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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』12-3:二世の供申出事附逝去

『政宗記』12-3:殉死の願い出と逝去

原文

同(寛永十三年五月)二十二日に、二世の供と申す者ども何れも書付を差上ければ、披見有て顔に押当、「扨惜者ども哉。ヶ程の者を此世の事に役立てなば、一方の堅めにもなどかならでは候べき、或若年或盛んなる者どもなれば、命栄忠宗役にも立なん、如何にもして助け給へ」と宣へば、内藤外記・柳生但馬守へ頼み給ひ、其上大炊頭・讃岐守少々殿中より御内意の様にて、色々止め給ふといへども、一旦の存入争で二度翻しもうすべきと、申し切てぞ極りける。去程に政宗苦しげなる有様、中々申すに絶たり。爾りと雖も、病中の始終、難義なると宣ひたること一度もなし。同二十三日には、程有間敷とや思はれけん。「万づ道具彼是掃除以下、入らぬ物をば火中せよ」と宣ふ。其側に中と云て年倍なる女、奥方の家老にて日来は母儀之ごとく、馳走在す役女房、右の様体見奉り、「何とやらん、申兼たる御事なれども、人は只高きも賤きも、御病気なればさぞや御用の多かるらん、今日は御機嫌よげにみへ給へば、第一御祈祷の為にも仰せられたき事、御坐さば如何有らん」と、涙を押へて申しければ、「奇特にも申たる者かな、汝もよく承れ、一昨日将軍公成らせたまひ、風慮の外なる御暇乞、何ごとか残所有べきに夫に亦三十に余る家督の忠宗を持乍ら、此世に思置こと更になし、何ごとも只忠宗次第也。自然に云置こと有といふとも、古風成義を申置いらぬことなり。女乍らも汝に聞かしむことには、存生の中召仕たる女どもをば、暇を取せ親類の許へ届て、其内行末なき者には、命継の扶持をも取せ迷わぬようにといひ置たり、爾りと雖も、我消果たる其跡は忠宗任せなり。縦ば父子の間といへども心別なる者なれば、父何ごとを云置ても、或其ときに隨ひ、或浮世の移り代りに仍て、相違の事は幾多多か有習なり、されども忠宗はよも迷はせ間敷に、我死して後も心安かれ」と宣へば、其側近き女房ども、声々に歎き悲み、目もあてられず。同二十三日夜「明なばすきと平癒候はん、明日よりは何れも苦労止むべし、今夜計は神妙にせよ」とて寝給へども、時々目を覚し「常の百夜より、一夜を永く覚へたり、夜は何どきぞ」と尋ね給ふ、「早明方なり」と申す。「起せ」と宣ひ、十余間の所へ出、心地よげに小便をし給ひ、夫より帰り、差給へる刀を側なる者に預け、床の上へ直り給ふと逝去し給ふ。寛永十三年丙子五月二十四日寅の刻なり。此とき酒井讃岐守(忠勝)上使にて、「忠宗歎き上に於いても御同意なり、殊に相国秀忠の御命日、其程尚も感じ思し召さるる旨、扨死骸をば在城仙台へ」との上意にて、二十四日の戌の刻に、死骸江戸を出給ふ。諸道具以下供の者ども、所仕置に至る迄万繁昌の如くして下向在す。同二十五日の未の刻に、土井大炊頭(利勝)・酒井讃岐守(忠勝)上使にせしめ「政宗跡目忠宗へ御相違なきこと、並びに今日より上屋敷へ移るべきこと」此二ヶ条の上意に付て、御諚に任せ、即ち其日に移し給ふ。爾るに、二世迄の供の者供、死骸に付道中の口号に、

  那須野原にて 茂庭采女(兼綱)
 身を露に那須野の原の草枕夢も結ばぬ夏の夜の月
  白川にて 同
 白川の旅も今又限りにて関の戸差も明て松川
  同 青木忠五郎(友重)
 終に行浮世の中の旅道留るものかは白川の関
  同 加藤十三郎(安次)
 白川の旅も限りと成ぬれば関の戸指も明て社ゆけ
  安積山にて 茂庭采女(兼綱)
 面影も今日限りぞと陸奥の安積の沼の浪を泪に
  同 簡野正左衛門(菅野勝左衞門重成)
 今日計り安積の山を陸奧の憂影うつる山の井の水
  国見峠にて 佐藤内膳(吉信)
 国見ぞと聞ば心も儘ならず情もあらじ明日の別れは
  南次郎吉(政吉)
 朽んとは兼て思ひし若草の此末しれる人はあらじな

