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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

仙台藩家臣団の格式・決まりなど

【自分用メモ】仙台藩の家臣団内の格式とか決まりとか。
参考:『仙台藩家臣録』『伊達騒動実録』などの文章を書き直していますので、文責はブログ主。家格以外は伊達騒動の頃までに定まった決まりなので政宗の頃にはなかった決まりもあると思います。

格式

仙台藩には武家の家に独自の呼び名の格式があった。一家・一族の制は伊達家に古くからあったが、準一家は一門と共に政宗の設けたものである。
一門・一家・准一家・一族・宿老・着坐召出・太刀上・平侍。士分以下を凡下格と呼び、組士・御小人・お足軽・同心などはこれに属した。組士には徒小姓組・徒組・鷹匠組・不断組・給主組・名懸組・番外士・などに分かれていた。

  • 一門:

政宗が慶長年間にはじめて設けた。当時の家は角田・石川昭光/亘理・伊達成実/黄海・留守政景/涌谷・亘理定宗/登米・白石宗直/岩谷堂・岩城政隆。記録するときも一門には様や殿を付けた。
文禄2年に留守政景にはじめて伊達姓を与える。一門の多くは天正政変以後伊達氏の麾下に入り、御客大名となった家。以上の六家に続き、黒川郡宮床伊達氏/柴田郡川崎伊達氏/栗原郡真坂白川氏/前沢三沢氏の五家が一門に列し、11家となった。一門は原則として藩政執行の役職には就かず、藩屏として重きをなし、重要な問題に顧問的な役割を果たした。
藩主が江戸参勤のため不在の時は、留守中親類衆の一門は当番を定め、5日に一度城へ登る義務が定められていたが、藩主に変わって国政統治する権限はなかった。しかし寛文事件や戊辰戦争の際は強力な発言権を持ち、藩主を制肘していた。
元旦の日、一門は最も先に年賀の挨拶を一人一人藩主にした。「新年ありがとうござりまする」と挨拶する。藩主は「おめでとうござる」と答礼する。「ござる」をつけるのは一門にだけで、一家以下には、「ああめでたい」と答えたという。
一門は御客大名とも言った。天正に滅んだ奥州大名の裔で、伊達家の男子が養子に入った末である。その他伊達氏の支家であり、皆親族である。元々一家一族の制はあったが、政宗の代(天正18年ごろ)から「一門」を定め、一家の上に作った。一門は藩の職につかない。
正保2年、一門の座席を左右に分かち、左は公子の席とし、右は一門の席とした。
左の一番辰之助(登米)・二番左兵衛(岩谷堂)・三番肥前(宮床)・四番は弾正(岩出山)・右の一番は駿河(角田)・二番安房(亘理)・三番上野(水沢)・四番安芸(涌谷)の順なり。
宮床伊達氏:先祖は朝宗の6男。綱宗のとき一門に列した。

【政宗以後に一門となった家】
岩出山伊達氏:政宗4男宗泰が祖。宗泰は寛永4年将軍直属で5万石を拝したが、後帰国し一門となった。
川崎伊達氏:綱宗の次男村任が水沢伊達宗景の後を継ぎ、幕府に出仕し三万石の大名となったが、故あって退任し、その子村詮が享保7年吉村の代に一門に列し川崎元砂金氏の館に入った。
白川氏・三沢氏は共に綱村の代に一門に入る。共に元大名格の遺臣。

  • 一家・準一家:

本来は一門に次ぐ親戚だったが、政宗以降は片倉・秋保など特に功ある者をこの格に加えた。一家は鮎貝・秋保・柴田・小梁川・塩森・大条・泉田・村田・黒木・石母田・瀬上・中村・石川・中目・亘理・梁川・片倉の17氏。
準一家は猪苗代・天童・松前・葦名・本宮・高泉・葛西・上遠野・保土原・福原の10氏。本宮氏をのぞき、すべて政宗の代に麾下に入った。葦名氏は戦国大名葦名氏の後裔、猪苗代氏・高泉氏・上遠野氏・保土原氏は葦名・大崎・岩城・二階堂氏の旧臣であり、その他の諸氏も戦国大名の独立領主の家柄である。

  • 一族:

