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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』10-1:成実所振舞申事

『政宗記』10-1:「成実の屋敷で饗応申し上げたこと」

原文:

されば、寛永の初め*1より政宗宮城の国分仙台近所に、屋敷を三町四方に取立、惣構に弘さ三十間の堀を掘り、二丈余尺の土手を築、彼地若林と名付、仙台より移し給ふ。去程に、諸士は云うに及ばず、町々までも出来して、往々は隠居所にもし給ふべきかと在る程なり。是に依て、成実屋敷の作事も出て、三四度申請、其頃兵部大輔*2とて幼少の子どもに、能をさせ参らせ馳走盛んなれば、成実屋敷に舞台を取立、同十一年二月十九日に申請、能をみせ参らせけり。先朝は数寄屋にて会席、夫より書院へ出御有て、唐織の夜着一つ小袖十、巻物十巻賜りけり。此方よりは太刀折紙・銀子百枚・毛馬一匹黒毛・綿二百目掛百把進上す。扨政宗装束を長袴に直し給ふと、何れも其作法にて能始まる故に、親類衆も各見物なり。是に付て万つ挨拶の為にとて、常の相伴衆をも椽頬に差置給へり。其中に宗檗といふ上方者にて、所領百貫文*3給はり、日来は相手を申す衣体*4あり、彼者其日書院にて相伴の筈なり。かかりけるに、兵部大輔能をし給ふ、幼ければ、政宗一入機嫌にて御坐す処に、宗檗酒気にも有けるやらん、又運の究めにても有やらん。いかにも浮気にかかり、ひたもの*5ほめて、歴々親類衆をも差越けれども、或は聞そらし、或は座興の様に取なし給ふと雖、猶も浮気にかかって、泣かせられぬは悪きなど、余所のみる目も憚からず、二三度申しける程に、毛色替り傍なる刀を取なをし、鞘がらみに宗檗が首べを打給へば、一二寸程打さけ顔に血の引きかかりければ、何れも座敷を引立ければ、政宗も御坐す座敷を立て、鍍の間*6へ入り給ひ、中島監物*7・佐々若狭*8両使を以て、成実所へ「作事彼是造作の上、いかなる腹立ありと雖ども、ケ様有るべき子細なし、況や宗檗事常々予が相手なれば、不便も加ふ事人々存知の処なり、去程に、今日も陰々ならば、其方所と云、又取立の首尾旁と云袷云恰、いかで堪忍なくては候べき、惣じて下としては其ときを見合せ、上たる者は折柄の浮押なくては、是又旁若無人とも云つべしや、能思案を以て見給ひ、あの白洲に居る見物の数千人、其中に諸国の者ども、二人三人宛居ざることはよもあらじ、其方所なれども、身上乍中納言迄経上り、行儀正うなきことは、第一禁中をも恐れず、人の嘲りをも憚らず、爰を以て礼儀をなすは、他国の者の口を恥ての義なり、尓るに、右の者我国々へ帰り、一年奥州仙台に有しとき、政宗を伊達安房*9と云親類の許へ振舞、能迄有しに、行儀正敷みへけれども、傍らに年頃の能相伴坊主の居けるが、我儘に云度ことを云せ、一円下拝なり、人は只聞及びけるとみたるとは、各別なりと云はれては、古よりの心掛水の泡とも消なん、只今の腹立是を以てのことなり。尓ると雖、其方立除ず半なるに、相互ひの年頃といひ、亭主へ申し分べき其為に、本坐を引込かくのごとし」との給ふ。是を承り感涙を催し、「有り難く仰せども哉、折節其坐に有合品々どもを見まいらせ、御立腹こと御十分なれ、尓るに、ケ様の仰せは痛入たる」由申ければ、重て亦「其方へ無心のこと、かあらばこそ悪しかるべき子細なし、亭主も心ほどけて見物あれ、能始めよ」と宣ひ、気色残るところ無く、夜に入て立給ふ。されば、爰に不審第一の事には、其日の暮より政宗何とやしたるらん、只火事到来せん心絶えずなり。亭主の者どもは、日頃の辛労に草臥ぬらん、其身ども懇に火の用心申付よと宣ひ、中島監物*10・奥山大学*11・佐々若狭*12、小姓頭に到迄、緊く詮議、其に又鍍間の爐中をば立給ふとき、付置ける者どもに自身宣ひけるとかや。尓る処に、上台所と中台所の間へ、濡縁の下の芥どもへ、煙草の火こそ落ちたるらん。両台所へ自然に焼入、其夜の寅の刻*13に屋敷一宇炎上す。尓るに、未だ焼かずうち佐々若狭を使に給はり、「笑止なれども損亡は計らざる時節なれば必心にかけまじく」と宣ひ、火事一日相過、書院の差図を自身に宣ひ、注文*14を差副焼訪ひに賜はり、此上不足のことをば、若狭よくよく承り申付よと宣ひける。扨ケ様なる心底を、書現すときは面影忘れると雖も筆も留り候はず。惣じて有程のことに心を砕き給ひしが、世界へ生をなす習ひとて終り給ひ、影もなきことは余所の見る目は兎も角も、家来の者は上下万民嫌ひなく、今も哀を催し悲んでも余あり。尓して後宗檗其場は逃れけれども、衣体の者に疵を付、二度召使給ふこと如何とや思われけん、二三日相過親子ともに死罪に及び候事。
(伊達史料集上より)

