叢談』今野印刷/2001
『伊達小史』『伊達町史』
『伊達政宗卿伝記史料』藩祖伊達政宗公顕彰会/
『伊達家重臣遠藤家文書・中島家文書~戦国編~』
『伊達氏重臣遠藤家文書 戦国編2』
『群書類従 第二十一輯 合戦部』八木書店/1960
『古典文庫 伊達政宗公集』
『国史叢書 会津四家合考』
『三春町史7』
『新稿 伊達町史 上・下』
『新地町史 資料編』
『仙台市史特別編7 城館』
『仙台市史資料編9 仙台藩の文学芸能』
『仙台市史資料編 伊達政宗文書1~4』
『米沢市史 古代・中世史料』
『明良洪範』
『綿考輯録1~5 出水叢書1~5』汲古書院/1989~1990
『涌谷伊達家の家臣名簿』涌谷町教育委員会
『涌谷町史』
『白石市史』
『亘理小史』
『亘理町 伊達成実公亘理入府四百年記念 伊達成実』/
『亘理町史 現代編・民俗編』
『亘理町史』第三編 徳川時代の亘理 第一章 伊達成実/
野村紘一郎『白石家戦陣略記-登米伊達戦国合戦録- 登米藩史料第三集』日野廣生/2017
野村紘一郎編『白達記(全) 登米伊達伝承録』登米藩史料第二集/2004
藩祖伊達政宗公顕彰会『伊達政宗卿伝記史料』文献出版/1978
藩祖伊達政宗公顕彰会編『伊達家治家記録 性山公・貞山公』/1938
亘理町史編纂委員会編『亘理町史・上』宮城県亘理郡亘理町/1975
 
