『政宗記』6-3:大越紀伊守が殺されたこと
原文
同四月、常隆小野におはす中、大越紀伊守思ひけるは、「只今まで岩城を頼むと雖ども、小野・大越の抱岩城より未果しては成り難く、然らば、政宗へ背き末の身上大事に思ひ、伊達へ忠をなさん」とて、三春に本田孫兵衛と云、其子に孫一とて、紀伊守目をかけ近く召仕ふ者あり、折節彼手筋を以て月斎子共田村宮内方へ申けるは、「代々田村の親類なれども、不慮なる子細に依て、田村を背き、政宗公御心に障り奉る事悲みの至なり、去程に、忠を先だて御赦免ならば、偏に頼」と申す、是に依て宮内、白石若狭処へ、書状を以て「成実と御辺へ、中途に於いて参会上申度事あり」と云。故に若狭方より其文成実所へ遣し「此の如く候程に、田村の内白岩へ出向はん、但日限をば成実次第に、重て返答せんと申す、如何あらん」と云。さらばとて、四月七日*1と申合、白岩へ出合ければ、宮内申せられけるは、「紀伊守方より本田孫兵衛を使として、右の品々申遣はす、政宗公御承引に於いては今度岩城より、大越へ警固に車と竜子山と云、一騎当千の二頭を遣し給ふ。町に在陣成を、門沢より大越へは山続なれば、門沢の人数を大越の要害へ直に引入、未明に町へ押掛、彼二頭を討果す程ならば、本領御相違無き様にと申けれども、一度相馬へ傾き我等親子の首を睨まへ、今又ケ様なればとて、同心に及ばず共ケ様の事を御耳に入れずして、一身迄も差置ける事如何と存、旁へは此の如く」と物語なり。若狭「左様の義御為に目出度事也、其謂を申すに、御首を睨へける衆の今更頼申す事、且は御辺の御誉且は政宗の為なり、急ぎ米沢へ宣ひ爾るべし」と申す。そこにて宮内、紀伊守誤の事共を一宇語り、腹立なるを、若狭と成実様々に諫めければ、さらば我等共より申上よと理りなり、是に仍て青木不休と云ける者、田村に一年住居するが、其後伊達へ奉公なるを幸にて、彼不休を白岩より米沢へ差上、其趣を申ければ、政宗「大越事始より相馬へ傾き、田村の者共引付けるも、此者一人の采幣にて口惜けれども、岩城よりの二頭を討果す程ならば、流石の忠功なれば赦免をなして、本領相違有まじき」と宣ひ、判形差添遣し給ふ。則不休に持せて三春へ遣はす、是を宮内、孫兵衛に預け遣はしけるに、孫兵衛大越近所の門沢へ行て、大越へ人を遣し子共の孫市に、出向へと呼ければ、右の品々疾に岩城へ洩聞へ、孫市にも番を附置でける事相叶はず。爾して常隆よりの術に、三春へ草調義に遣すとて、北郷刑部と云者に人数を差添、大越の要害へ直に取込、「紀伊守には尋ぬるべき子細あり、在陣の小野へ参れ」と引立、小野にも置かずに岩城へ遣し生害し給ふ。如何なれば此事あらはれけるぞと尋ぬるに、伊達への忠のため田村宮内へ取遣しの返状を、紀伊守披見の上、懐中して内証にて落しけるを、妻女見付紀伊守恋慕*2の孫市文なる可しと心得、妻女弟の大越甲斐と云者に、其文出して見せければ、姉へは別義無き文なりとて、それを取て常隆へ上ける程に、紀伊守生害となる。故に甲斐其勧賞に大越をぞ賜はりける、弟忠の上は姉の妻女へも苦しからず、あまつさえ紀伊守子共を懐妊す。されば甲斐元来を申に、紀伊守親類被官なりしを、小舅に取立ければ、立身を望んで逆意を企て、男道の首尾を違ひ、浅間敷次第なりと、四方の批判は理りなり。かかりける所に、紀伊守弟に大越左衛門とて、清顕死去し給ふ以来、右にも申す田村の家区々なる時、義胤へ申寄相馬へ引除、平越と云在所に於いて所領を給はり居たりけるが、紀伊守妻女の許へ使者を以て、懐妊の子誕生ならば、兄の形見と云又存る旨のありければ、此方へ渡し給へとて、産月より岩城に人を付、其子生落未血にくるまりたるを抱参ると、一左右を聞て岩城と相馬の境なる、熊川と云処へ、左衛門出向自身抱上、嘆息云うに及ばず。爾して後囲繞かつかう尋常ならず。成人の後義胤へ申けるは「兄紀伊守不慮に相果、我惣領筋の絶ける事浅ましさに、懐妊の子を右の通りに取上けり、去程に只今迄奉公の賞に、其所領大越をば彼子に下され、実子には扶持切米にて召仕られなば、且は岩城への聞へ、且は故郷への響、何事か是に過候べき」と申す。義胤是を承引し給ひ、伯父左衛門所領五百石を請取、惣領式の跡目に立て、今大越権右衛門と云。扨も左衛門男道の行様は、甲斐とは各別違ひなり。爾して義胤武士の心操奇特の由宣ひ、左衛門子にも別に三百石賜はり、大越内記と名乗、左衛門をば後大越丹波と呼れし事。