語句・地名など

馳走盛ん(ちそうさかん):世話をすること・面倒を見ることが熱心である
縁頬(えんつら):縁側のこと
一入(ひとしお):いっそう、いちだんと
浮気(うかれっけ・うわき):陽気で落ち着きのない感じ
差し越す(さしこす):でしゃばる・順序を踏み越える

現代語訳:

ところで、寛永の初め頃から政宗は宮城の国分仙台の近所に、屋敷を三町(約309メートル)四方に建物を築きはじめた。惣構に広さ三十間(約54メートル)の堀を掘り、二丈(6メートル)余りの土手を築き、その地を若林と名付け、仙台からお移りになられた。やがて、侍たちはもちろん、町の者までも集まり、町が出来、ゆくゆくは隠居所にもするのだろうかというぐらいになった。
これによって、成実の屋敷の建築工事も始まり、三、四度願い申し上げ、許可を得て、その頃幼少の子どもであった政宗十男の兵部大輔宗勝に能をさせなさり、熱心に面倒を見ていらっしゃったので、成実の屋敷に舞台を建設し、寛永11年2月19日に願い出て、能の興行を行った。
まず朝は数寄屋で会席をし、それから書院へ御出になり、唐織りの寝具1・小袖10・巻物10巻をくださった。こちらからは太刀折紙・銀子100枚・毛馬1匹黒毛・綿200目掛100把を献上した。
そして、政宗は装束を長袴にお着替えなさると、他の者もそのように装束を改め、能が始まったため、親類衆もそれぞれ見学した。このとき、社交の為に、普段の相伴衆も縁側に座らせていた。その中に、宗檗という畿内出身で千石の所領を賜っていた相伴の坊主が居た。かれもその日書院で相伴していたはずである。
そうこうしているうちに、兵部大輔宗勝が能をした。幼かったので、政宗は普段よりいっそう機嫌がよかったのだが、宗檗が酔ったのか、また運の尽きでもあったのだろうか。きわめて浮かれた様子になり、ひたすらに宗勝の能を褒めて、居並ぶ親類衆の方にも出しゃばってきた。親類衆は、ある者は聞き流し、ある者は冗談のように取りなしておられたのだが、宗檗はさらに浮かれた様子になって「(宗勝の能を見て)お泣きにならないのはよくない」と余所の者の見る目も憚らずに二三度言ったので、政宗の顔色が変わり、そばにあった刀を取りなおして、さやごと宗檗の頭を殴打なされた。二三寸程裂けて顔に血がかかるほどだったので、どちらも座敷を退き、政宗も座敷を立って鍍(めっき)の間へお入りになった。
そして、中島監物・佐々成政の二人を成実の処へ遣わして言葉を伝えた。
「工事や面倒の上、どんなに腹に立つことがあったとしても、このようにするべきではない。まして、宗檗は常日頃私の相手をしている者で、かわいがっていることを人々は知っているところである。今日もひっそりとした催しであったなら、其の方のところでもあるし、また建築の首尾と合わせて、どうして我慢しないでいられようか(=我慢できた)。仕える者は時節を見て、上の者は時期に応じての抑えをちゃんとしなくては人目を憚らず勝手気ままな振る舞いをするようになるだろう。よく考えてみれば、あの白洲にいる数千人の見物者の中に、他の国の者も2,3人居るだろう。其の方の催しではあるが、これは自分の身の上に関わることである。立ち居振る舞いが正しくなく、禁裏をも恐れず、人の嘲りを憚らず、これを礼儀とすることは他の国の者の口を恥じてのことである。これらの者たちはそれぞれ国に帰り、『奥州の仙台に一年いたときに、政宗が伊達安房という親類のところで饗応があり、能の催しがあったが、行儀は正しく見えたけれども、傍らに居た年配の相伴坊主が、我が儘に言いたいことを言って、みな頭を下げていた。人(=政宗のこと)は普段聞いているのと見るのでは大違いだなあ』などと云われては、昔からの心掛けが水の泡と消えてしまうだろう。ただいまの腹立ちはこのためのものである。しかし、其の方が立ち退かせることもなかったので、おまえとは長年の付き合いであるから、亭主(=成実)へ言い渡したいがために、このように座敷を退き引き込もったのである」と仰った。
自分は、これをお聞きし、感涙を催し、「なんと有り難い仰せであろうか。常日頃からのお思いをお教えいただき、ご立腹であるのは当然でございます。ですが、このような仰せは自分には勿体ないことと申し訳なく思います」と申し上げると、重ねて「其の方への文句は全くない。このような次第であるので、おまえに悪い事情などはない。亭主も落ち着いて見物せよ、能を再開せよ」と仰り、顔色も戻り、夜になってお帰りになった。
ところで、ここで一番不思議なことに、その日の暮れから政宗はどうしたのか、火事が起こるのではないかという予感がずっとしていたという。「成実の家中の者は日頃の疲れでくたびれているだろうから、おまえたちが火の用心を申し付けろ」とおっしゃり、中島監物・奥山大学・佐々若狭・小姓頭に到るまで、厳しく詮議し、また鍍の間の炉についても出発なさるとき、お付きの者に自ら仰ったという。
そうこうしていると、上台所と中台所の間の、濡れ縁の下の塵芥に煙草の火でも落ちたのだろうか、両台所へ燃え広がり、其の夜の寅の刻(午前四時ごろ)に屋敷まるごと炎上してしまった。火がまだ消えないうちに佐々若狭を使いに「大変な事であるが、損失については問わないので、気にするでない」と仰り、火事から一日が過ぎて書院の設計図を自ら仰り、火事見舞いの目録を添えて火事見舞いにいただき、これ以上も不足のことがあれば、佐々若狭に気兼ねなく言いつけよと仰った。
さてこのような(政宗の)飾りのない真心を書き表すときは、面影を忘れたといっても筆が留まらない。総じて、いろいろなことに心を砕き為された方であったが、世界に生まれた者の習いとしてお亡くなりになってしまい、もはや影も存在しないことは、余所の者が見る目はともかくとして、家来衆はみな身分の上の者から下の者まで皆嫌うことなく、今も哀しみを催し、非常に悲しんでいる。
そしてその後宗檗はその場はのがれたものの、僧体のものにケガをさせ、再び召し使うことを都合が悪いと思われたのか、2,3日過ぎて親子ともに死罪となった。