さらに遠い親戚と、功臣の家に与えた格式。
一族は大立目・大町(金ヶ崎)・大塚・大内・西大条・小原・西大立目・中島(江差上口内)・宮内・中島(伊具郡金山)・茂庭・遠藤(下衣川)・佐藤・畠中・片平・下郡山・沼辺・大町(宮城郡中野)・高城・大松沢・石母田・坂の22家。政宗の代には原田・砂金・大窪・志賀がいたが断絶した。
↓ここから侍衆(後に細分化)

  • 宿老:代々政治の実際にあたる。一門の取り締まりなども担当。浜田・原田・富塚・津田・遠藤・後藤・但木など。

宿老は他藩の家老に相当するが、仙台藩では藩政執行するものをぶぎょうを呼ぶようになってから宿老は家格として称されるようになり、公文書には家老として連署した(無役家老)。宿老の家は遠藤・但木・後藤の三氏。
毎年正月年賀の際、藩主から盃を賜る者。元日を一番座・二日を二番座といい、一番座は宿老三家。着座の家は34氏で、身分が低い者から政宗に登用され着座の家格を与えられた者が多い。藩奉行に任ぜられた者は着座となる例だった。

  • 着座:

先祖から奉行を出した家。医師・連歌・書道の相手などもこの家格を与えられた

  • 召出:

家老となる者の家は着座、若年寄(若老・少老などとも)となるものの家は召出という原則があった。
伊達藩では他家の家老にあたる職を奉行衆・国老などと呼んだ。古く(稙宗時代)は評定衆などとも言った。

  • それ以下:

太刀上は正月の御礼に太刀を献じ、盃を頂戴する家柄。8氏で、「永代御盃頂戴」ともいう。
召出は正月の宴会に召し出される資格のある家で、「呼懸」ともいう。寛永の初め頃出来、若年寄に任じた者の家は召出になる例になっていた。一番座38氏・二番座は51氏あった。
その下は平士(大番士)/組士/凡下など。

知行制

仙台藩は中世の習わしに従って、石高制(他の藩では「○石」とした)ではなく、貫文制を続けた。玄米十石とれる土地を一貫文とした。
また地方知行制を幕末までとった。
知行制(地方領主)・切米(金子で拝領)扶持方(米で拝領)と三種類に分かれていた。

奉行:
他藩の「家老」にあたる。
政宗の代は人数の取り決めはなかったが、忠宗の代から6人制となった。参勤の時は2人が江戸供奉、2人が仙台城詰、2人は在郷休息となった。月番制で、6奉行の合議制によって行われた。6奉行の寄り合いは2・8・14・20・26の5日。宿老は藩政には関与しない。
奉行になったのは主に大条・片倉・石母田・中島・茂庭・古内・遠藤・中村・柴田・後藤・鮎貝・但木・佐々・大町・黒澤・富田など。

藩主の呼び方など

明治維新まで、藩主ー屋形様、正室ー御前様、跡継ぎー御曹司様と称した。
ただし、治家記録や当時の文書では、元禄初年以前は、藩主の住まいを屋形と呼び、藩主を殿様、跡継ぎを越前守様・美作守様など、官名で呼び、正室は北の御方と称している。
治家記録では、元禄年間から、屋形様・曹司様・御前様の呼称が出てくるが、書状では、天正19年ごろから屋形様、慶長5年から御曹司様の呼称が出てくる。
元禄年間綱村が隠居した際は、綱村を大殿、大屋形と称し、吉村を屋形、綱村の正室を大御前と呼んだ。治家記録では藩主は公、跡継ぎを嗣君と書いた。また藩主を大守公、大守様とする用法も見られる。
「屋形」は元々大臣の居所をいい、室町時代から、名家が将軍家に申請し、許された家だけが使った。屋形号がなければ家来が烏帽子・直垂・素襖などを着る事はできなかった。徳川時代では、屋形号を許されたのは御三家・越前・松江・島津・伊達・細川・佐竹・上杉などの諸家だった。