書籍:
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J・F・モリス『仙台藩「留主居」役の世界』蕃山房/2015
『ふくしまの歴史2・3』
『みちのく政宗公絵物語』支倉出版
『伊達騒動と伊達安芸宗重』涌谷町教育委員会
『蝦夷がちしまの雪のあけぼの(伊達町史余話)』伊達町文化教会/1969
『朔北に挑む-伊達氏族の移住と開拓-』伊達市/1980
『新・歴史群像シリーズ 伊達政宗』学習研究社/2009
『図説 伊達政宗』河出書房新社/1986
『仙台藩歴史事典 改訂版』
『戦国武将年表帖 中・下』ユニプラン/2011
『能楽名演集 葵上・実盛』DVD/NHKエンタープライズ/2007
『北海道伊達市大雄寺所蔵 亘理伊達家中諸家文書目録 附伊達市蔵「奥州相馬野馬追図屏風」』
エンリーケ・コルテス『近代メキシコ日本関係史』現代企画室/1988
トマス・D・コンラン『図説 戦国時代 武器・防具・戦術百科』原書房/2013
メルバ・ファルク・レジェス/エクトル・パラシオス『グアダラハラを征服した日本人』現代企画室/2011
阿部幹男『東北の田村語り』三弥井書店/2004
安彦好重『新奥羽永慶軍記 会津の巻』歴史春秋社/2002
伊達宗弘・伊達君代『仙台藩最後のお姫さま-北の大地に馳せた夢-』新人物往来社/2004
伊達宗弘『武将歌人伊達政宗』ぎょうせい/2002
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紫桃正隆『仙台領の戦国誌-葛西大崎一揆を中心とした-』宝文堂/1976
紫桃正隆『仙台領戦国こぼれ話』宝文堂/1977
小井川百合子編『伊達政宗言行録-木村右衛門覚書-』新人物往来社/1997
小倉博編・高橋富雄新訂『伊達政宗言行録-政宗公名語集-』宝文堂/1987
小沢詠美子『江戸時代の暮らし方』実業之日本社/2013
小豆畑毅『陸奥国の中世石川氏』岩田書院/2017
小林清治『人物叢書 伊達政宗(新装版)』吉川弘文館/1985
小林清治『伊達政宗の研究(新装版)』吉川弘文館/2017
小林清治『伊達騒動と原田甲斐』吉川弘文館/2015
小林清治『奥羽仕置と豊臣政権』吉川弘文館/2003
小林清治『奥羽仕置の構造』吉川弘文館/2020
小林清治『戦国期奥羽の地域と大名・郡主』岩田書院/2018
小林清治『戦国大名伊達氏の研究』高志書院/2008
小林清治『戦国大名伊達氏の領国支配』岩田書院/2017
小林清治『中世南奥の地域権力と社会』岩田書院/2001
小林清治校注『伊達史料集上下 戦国史料叢書10・11』人物往来社/1967
小林千草『伊達政宗、最期の日々』講談社/2010
小林千草『太閤秀吉と秀次謀叛-「大かうさまぐんき」-』筑摩書房/1996
小和田哲男・高橋伸幸『戦国の合戦と武将の絵事典』成美堂出版/2017
小和田哲男『史伝 伊達政宗』学研プラス/2000
庄司恭『伊達政宗と刀 仙台刀工史話』宮城地域史学協議会/1993
上條久枝『柳絮漂泊行記 スペインからローマまで 支倉常長の旅をたどる』求龍堂/2014
新野直吉『古代東北日本の謎』大和書房/1988
神田千里『宗教で読む戦国時代』講談社/2010
須藤春峰『東北中世史 岩城氏とその一族の研究』白銀書房/1975
須藤春峰『東北中世史 続編伊達岩城氏と中山岩城氏』白銀書房/
菅野俊輔『江戸・戦国のくずし字文書入門』扶桑社新書/2019
菅野正道『せんだい歴史の窓』河北アド・センター/2011
菅野正道『伊達の国の物語』プレスアート/2021
生形貴重『伊達政宗と茶の湯』教育評論社/2023
西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』東京堂出版/2015
青山正・青山操『仙道田村荘史』青山やそ/1930
仙台郷土研究会『政宗博物誌』創童舎/1987
仙台郷土研究会編『新版 仙台藩歴史用語事典』
仙台市博物館編『図説 伊達政宗』河出書房新社/
仙台市民図書館編『要説 宮城の郷土誌』宝文堂/1983
仙台叢書1・3・11巻
川村要一郎『白石城主片倉氏と家臣の系譜』創栄出版/1997
戦国史研究会編『戦国期政治史論集 東国編』岩田書院/2018
浅野建二校注『新訂閑吟集』岩波文庫/1989
箭内五郎『陸奥田村の庄 田村氏伊達氏』東洋出版/2019
大須賀筠軒『磐城史料稿本 復刻版』ヨークベニマル/1994
大石学・時代考証学会編『伊達政宗と時代劇メディア』時代考証学会/2016
大石泰史編『全国国衆ガイド』星海社/2015
大泉光一『キリシタン将軍伊達政宗』柏書房/2013
大泉光一『伊達政宗の密使-慶長遣欧使節団の隠された使命-』洋泉社/2010