感想:

いわゆる成実邸での宗檗(宗碧)殴打事件&成実邸火事事件です。名語集42、木村本120に類似記事あり。セリフに関しては名語集、状況に関しては木村本の方が詳しく載っています。それぞれの筆者によって、かかれていることが違い、とても興味深いです。
しかし、『政宗記』で特筆すべきはここの部分でしょう!

扨ケ様なる心底を、書現すときは面影忘れると雖も筆も留り候はず。惣じて有程のことに心を砕き給ひしが、世界へ生をなす習ひとて終り給ひ、影もなきことは余所の見る目は兎も角も、家来の者は上下万民嫌ひなく、今も哀を催し悲んでも余あり。

成実は基本わりとクールな書き手なんだと思いますが(名語筆者や木村宇右衛門と比べて)、他の二人と違って情景の筆記だけでなく一言感想を付けるくせがあると思いますが、そこがとても筆者の性格がにじみ出ているように思います。
政宗が激しく怒ったのは、このとき大々的な興行(見物人が数百〜千いたととこれらの記事にあります。流石に数千は誇張だと思いますが)をきちんと行った成実家中を慮り、そして他藩の人に侮られることを危惧してのことで、私怨ではないということです。
ここの記事で非常におもしろいのは、「内々のひっそりした催しならば長袴も付けない・ここまで怒らない」と政宗が言っていることで、TPOをきちんと考え、それを害されたことに激しく怒る政宗の考え方がよくわかります。あと能に対しての態度とかも(これはアンソロの柏木ゆげひさんの『成実と伊達家の能』さんの指摘によります)。
政宗の数々の破天荒エピソードも有名ですが、政宗は人からどう見られるか、セルフイメージをきちんと計算して行動している人だということがここでわかります。
そして、家臣たちは、余所で政宗がどういわれているか(良いようにも悪いようにも)は知っているが、政宗がどういう人間であるかを理解し、その上で慕っていた…という様子も合わせてわかります。

ところで、木村本では、政宗が引きこもった「鍍の間」は「鎖の間」、「宗檗」が「宗碧」となっています。
木村本では宗檗の振る舞いに腹立った二人が、はじめ流そうとして、

政宗「年取ることほど無念なことはないな、酒までよわくなるのは不憫なことだ」
成実「御意のとおりです。年をとるほどすべてにつけて悔しいことはありませんね、この頃は殊の外衰えてみえます」

と冗談をいうシーンなどもあり、わりとおもしろいエピソードです。

それにしても、このとき成実の屋敷は全焼したのですが、周りの町も2,3町まるごと焼けたらしく、どういう状況で出火したのかが謎です。Twitterbotなどで、リアクション芸人のごとく成実がつけた説が流布しておりますが、さすがにそんな軽い気持ちですること出来ることではないと思いますので…。穢れ思想なんですかねえ…?
まあ死亡者とか居なかったらいいですね…うん…。さすがに自分でつけたのだとしたら避難させてたと思いたい…(笑)。つ、作ったばかりの屋敷と町が…。

*1:寛永四年から築城開始。翌五年十月に江戸から帰国後この屋敷に移る

*2:政宗の十男。兵部宗勝

*3:千石

*4:僧体・坊主

*5:ひたすらに

*6:不明

*7:意成

*8:元綱

*9:成実

*10:意成

*11:常良

*12:元綱

*13:午前四時

*14:火事見舞いの品々を記した目録