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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『成実記』仙台叢書版・目次

『成実記』仙台叢書版
各章の数字およびタイトルは当ブログで便宜上つけたもので、原文にはありません。

解題

(仙台叢書3巻207p『成実記』解題)

原文

本書は、仙台開闢第一の功臣たる伊達安房成実が、十七八歳の少年時代より、一年上なる藩祖政宗卿の股肱となり、千軍万馬の間に駆馳し、一生百死の地に往来し、自ら閲歴したる事実、すなわち天正十二年十月政宗卿が家を承られたる時より筆を起し、慶長五年六月、白石城を陥落するに至る迄の、樽俎折衝戦闘攻伐の実況を記したるものなれば、修史の好材料として史家の嘖々称揚する所なりとす。但白石落城以後の記事は何人の手に成りしものなるや明かならず。是れ或いは其臣僚の筆記したるなるべし。
成実藤五郎と称し、のち安房と称す。伊達本宗左京大夫稙宗朝臣の第六子、兵部少輔実元の子なり。人となり英毅剛明三徳を兼ね、政宗卿に奉仕し、結髪軍に従ひ、伊達氏中興の偉業を翼賛せり。仙道再度の合戦は、伊達氏安危存亡の繋る所、成実縦横奮闘敵軍終に大に敗れ、七雄をして顔色なからしむ。是れ勇ならずや。又一兵を用ゐず猪苗代盛国大内定綱片平重綱等を降致したるは智ならずや。白根沢某が不臣の罪を尤めず、却て之を薦て大将となして其能を発揮せしむ是れ仁ならずや。後故あり奔る徳川上杉二氏厚禄を以て之を招く従わず。政宗卿百方招諭するに会し、茲に至て来帰し後二万五千石を領し亘理城を治め、一門に列せり。正保三年六月四日歿す。年七十九亘理町大雄寺に葬る。裔孫邦成北海道胆振有珠郡伊達村拓殖の功に依り、華族に列し男爵を授けらる。蓋し積善の余慶子孫に及ぶもの非か。

現代語訳

この本は、仙台を開いた第一の功臣である伊達安房成実が、17,8歳の少年時代から、ひとつ年上である藩祖政宗卿の股肱の臣となり、戦場を駆け、ほとんど生き残ることのできない地を渡り、自ら見た事実ーすなわち天正12年10月政宗卿が家督を相続されたときから書き始め、慶長5年6月白石城を落とすに至るまでの外交上の駆け引き、戦いのようすの実際の様子ーを記したものであるので、歴史書を編纂するに当たってのとてもよい史料であるとして、歴史家が盛んに褒めたたえる理由である。
ただし、白石落城以後の記事は、誰の手によって書かれたものであるか、明らかではない。あるいはその家臣が書き残したものだろう。
伊達成実は藤五郎と名乗り、のち安房と名乗った。伊達本家左京大夫稙宗の第六子である兵部少輔実元の子である。人柄は気性が強く、明るく、三つの徳を兼ね備えていた。政宗公に仕え、元服して戦に従い、伊達氏中興の偉業を助けた。
仙道での二度の合戦は、伊達氏の存亡のかかったものであったが、成実は自由自在に奮闘し、敵軍はついに大敗し、敵の七人の将の顔色を失わせた。これは勇ではないことがあるだろうか。また一兵も使わずに猪苗代盛国・大内定綱・片平重綱などを味方に寝返らせたことは智ではないことがあるだろうか。
白根沢某という男の、不忠の罪を咎めず、逆にかれを推薦して大将としてその能力を発揮させた。これは仁でないことがあるだろうか。
その後、理由があって出奔するが、徳川・上杉の二氏が高禄を以て誘ったが、それに従うことはなかった。政宗卿があらゆる手段をもちいて招き寄せて諭したところ、ついに帰参し、その後2万5千石を領地として、亘理城を治め、一門に名を連ねた。
正保3年6月4日、没す。享年79、亘理町の大雄寺に葬られる。子孫の邦成は北海道胆振有珠郡伊達村の開拓殖民の功のため、華族になり、男爵となった。まさしく善行の積み重ねが先祖から子孫に及んだものであろう。