右何れも道中供にて、同六月朔日の未の刻に、仙台牌所禅宗関山派覚範寺へ直に入り奉り、侍・歩行に至る迄、上下万民現世の供迚は是限なりと歎く。扨今着給ふと申す程に、寺より二三町出向、四月在城を立、未だ両月をも過させ給はで、浅間敷身と替り、思の外なる寺への出御は何ごとぞ、と乗物へ抱付、道中の供の者と両方押合、一度に咄と泣叫声天地に響、中々言語に絶したり。死骸寺へ入給ひ、三日目に、中納言出立の皮緖の太刀を帯られ参らせ、鎧大小をば側に差置、夜更人静りて後、跡の四月弁当場にて望給ふ恋路の山に納。奏宗は関山派(覚範寺)清岳和尚、諷経は陶首座、初首座、欲首座は維那の役なり。惣じて政宗は、満海と云へる湯殿聖人の再生にて御坐す由。不審第一のことには、政宗の母儀有夜、以の外おびへ給ひ寝をぞみをし給ふ、夫の輝宗是を奇となして、漸本気と成給ふ、其ときいかなる子細ぞと尋ね給へば、我口より梵天の腹中へ入といふ夢をみて驚き、其後は、兎角を弁へずと宣ふ、其月より妊り頓誕生し給ふ。其謂に依て政宗をば小名を梵天丸と申し侍る。聖の再誕誠なる哉。彼山(経ヶ峰)を引平げ、一丈余尺に穴を掘、大石ともを摺合せ四方一間半にして、其中へ納め同石を蓋にして、四尺余りに畳上、其上へ霊屋を建給ふ。去ば納める穴を掘に、厚さ一尺に少し過、広さ一間半に余り、物の蓋の様なる石を穴の場より掘出す。是はいかさまに不審なりと申ければ、有老人の語りけるは、「其こそ古の幡海(万海)聖人の死骸を其場へ弘き石を蓋にして納めたりと伝え聞、其石ならん」と申す。扨其序に語て曰「幡海上人は右の眼瞽で片目なり、爾に政宗も右の眼瞽い給ふに、近頃又彼山を二世の御坐し処と望み給ひ、況や右の石今度の蓋と成りて納め参らせければ、扨社聖の再誕疑いなし」とぞ人申しける。爾るに覚範寺にて三十余日の内陰。其内高野山方々際限なく出家衆諷経を勤められけり。去程に追腹の者どもは、葬礼の三四日前より、寺へ出て切もあり、宿にて切腹するもあり。思々の有様、扨面々の法名。付けたり辞世の事。

  信沢道忠禅定門 石田将監(与純)
 曇りなき月の跡間山端の道も涼き松風の音
  善波昌因禅定門 茂庭采女(兼綱)
 終に行旅の道立武士の輝さてもあれ弥陀の来迎
  法得紹燈禅定門 佐藤内膳(吉信)
 地水火風己々に返しつつ有無の中道ひよつと抜たり
  円岫了規禅定門 青木忠五郎(友重)
 よしさらば曇らば曇れ曇るとも心の月の道をしるべに
  清隠浄光禅定門 南次郎吉(政吉)
 遅くとも心の早きのりの駒武士の剣は弥陀の来迎
  説庭良宣禅定門 加藤十三郎(安次)
 くもりなき月の入りさをしたひつつ影もろともに西へこそゆけ
  芳叔久酔禅定門 簡野正左衛門(菅野勝左衛門重成)
 でるより行衛も知ぬ旅の道照したまへや弥陀の来迎
  破堅道固禅定門 矢野目伊兵衛(常重)
 晴て行月影したふ道なれば迷わぬ末ぞ思ひ知らるる
  切翁知金禅定門  入生田三右衛門(元康)
 古郷へ帰るとみれば露はれて君諸共に行本の道
  竹友崇賢禅定門 桑折備後(綱長)
 くもりなき月のひかりともろともに道引きたまへみだの浄土へ
  悦嶂道歓禅定門 喜斎
 情には命計りは惜からん君諸共に雲の上まで
  涼窓受蔭禅定門 小野仁左衞門(時村)
 影高き松に嵐の吹荒て散添露は小野の下草
  怡心道悦禅定門 小平修理(太郎左衞門元成)
 かそふれば六十余の夢覚て君諸共に行本のみち
  天岑因徳禅定門 大槻喜右衛門(定安)
 只たのめあかりをさそふ友なればいかがまよはぬ六道の辻
  石雲真鉄禅定門 渡辺権之丞(重孝)
 皆人は暮る月日と思ふかよまた立帰る明る日のをみよ
 卯辰迄露は草葉に栄つつ巳となるときは本の姿に
 