大泉光一『支倉六右衛門常長「慶長遣欧使節」研究史料集成1~3』雄山閣
大泉光一『政宗の隠謀』大空出版/2016
大泉光一『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』文藝春秋/2017
大泉光一『歴史研究と「郷土愛」-伊達政宗と慶長遣欧使節-』雄山閣/2015
大泉光一『捏造された慶長遣欧使節記』雄山閣/2008
大槻文彦『伊達騒動実録 上・下』名著出版/1970
只野信男編『新・みちのく古代史紀行-七つ森は語る-(宮城県黒川郡)』宝文堂
池上良太『図解 日本の装束』新紀元社/2008
竹井英文『戦国の城の一生』吉川弘文館/2018
竹内勇太郎『伊達政宗 物語と史蹟をたずねて』成美堂出版/1975
中川学『仙台・江戸学叢書30 仙台藩の武士と儀礼-年中行事を中心として-』
中田正光『伊達政宗の戦闘部隊』洋泉社/2013
中尾尭・三上昭美・村上直編『日本史論文の書きかた』吉川弘文館/1992
渡辺信一郎『江戸の色道』新潮社/2013
渡辺信夫『東北の街道 道の文化史いまむかし』無明舎出版/1998
渡邊大門『謎とき 東北の関ヶ原』光文社/2014
渡邊洋一『仙台・江戸学叢書20 仙台の出版文化』大崎八幡宮
土生慶子『伊達氏の源流の地』宝文堂/1994
東北大学日本史研究室編『東北史講義【近世・近現代篇】』ちくま新書/2023
東北大学日本史研究室編『東北史講義【古代・中世篇】』ちくま新書/2023
藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版/2011
藤原優太郞『東北の峠歩き』無明舎出版/2004
藤木久志・伊藤喜良編『奥羽から中世を見る』吉川弘文館/2009
読売新聞東北総局編『白石城物語』清水書院/1995
南奥羽戦国史研究会『伊達政宗 戦国から近世へ』岩田書院/2020
南奥羽戦国史研究会『伊達天正日記 天正十五年』岩田書院/2018
日墨協会/日墨交流史編集委員会編『日墨交流史』PMC出版
日本の食生活全集宮城編集委員会『日本の食生活全集 聞き書宮城の食事』農山漁村文化協会/1990
日本の食生活全集宮城編集委員会『日本の食生活全集 聞き書福島の食事』農山漁村文化協会/1987
日野愛憙『片倉家北海道移住顛末』/2015
入間田宣夫『仙台・江戸学叢書76 平泉と仙台藩』大崎八幡宮
入間田宣夫『中世奥羽の自己認識』三弥井書店/2021
能仁晃道『訓注 虎哉和尚語録』覚範寺/2010
白井孝昌『伊達政宗グラフティー』新人物往来社/1987
白根靖大編『室町幕府と東北の国人』吉川弘文館/2015
八切止夫『真説・原田甲斐』文藝春秋/1972
八切止夫『武家意外史 伊達政宗は女で男』日本シェル出版/1983
飯田勝彦『伊達軍団の弓取りたち』あずま書房/1985
飯田勝彦『伊達政宗とその武将たち』新人物往来社/1986
飯田勝彦『伊達政宗と片倉小十郎』新人物往来社/1987
福田千鶴『御家騒動-大名家を揺るがした権力闘争-』中央公論新社/2005
福島県高等学校地理歴史公民科研究会『福島県の歴史散歩』山川出版社/2007
福島県文化財調査報告書第197集『福島県の中世城館跡』/1988
平山優『戦国の忍び』角川新書/2020
平山優『戦国大名と国衆』KADOKAWA/2018
平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』戎光祥出版/2015
平山優『武田氏滅亡』角川選書/2017
平川新『〈伊達騒動〉の真相』吉川弘文館/2022
平川南『東北「海道」の古代史』岩波書店/2012
米原正義『戦国武将と茶の湯』淡交社/1986
保角里志『戦国山形の合戦と城』無明舎出版/2022
綿抜豊昭『仙台・江戸学叢書11 政宗の文芸』大崎八幡宮
綿抜豊昭『戦国武将と連歌師』平凡社/2014
綿抜豊昭『戦国武将の歌』笠間書院/2011
茂木裕樹『仙台・江戸学叢書38 仙台藩の刀工』大崎八幡宮
野本禎司・藤方博之『仙台藩の武家屋敷と政治空間』岩田書院/2022
柳谷慶子『江戸のキャリアウーマン』吉川弘文館/2023
鈴木栄一郎・千坂庸夫『文武名将伊達政宗卿詩歌要釈』仙台扶搖会/1935
鈴木岩弓・田中則和編『講座東北の歴史 第六巻 生と死』清文堂出版/2013
鈴木啓『ふくしまの城』歴史春秋出版/2002
鈴木啓『図説 江戸城の石垣』歴史春秋出版/2019
鈴木省三『仙台風俗志 全』歴史図書社/1977
鈴木眞哉『戦国合戦のリアル』PHP研究所/2021
濱田直嗣『政宗の夢 常長の現』河北アド・センター/2012
齋藤荘次郎『伊達政宗公』金港堂書籍/1925
 