語句・地名など
男道(おとこどう):男あるいは武士としてとるべき態度
熊川(くまかわ):福島県双葉郡大熊町熊川
区々(まちまち):それぞれに区切ってあること、それぞれに異なること
囲繞(いじょう):取り囲むこと/大切に守り育てる意(伊達史料集注)
かつかう(渇仰):あこがれ慕うこと
現代語訳
天正17年4月、岩城常隆が小野にいらっしゃる間、大越紀伊守は「いままでは岩城を頼りにして従っていたが、小野・大越の城は岩城から離れており、成りがたい。ならば政宗へ背いた後の身の上を大事に思い、伊達へ寝返ろう」と思った。
三春に本田孫兵衛という男がいた。その子の孫一(孫市)は紀伊守が寵愛し、近く仕えさせていた者であった。このとき、この関係を頼って田村月斎顕頼の子、田村宮内へ「代々田村の親類でありますが、思いがけない事情によって、田村に背くことになり、政宗公のお心に障ることとなったのは悲しみの至りでございます。なので、忠節を先立ててお許しいただけるのであれば、それをお願いいたします」と言った。
このため、田村宮内は白石若狭宗実のところへ書状を送り、「成実とあなた(宗実)へ途中に於いてお会いし、申し上げたいことがあります」と言った。そのため白石宗実のところから、その書状を成実のところへ送り、「このように言っているので、田村のなかの白岩へ出向きましょう。しかし、日は成実の都合に合わせるので、返事をください。どうでしょうか」と言ってきた。それでは、と四月七日(四月十七日)と約束し、白岩へ向かい、出会った。
田村宮内がいうところには「大越紀伊守から、本田孫兵衛を遣いとして、以上の事情を伝えてきた。政宗公がお許しくださるのなら、今度岩城から、大越の警固に車と竜子山という一騎当千の二頭が遣わされ、町に在陣しておりますが、門沢から大越へは山続きなので、門沢の手勢を大越の要害(城)へ直に引き入れ、未明に町へ押しかけ、この二頭を討ち果たすならば、本領安堵のことはお言葉違えなきようお願いいたします」と言った。「しかし、一度相馬へ味方しかけた私たち親子の首を睨み、いままたこのような様子ではと、同意することはできなくてもこの事をお耳にいれず、お味方することはどうかと思い、お二人にはこのように申し上げようと思ったのです」と語った。
白石若狭宗実は「そのようなことを政宗の為に申し上げることはいいことである。というのは、政宗の首を狙っている衆が今再び恭順しようとしていることは、或いはあなたのほまれであり、あるいは政宗の為でもあります。急いで米沢へお伝えになるのがいいでしょう」と言った。
そのとき田村宮内は大越紀伊守の誤りのことを全て語り、腹を立てていたのを、白石宗実と成実はいろいろと諫めた。それでは私たちから申し上げた方がいいと、田村に一年居住していたが、その後伊達に奉公していた青木不休というものがいたのを幸いとして、この不休を白岩から米沢へ送り、そのことをお伝えした。
政宗は「大越は初めから相馬へ味方し、田村の者たちを味方に付けていたのも、この者一人の采配であったため、口惜しかったが、岩城からの二頭を討ち果たすのであれば、さすがの忠義の功績であるので許して、間違いなく本領安堵してやろう」と仰り、印判を添えた書状をお送りなさった。
すぐに青木不休に持たせ三春へ遣わした。これを田村宮内が本田孫兵衛に預けつかわしたところ、孫兵衛は大越の近所の門沢へ行き、大越へ人を遣わし、子の孫市郎に出迎えろと呼びかけたところ、これらの事情がすばやく岩城方へばれてしまい、孫市にも番が付けられ、出向かうことが出来なくなった。
そして常隆は、三春へ草調義に遣わすからといって、北郷刑部という男に兵をつけ、大越の城へ直接入り込み、「大越紀伊守に尋ねたい事がある。常隆が在陣している小野へ来い」と引き立て、小野にもおかず、岩城へ遣わし、紀伊守を殺害なされた。