  亦追腹
 祥岳俊瑞禅定門 石田将監下 青柳伝左衛門
 梁岫元棟禅定門 石田将監下 加藤三右衛門
 松嶺自長禅定門 茂庭采女下 庄子茂兵衛(東海林茂伝次)
 円看好清禅定門 茂庭采女下 横山角兵衛
 晴峯浄景禅定門 内藤下 杉山利兵衛

右以上十五人、亦腹ともに二十人也。上下最後の覚悟比類無きこと記すに及ばず。末代は知らず、前代にも希なるべしと其砌他国にても隠なく其風聞に候事。

地名・語句

現代語訳

寛永13年5月22日に、殉死を希望するものたちがみな書き付けを差し上げたところ、御覧になって、顔に押し当て、「なんと惜しい者たちだろう。これほどの者たちをこの世の役に立てたならば、(藩の)素晴らしい要になるだろう。或いは若く、或いは年の盛りの者立ちであるから、長生きして忠宗の役にも立つであろう。どうにかしてお助けお願いししたい」と仰り、内藤外記・柳生但馬の守へ頼み込んだ。その上大炊頭・讃岐守から、家光の内意もあって、いろいろお止めになったのだが、殉死を希望するものたちが、「一度考え、申し上げたことをどうして覆すことが出来るか」と言い切るので、結局そう決まった。そして、政宗の苦しげな様子は非常に激しく、言い表すに言葉がなかった。しかし、病の間中、つらいと仰ったことは一度もなかった。
同23日には、もう余命がないとお思いになったのだろう。「すべての道具を掃除し、いらないものを燃やせ」と仰った。その側に中という年かさの女で、奥方の家老としてあり、日頃は母親の如く面倒を見ていた役女房であった女がいたのだが、この様子を見て、「なんというか、申し上げにくいことでございますが、人は身分の高い人も低い人も、病気となればさぞしたいことの多いことで有りましょう。今日は御機嫌よいように見えますので、祈祷の為にも仰られたいことがありましたら、どうかいってくださいませ」と涙を抑えていったところ、「良いことをいう。おまえもよく聞け。一昨日将軍家光公がお成りになり、思ってもみなかった暇乞いをすることができた。もう思い残すことはないところに、また三十歳を越える嫡男の忠宗を持ち、この世に残念とおもうところは全くない。何ごともただ忠宗次第である。自然に云うことはあるけれども、昔風なことを言い残すのは不要な事である。女ながらもおまえに言うことは、存命中召仕えた女性達を、暇を取らせ親類のところにかえし、そのうち行くところがないものには、食うに困らない扶持を与え、路頭にまよわぬようにと言い置いた。しかし、私が死んだ後は忠宗任せである。たとえ親子の間であっても、心は別である者だから、父である私がどのようにいいおいても、また時にしたがい、また時代の移り変わりによって、違うことは多くあるのが習いである。しかし、忠宗はまさか路頭に迷わすような人間ではないので、私が死んだあとも安心せよ」とおっしゃったので、側近く仕えていた女房達は皆声をあげて歎き悲しみ、目も当てられなかった。
同23日夜、「夜が明ければすっきりと治るだろう。明日からはみなの苦労も終わるだろう。今日の夜ばかりは大人しくしておけ」とおっしゃって寝られたのだけれども、ときどき目を覚まし「いつもの100の夜より、一夜を長く思う。今は何時だ」とお尋ねになった。「もう明け方です」というと、「おこせ」とおっしゃり、十間余のところの手水で、気持ちよさそうに小便をなさり、それより帰ったあと、指していた刀を側仕えの者に預け、床の上でお休みになると、お亡くなりになった。
寛永13年5月24日寅の刻(午前4時頃)である。
そのとき酒井讃岐守が上使として「忠宗の歎きと同様、自分も哀しんでいる。更に24日は秀忠公のご命日でもあってまた深く感じる」ということと「死骸を在城の仙台に戻せ」との御命令をお伝えになり、24日の戌の刻(午後8時)に死骸は江戸を出立した。もろもろの道具、家来の者たち、行列のやり方にいたるまで、すべて存命の頃の賑やかな様子のままにして下向した。
同25日の未の刻(午後2時)に土井大炊頭・酒井讃岐守を上使として、「政宗の家督は忠宗が継ぐことまちがいないこと、また今日から上屋敷へ移ること」のこの二つの命令がくだったため、命令に従ってすぐその日にお移りになった。
さて殉死を願い出た者たちは死骸について帰仙する口すさびに、以下のような歌を詠じた。
(歌は上記参照)
同6月1日未の刻(午後2時頃)に仙台の墓所禅宗関山派覚範寺へ直接お入りになり、侍の者、歩いていた者、身分の高い者・低い者もみな、現世のお供はここまでと歎いた。
さて、もう到着するというころに、寺より2,3町出向き、この4月に在城をたってからまだふたつきと過ごしておられないのに、お亡くなりの身となり、思ってもみなかった寺への帰還となってしまったのはどういうことだ、と乗物へ抱きつき、道中の供の者達と両方から押し合い、一度にどっと泣き叫ぶ声が天地に響き、とうてい言葉では言い表せなかった。
死骸は寺へ入れられ、3日目に中納言の出で立ちで、皮緖の太刀をつけ、鎧の大小を側に置き、夜が更け人がしずまった後、以前4月に弁当を持って訪れた恋路の山に納めた。
奏宗は関山派(覚範寺)清岳和尚、経を読むのは陶首座、初首座、欲首座は維那の役であった。
そもそも政宗は万海という湯殿上人の再来である御方であった。細かいことはわからないが、政宗の母がある日非常に怯え、寝たがらなかった。夫の輝宗はこれをおかしく思い、ようやく本気になって、そのときどういう理由であるかとお尋ねになったところ、私の口から、梵天が腹に入る夢を見て驚いたのだけれども、よくわからないとおっしゃった。その月から妊娠し、やがて政宗がお生まれになった。その伝説に酔って政宗は幼名を梵天丸と申し上げる。聖の再生であるのは本当であるのだろうか。
経ヶ峰を平らげ、1丈尺少しの処に穴を掘り、大石を摺会わせ四方1間半にして、その中へ遺体を納め、この石を蓋にし、4尺余りに畳み上げ、その上を御霊屋を建てなさった。すると、納める穴を掘るときに、厚さ1尺より少し大きく、広さ1間半ちょっとの、何かの蓋のような石を穴の場所から掘り出した。これは明らかに不審であるといっていたら、ある老人のいうところによると、「これこそ昔の万海上人の死骸をここへ、広い石を蓋にしておさめたと伝え聞く石だろう」といった。
さてそのはじめに語るところには、「万海上人は右の目が見えず、片目だった。だから政宗も右の目がみえなくなり、最近またこの山を死後の居場所と望み、またこの石を今回の蓋として遺骸を納めたならば、また聖人の生まれ変わりであることは間違いない」と人は言った。
そして、覚範寺にて30日あまり後に満中陰を行い、それまでに高野山やさまざまなところで、出家衆は経を唱えた。殉死の者たちは葬礼の3,4日前から、寺へでて腹を切った者もあり、宿にて切腹する者もいた。思い思いの有り様で、以下がそれらの面々の法名と、つけた辞世の句である。
(法名・辞世は上記参照)
以上15人、追い腹ともに20人である。みな最後の覚悟も比べるもののない様子であったことは記すには及ばない。未来は兎も角、これまでにはまれなことであろうとそのころ他国までも噂になったという。

