『政宗記』7-4:政宗が会津にて年を越したこと
原文
天正十七年六月、政宗二十三歳の歳、会津へ所地入其暮の越年に、譜代幷会津・仙道の新参衆、残りなく相詰祝儀を申し納め、由々敷正月斜ならず。同十四日には、嘉例の謡始乱舞の上、例年の如く自身の酌にて各酒を賜はり大狂をし給ふ。かかりけるに、新国上総六十に余り、顔に白粉をぬり、小鼓を打けり、已に会津の古主盛氏取立給ふ恩の身にて、如何に世を諂ふ習ひと云ども、余りに過たる振舞哉、年には似合はず、とて何れも批判候事。
地名・語句など
大狂い:大いにふざけたりはしゃいだりすること・ばかさわぎをすること
現代語訳
天正17年6月、政宗23歳の年、会津へ入り、年越しをする際、譜代と会津・仙道の新参衆すべてが集まり、祝儀を献上し、この上なく素晴らしい正月であった。同14日には正月恒例の謡始めがあり、乱舞があったあと、例年の通り御自身の酌にてそれぞれお酒を給わり、大いにふざけた無礼講の会となった。
このときに新国上総貞通という60を越えた者が、顔におしろいをぬり、小鼓を打ったのだが、これは昔会津の元の主芦名盛氏に取り立てて貰っていた恩のある者だったのだが、いくら敗者が諂うのはよくあることというけれども、年に似合わぬ余りに酷い振る舞いであるなあと、みな批判なさった。
感想
天正18年の会津黒川城(現在の会津若松城ですが、若松と名付けたのは蒲生氏郷で、当時は黒川城と呼ばれていました)での年末年始の正月祝いの様子が書かれています。
このとき、新国上総貞通が、白いおしろいをぬり、小鼓を打っていた様子が、60を越え、分別を知っているはずの老齢の者であると言うのに、こびへつらっている様子を「人々の」批判をさそった…とありますが、これって成実自身の批判も多分に含まれていますよね…。後の宗碧殴打事件や最上義光の秀次へのすりよりへの批判を考えると、むしろ成実の批判にも思えてきます。