どうしてこのことが露見したかというと、伊達への忠節のため、田村宮内へ遣わした文の返事を、紀伊守が見た後、懷に隠しもっていたのを、こっそりおとしてしまい、妻女が見つけ、紀伊守が寵愛していた孫市からの文であると思って、妻女の弟の大越甲斐という者にその文を出して見せたのであった。
大越甲斐は姉へはたいしたことのない文であるといい、それを岩城常隆へ上申したため、紀伊守の殺害となった。その褒美として、大越甲斐は大越を賜った。弟の忠節のため、姉である大越紀伊の妻女へも対応は悪くなく、その上彼女は紀伊守の子を妊娠していた。
すると甲斐は元々は紀伊守の親類で被官したのを小舅にしたものであったのに、立身を望んで逆心を企て、武士のあるべき道から外れたことをし、なんと失望することだろうと周囲の批判があったが、それはもっともであった。
すると、紀伊守の弟に、大越左衛門という者がいた。田村清顕が死去して以来、田村の家の中がばらばらになっているときに、相馬義胤へ近づき、平越という所領を賜っていた者だったが、紀伊守の妻女のところへ使者を送り、懐妊の子が生まれたなら、兄の形見の子であるからといい、またその思うところがあるため、私の所へお渡しくださいと産み月から岩城に人をつけさせ、その子が生まれ落ち、いまだ血にくるまっているのを抱えると、初めの一報を聞いて、岩城と相馬の境にある、熊川というところへ左衛門自身が出向かい、抱き上げ、深く歎きため息をついたのは言うまでもなく当然のことであった。
そしてその後、大切に守り育てようと強く願う様子は尋常ではなかった。その子が成人したあと、相馬義胤へ「兄紀伊守の突然の死去の後、私どもの嫡流が途絶えることを残念に思い、妊娠していたこの子をこのように取り上げました。今までの奉公の褒美に、大越の所領をこの子に下さり、私の実子には切り米で召し使ってくださるのであれば、或いは岩城への聞こえ、或いは故郷への伝えとしても、これ以上よいことはございません」と申し上げた。
義胤はこれを承知なさり、伯父の左衛門の所領五百石を受け取り、惣領として跡継ぎに仕立てあげ、今は大越権右衛門と名乗っている。左衛門の武士としてあるべき生き様は、甲斐のそれとは全く違うものであった。義胤は武士の心持ちはこうあるべきであると仰り、左衛門の子にも別に三百石を与え、大越内記と名乗り、左衛門はその後大越丹波と呼ばれたそうである。
感想
大越紀伊守とその内応について、どのように大越一族の者が動き、どのようにその動きが周りから思われていたか、がよくわかる記事であります。とくに帰り忠が(実際よくあることであったにしろ)どのように認識されていたかがよくわかります。
大越紀伊は伊達への内応を画策していることがばれ、岩城常隆に殺されるわけですが、それを言いつけた義弟大越甲斐は非常に世間から批判され、兄の筋である形見の子を養育し、自分の子は傍流でいいと言った大越紀伊の弟左衛門は非常に賞められ、重ねて三百石を与えられたという事実は非常に興味深いことであります。
この記事を成実が書いていることも含め、左衛門の行為が男道(武士としてあるべき道)に従った行為として非常に褒められているのが興味深いです。
また、紀伊守のことが露見してしまうきっかけになった手紙を落としてしまった事件にしても、紀伊の男色相手である本田孫市に対して妻女の嫉妬らしい感情が見えているのも興味深い記述です。
左衛門が、妻女が妊娠していた子が生まれ落ち、未だ血にくるまっているのを抱えて連れ出させ、岩城と相馬の境で受け取る下りなどは、臨場感ある、まるで見てきたかのような成実の筆の真骨頂のように思います。
あとは怒っている田村宮内を諫める白石宗実と成実の図、というのも想像してみるととても面白い(笑)。
この書きぶりから見ると、成実的には大越甲斐の言動は許すまじで、左衛門のそれは非常に褒め称えるにたる行為であったのであろうなあ…と思われるところであります(笑)。
ところでこの記事でわからないのは「車と立子山という一騎当千の二頭」なんですが、これは…馬の名前ですかね? ちょっと分かりません。判明しましたら書き足します。