感想

寛永13年5月22から24日の逝去まで、そして埋葬までのことを記しています。
ここらへんの記事は『名語集』及び『木村宇右衛門覚書』の方が断然詳しく、より詳細が載っています。この文の書きぶりからも、成実は結局江戸に到着しなかったのではないかと推測されますが(帰り道、覚範寺到着からはたしかにいたような書きぶりです)、(侍女達の様子が)目も当てられず、など実際にいたのではないかと思われるような書きぶりもあるのですよね。もちろん一門の第2席である成実が普段ならそんなとこにいるはずもないですが、重要書類の証拠隠滅という作業の間なら、いた可能性はなきにしもあらず、ということで。
詳しくても伝聞の場合もあり、簡素でも自分で書いていたりする可能性はあります。
しかし『石川一千年史』の「17or18に安房は出立した」記述からすると、だいぶ江戸近くまで行ってるはずですし、そうするとどこで訃報にあったか、何処で合流したかなども他の人の記録に載っていてもおかしくない。
本当に成実は、政宗逝去時どこにいたのでしょう???
(前後が詳しいのに、逝去の周辺の記述があまりにも簡素すぎるのが逆に気になります。聞いてかいたにしても人のを見てかいたにしても、また自分で実際見ていたにしても、一番詳しく書かねばならないところ(政宗の逝去)を思いきりはしょっているのはどうしてなのでしょう)

またこのとき多くの人が殉死を止められなかったとありますが、『木村宇右衛門覚書』によると幕閣の命により佐々若狭は止められたとあります(石田将監はそのまま敢行)。
殉死の者に対して、また側近くに仕えていた侍女達の処遇にも細やかな心遣いを忘れない政宗の臨終間近の風景が浮かんできます。
『木村宇右衛門覚書』の方でのこのあたりの記述はもっと詳しく、まさしく「真に迫る」と言った様子で記されており、成実が書いていない、それぞれの殉死者の死に様を切々と記す木村の心中も慮られ、非常に迫力のある読み物なので、興味の有る方は是非合わせてお読み下さい。