キリスト教系:

海老沢有道『日本キリシタン史』塙書房/1966
只野淳『みちのくキリシタン物語』春秋社/1990
西村貞『キリシタンと茶道』全国書房/1948
レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』上中下/岩波書店/1938
神田千里『宗教で読む戦国時代』講談社/2021
山本博文『殉教-日本人は何を信仰したか-』光文社/2009
 浅見雅一『キリシタン教会と本能寺の変』角川新書/2020
紫桃正隆『仙台領キリシタン秘話 興隆編』宝文堂/
紫桃正隆『仙台領キリシタン秘話 衰滅編』宝文堂/
尾原悟編『きりしたんのおらしよ』教文館/2005
フーベルト・チースリク『キリシタン史考』聖母文庫/2009
五野井隆史『キリシタン大名』宮帯出版社/2017
 

近隣他家について:

粟野俊之『最上義光』日本史史料研究会/2017
保角里志『最上義光の城郭と合戦』戎光祥出版/2019
藤田達生『蒲生氏郷』ミネルヴァ書房/2012
図録『特別展 佐竹氏』茨城県立歴史館
只野淳『みちのくキリシタン物語』春秋社/1990
振角卓哉『蒲生氏郷伝説』サンライズ出版/2021
横山高治『蒲生氏郷と家臣団』歴研/2006
今村義孝『蒲生氏郷』吉川弘文館/2015
瀬川欣一『蒲生家盛衰録 上・中・下』石岡教文堂/1982
福島県文化振興財団『直江兼続と関ヶ原』戎光祥出版/2014
寺脇丕信『近江が育んだ九二万石の大名 蒲生飛騨守氏郷とキリスト教』講談社エディトリアル/2018
林哲『会津芦名四代』歴史春秋社/1982
『近江国古文書志4 蒲生郡編・上』
伊藤清郎『人物叢書 最上義光』吉川弘文館/2016
高橋富雄『蒲生氏郷のすべて』新人物往来社/1988

幕末・明治開拓について:

遠藤由紀子『近代開拓村と神社』御茶の水書房/2008
小山内忠司『エゾ地移住の旅』サッポロ堂書店/2015
木村紀夫『仙台藩の戊辰戦争 幕末維新人物録』荒蝦夷/2018
北海道高等学校日本史教育研究会『北海道の歴史散歩』山川出版社/2006
北海道史研究協議会『北海道史事典』北海道出版企画センター/2016

創作:

『戦国武将BLアンソロジー 伊達政宗』双葉社/2009
『独眼竜政宗 NHK大河ドラマ・ストーリー』日本放送出版協会/1987
いわき市編『マンガ「いわきの歴史から」久保姫の時代 上・下』いわき市/1996
すぎたとおる『コミック版日本の歴史 伊達政宗』ポプラ社/2010
なかにしえいじ『伊達政宗 天に昇る独眼竜』講談社/2016
ジェームス三木『龍の血』徳間書店/1992
ジェームス三木脚本『独眼竜政宗 上・中・下』曜曜社/1987
阿部川キネコ『姫武将政宗伝 ぼんたん!! 全5巻』幻冬舎コミックス/2007~2011
井口朝生『伊達政宗』/富士見書房/1990
永岡慶之助『片倉小十郎と伊達政宗』学陽書房/2011
榎本編『戦国”漢”絵巻 ver.関ヶ原』学研プラス/2010
岩井三四二『政宗の遺言』エイチアンドアイ/2018
吉川永青『時限の幻』幻冬舎/2012
吉川永青『龍の右目 伊達成実伝』角川春樹事務所/2019
近衛龍春『伊達の企て』毎日新聞出版/2016
近衛龍春『伊達成実』PHP研究書/2010
古内泰生『政宗が殺せなかった男 秋田の伊達さん』現代書館/2014
香川真弓『独眼竜政宗』扶桑社/1987
高橋なの『Dandy Dragon』みのり書房/1990
高橋なの『Dandy Dragon&Spring Tiger』司書房/2006
高枝景水『学研まんが人物館 伊達政宗』小学館/2018
今市子他『無頼コミック 伊達政宗 戦国REMIX』松文館/2010
佐々木ひとみ『伊達政宗』岩崎書店/2020
佐々木ひとみ『兄ちゃんは戦国武将!』くもん出版/2018
佐藤厳太郎『伊達女』PHP研究所/2020
佐藤厳太郎『会津執権の栄誉』文藝春秋/2019
山岡荘八『伊達政宗』講談社/1986
小川由秋『伊達三代記』PHP研究所/2008
松永義弘『伊達政宗』あかね書房/1981
松本清張『奥羽の二人』講談社/1986
上田秀人『鳳雛の夢』光文社/2014
森みつ『カリガネ 全2巻』新潮社/2017・2018
星亮一『伊達政宗 秀吉家康が一番恐れた男』さくら舎/2014
西野辰吉『独眼竜政宗』/富士見書房/1986
千葉真弓『ファシクラ伝』宝文堂/1992
千葉真弓『独眼竜政宗 1~2』プレスアート/2022~2023
早乙女貢『独眼竜政宗』東京新聞出版部/1979
早坂義征『北の湘南誕生』
大山夏輝『月風』文芸社/2010
中津文彦『政宗の天下 上・下』光文社/2000
長谷川つとむ『伊達政宗』PHP研究所/1997
堤芳貞『弦月に哭く-伊達政宗於慶長出羽合戦-』KADOKAWA/2013
堤芳貞『三日月竜異聞』松文館/2011
田中克樹『バリエンテス 伊達の鬼片倉小十郎』徳間書店/2011~2012
童門冬二『新装版 蒲生氏郷』学陽書房/2008
楠木誠一郎『伊達政宗は名探偵!!』講談社青い鳥文庫/2014
浜野卓也『伊達政宗』講談社火の鳥伝記文庫/新装版2018
本庄陸男『石狩川』新日本出版社/1992
矢部健太郎『ビジュアル歴史人物伝 伊達政宗』西東社/2017
隆慶一郎『捨て童子・松平忠輝』/1990
國井一之『種まき桜・縁起』日本文学館/2009
 