元旦や大礼の際の儀礼

仙台城二の丸、表対面所があり、その敷居の外に、松の間という72畳の間がある。主君は対面所の正面に座り、一門衆は、対面所内の左右に、席順を千鳥がけにして列に成って並ぶ。一家以下の者は、松の間の左右に、席順を千鳥がけにして座る。
謁見するとき、一門衆は対面所の敷居より内側、中央二畳目に座る。一家の者は、松の間対面所の敷居より外で、中央二畳目に座る。準一家は三畳目、一族は四畳目、着座は五畳目に座る。
一族以上は、その名を披露し、盃をうけ、返盃する。着座〜召出の者は申次役の者が名前を披露し、返盃はなし。着座以上は太刀馬代を献上する。太刀上の者は次の間より出で、六畳目に座り、太刀のみ献じ、盃をうけて下がる。召出も次の間よりでて、八畳目に座り、太刀も献ずることもなく、盃をうけるのみ。以上の者達は一人ずつ出て行く。
大番組の平士は十二畳目に座り、六人ずつそろってでて、盃の流れをうけた。勺は表小姓による。
古くは、一人一人謁見するのは、一門から一族までだったが、次第に家格が上がる者が増え、席が狭く、式が終わらなくなったため、日にちがわけられるようにもなった。

伊達江戸屋敷

慶長6年10月、伏見で家康から江戸に屋敷を賜る旨を言われる。江戸屋敷・桜田・愛宕之下・芝屋敷四カ所を賜るが、一度に賜ったか、おいおい賜ったかは不明。
寛永18年5月、増上寺境内にあった下屋敷を召し上げられ、濱ノ御屋敷を賜う。この年11月ごろと推測される。
明暦3年1月、桜田の上屋敷・御本屋敷・濱ノ御下屋敷、愛宕ノ御中屋敷の四カ所が共に焼失する。2月、桜田本屋敷を召し上げられ、5月に麻布白金台に屋敷を賜る。
万治1年5月、麻布本屋敷・品川本屋敷に番人を置く。
(*桜田本屋敷は日比谷公園の東北の角、濱屋敷は今の新橋停車場構内の中央とされる。本屋敷は現在の山下門内南側にて、南隣は薩摩邸である。愛宕中屋敷は今の愛宕下町四丁目一番地である。桜田上屋敷が召し上げられたあとは愛宕下の中屋敷を上屋敷とした。愛宕下の屋敷が遺臣前まで御本屋敷と称した。品川の大江村の屋敷に、綱宗が隠居した。綱村が隠居したのは麻布の屋敷である。
維新前の仙台藩江戸屋敷は、芝口三丁目の上屋敷(濱屋敷)、愛宕ノ下、麻布仙台坂、白金袖が崎、品川大井村、深川仙台堀、(米屋敷)千住橋南、の七カ所だった。(中世には、木挽町にも一邸あった))

参勤交代関連

基本的に

  • 藩主(政宗)が江戸にいるときは、嗣君(忠宗)が仙台。もしくは其の逆。
  • 江戸ー仙台はだいたい7泊8日(ゆっくりいろいろ寄って10泊11日とか)。途中久喜で鷹狩りや日光東照宮に参詣することも。
  • 思い切り急ぐと3泊4日で江戸に着く(例:光宗危篤の際の早駆け)。成実死去の知らせの飛脚も4日朝の訃報が7日についているので、上限はそのあたり。

奥州街道

【日光街道】日本橋ー千住ー草加ー越ヶ谷ー粕壁ー杉戸ー幸手ー栗橋*1ー中田ー古河*2ー野木ー間々田ー小山ー新田ー小金井ー石橋ー雀宮ー宇都宮
ここから日光へ分岐
【奥州道中】宇都宮ー白沢ー氏家ー喜連川ー佐久山ー大田原ー鍋掛ー越掘ー芦野ー白坂ー白河
白河の関まで
【仙台道】白河ー根田ー小田川ー太田川ー踏瀬ー大和久ー中畑新田ー矢吹ー久来石ー笠石ー須賀川ー笹川ー日出山ー小原田ー郡山ー日和田ー高倉ー本宮ー南杉田ー北杉田ー二本松ー二本柳ー八丁目ー清水町ー福島ー瀬上ー藤田ー貝田ー越河ー斎川ー白石城下*3ー宮宿ー金ヶ瀬ー大河原ー船迫ー槻木ー岩沼*4ー増田ー中田ー長町ー仙台城下

江戸ー久喜ー宇都宮ー白河ー八丁目ー白石ー仙台あたりで一泊ずつすることが多い。

*1:政宗臨終に際して栗橋の房川の渡しで仙台藩士の人留めが行われた(ただしかなり見逃してくれた模様)

*2:政宗逝去時、石川民部はここで訃報を聞く

*3:白石城まで来て宿泊

*4:岩沼か増田で食事などをよくしてる