論文:

安田初雄「近世初頭における米沢、福島および大森城下の歴史地理的管見」東北地理vol.38No.2/1986
蝦名裕一「慶長大津波と震災復興」季刊東北学no.29/2011
蝦名裕一「大名の学問活動と『明君』意識-仙台藩を事例に-」『講座東北の歴史第六巻生と死』清文堂/2013
佐藤貴浩「伊達領国の展開と伊達実元・成実父子」戦国史研究65/2013
佐藤貴浩「戦国期国分氏家中の動向と伊達氏」駒沢史学71/2008
佐藤貴浩「大内定綱の動向と伊達氏」『戦国期政治史論集東国編』岩田書院/2017
佐藤貴浩「留守政景と伊達氏」駒澤大学大学院史学論集/駒澤大学大学院史学会編/2007
山邊進「仙台藩亘理伊達家の蔵書と郷学日就館」日本漢文学研究 (二松学舎大学21世紀COEプログラム「日本漢文学研究の世界的拠点の構築」)No.2/2007
松林靖明「戦国軍記における体験談-『伊達日記』と『山口道斎物語』-」古典遺産 (59) 2009-12 p.1~12/2009
深沢智成「安永の政変と亘理伊達家-『亘理伊達家史料』の分析を中心に-」人文論究No.81/2012
石田洵「摺上原合戦の物語化-『天正日記』『成実記』『政宗記』をめぐって-」東北文学の世界 (17), 1-11,/ 2009
中川学「大名の死をめぐる頭髪規制の展開-月代に関する町役人の願書から-」『講座東北の歴史第六巻生と死』清文堂/2013
畠山和久「伊達政宗と蒲生氏郷の対立について-奥羽仕置前後における領主の動向-」
表章『喜多流の成立と展開』平凡社/1994:第四章「古七大夫の芸風と人柄」第四節「古七大夫節付け謡本をめぐって」 三「伊達市開拓記念館蔵二番綴本-伊達安房本-」
野崎準「東国武士の技術文化」東北学院大学東北文化研究所紀要22/1992
野崎準「東北戦国武者の技術文化-東国武士の技術文化補遺-」東北学院大学東北文化研究所紀要37/2005

雑誌:

「歴史と旅 伊達政宗と信長秀吉家康」秋田書店/1987/6月号
「歴史読本 伊達政宗天下への野望」新人物往来社/1987年新年号
「歴史読本 伊達風雲録」新人物往来社/1970年5月
「別冊歴史読本 伊達政宗と伊達一族」新人物往来社/2002

展覧会図録:

図録「宇和島伊達家の名宝」仙台市博物館/2015
図録『伊達政宗と家臣たち』仙台市博物館/1987
図録『伊達政宗文書』仙台市博物館収蔵資料図録9
図録『英雄の時代 伊達政宗と秀吉・家康』仙台市博物館
図録『書に見る伊達政宗 その人と時代』仙台市博物館
図録『松島瑞巌寺と伊達政宗』三井記念美術館/2016
図録『性差〈ジェンダー〉の日本史』国立歴史民俗博物館/2020
図録『仙台市博物館 館蔵名品図録改訂版』
図録『特別展 伊達政宗生誕450年記念』仙台市博物館/2017
図録『秀吉・氏郷・政宗』福島県立博物館/1990
伊達150年物語の会編『侍たちの北海道-亘理伊達武士団の挑戦-』

文法等参考書:

『日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法』吉川弘文館/2015
阿部猛編『古文書古記録語辞典』東京堂出版/2005
安部清哉『中世の語彙-武士と和漢混淆の時代-』朝倉書店/2020
井上千圃『文字の書き方くずし方』秀峰堂/2000
角川日本史辞典/旺文社漢辞典/旺文社全訳古語辞典
古田島洋介『日本近代史を学ぶための文語文入門』吉川弘文館/2013
高尾善希『やさしい古文書の読み方』日本実業出版社/2011
佐藤孝之『近世史を学ぶための古文書「候文」入門』吉川弘文館・天野出版工房/2023
佐藤進一『新版 古文書学入門』法政大学出版局/2003
柴辻俊六『戦国文書調査マニュアル』戎光祥出版/2017
 秋山哲雄・田中大喜・野口華世編『日本中世史入門 論文を書こう』勉誠出版/2014
小山田和夫『入門 史料を読む-古代・中世-』吉川弘文館/1997
小西甚一『古文研究法』筑摩書房2015
小西甚一『国文法ちかみち』筑摩書房/2016
増田孝『古文書・手紙の読み方』東京堂出版/2007
土井忠生他編『邦訳日葡辞書』岩波書店/1980
二条庵主人・加地伸行『漢文法基礎-本当にわかる漢文入門-』講談社/2010
飯倉晴武『古文書入門ハンドブック』吉川弘文館/1993
林英夫『音訓引き古文書事典』柏書房/2004
林美一『時代風俗考証事典』河出書房新社/1977
鈴木正人編『戦国古文書用語辞典』東京堂出版/2019
 

文化・時代考証関連:

鈴木敬三『有職故実図典-服装と故実-』吉川弘文館/1995
池上良太『図解 日本の装束』新紀元社/2008
菊地ひと美『江戸衣装図鑑』東京堂出版/2011
増田美子『日本衣服史』吉川弘文館/2010
井筒雅風『原色日本服飾史』光琳社出版社/1989
森理恵『桃山・江戸のファッションリーダー』塙書房/2007
露木宏『日本装身具史』美術出版社/2008
小池三枝・野口ひろみ・𠮷村佳子『概説日本服飾史』光生館/2000
金沢康隆『江戸服飾史』青蛙房/1998
金沢康隆『江戸結髪史』青蛙房/1998
林美一『時代風俗考証事典』河出書房新社/1977
『新背景カタログカラー版5時代物編』マール社/2009
中西豪・大山格監修『戦国武具甲冑事典』誠文堂新光社/2010
三浦一郎『日本甲冑図鑑』新紀元社/2010
切畑健編『日本の女性風俗史』紫紅社/2003
『背景ビジュアル資料7 城甲冑古戦場武具』グラフィック社/2009
武士生活研究会編『図録近世武士生活史入門事典』柏書房/1991
鈴木啓『図説江戸城の石垣』歴史春秋社/2013
永岡慶之助『戦国裏面史』東京書籍/2000
武光誠『日本男色物語』カンゼン/2015
ゲイリー・P・リューブ『男色と日本史』作品社/2014
丹尾安典『男色の景色』新潮社/2008
佐伯順子『男の絆の比較文化史』岩波書店/2015
平塚良宣『日本における男色の研究』人間の科学社/1997
礫川全次編『男色の民俗学』批評社/2003
長谷川興蔵・月川和雄編『南方熊楠 男色談義-岩田準一往復書簡-』八坂書房/1991
佐伯順子『「愛」と「性」の文化史』角川学芸出版/2008
前川直哉『男の絆-明治の学生からボーイズ・ラブまで-』筑摩書房/2011
氏家幹人『武士道とエロス』講談社/1995
渡辺信一郎『江戸の色道』新潮社/2014
須永朝彦『美少年日本史』国書刊行会/2002
岩田準一『本朝男色考 男色文献書誌』原書房/2002
早川聞多『浮世絵春画と男色』河出書房新社/1998
安楽庵策伝『醒睡笑』岩波文庫/1986
松尾剛次『破戒と男色の仏教史』平凡社/2008
佐伯順子『美少年尽くし-江戸男色談義-』平凡社/2008
乃至政彦『戦国武将と男色―知られざる「武家衆道」の盛衰史』洋泉社/2013
江馬務『日本結髪全史』創元社/1953
『新装版 今昔三道中独案内』JTB/2004
諸星美智直『近世武家言葉の研究』清文堂/2004
名和弓雄『絵で見る時代考証百科 槍・鎧・具足』新人物往来社/1988
棟方武城『すぐわかる日本の甲冑・武具』東京美術/2004
植田裕子編『戦国ファッション絵巻』マーブルトロン/2009
笹間良彦『図録 日本の甲冑・武具事典 新装版』柏書房/1997
『和の風景カタログ 和室・日本家屋』
武士生活研究会編『図録 近世武士生活史入門事典』柏書房/1991
『亘理の方言集”んだいっちゃ”』