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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』3-11:黒川月舟死罪逃れらる事

『政宗記』3-11:黒川月舟斎が死罪を逃れたこと

原文

今度大崎との戦に、伊達の勢不手際なるは、黒川月舟逆心の故也。政宗重ねては先、月舟居城の黒川を押倒し、其れより大崎をと思はれけれども、大崎と取組玉へば、跡の如く佐竹・会津・岩城・白川、各本宮へ打出て働き給ふべきことを気遣ひ、其年は先延引にて御坐す。爾る処に翌年又仙道の軍再乱して、政宗方勝利を得られ、剰へ会津迄手に入れ、一両年の間在城となる。去程に今より後は関東へと志し、大崎の事をば詞にも出し給はず。爾るに太閤秀吉公小田原御発向に付て、会津をば召上米沢へ本領し給ひ、偖て葛西大崎をば木村伊勢守拝領にて、政宗へは名取・国分・宮城・黒川切に下されければ、月舟は聟の上野処へ蒐入「身命許りを助け下され候へ」と申す。其こと政宗へ上野申上けるは、大崎にて思ひの外討死なるは月舟逆心故なり、其供養に月舟首を刎んと宣ひ、秋保へ遣はし、境野玄蕃にあつけ給へり。是に仍て上野、米沢へ相詰、「右大崎にて浜田伊豆・館助三郎・宮内因幡、我等の身命恙もなく退きけることは月舟心操なり、然りと雖ども是を申したつるには非ず、偖親分に候程に、其所領を一宇差上奉公に及び、只報恩に月舟身命助け下され賜らはん」と、百度の歎きに仍て、伯父*1の訴訟と云へば、是非なく承引し給ふ。上野、月舟を玄蕃の手前より請取、宮城の居城利府へ帰り、悦こぶこと尋常ならず。爾して上野申し立てられける所領も、召上給はず首尾能相済、後には上野方への志とて、少分ながら月舟へも堪忍分を給はり、其後仙台在城となりては屋敷を玉はり折節は政宗へも呼ばれけり。是偏へに上野への首尾とぞ聞ける。爾るに月舟伯父八森相模、右大崎桑折の城にて、月舟へ已に強き諌のこと、其上政宗差給ふ小旗の紋を、其身の紋になしければ、旁心に深くかかり、小国へ遣はし上郡山式部に預け、後には妻子共に死罪に行はれ候事。
          寛永十九年壬午止六月吉日    伊達安房成実

語句・地名など

小国:山形県西置賜郡小国町
心操(しんそう):心がけ、心ばえ

現代語訳

このたびの大崎との戦に、伊達軍の手際が悪かったのは、黒川月舟斎晴氏が反逆したためである。政宗はまず月舟斎の居城黒川城をせめ、それから大崎をと思っておられたけれども、大崎と戦い始めたところ、既に記したように佐竹・会津・岩城・白川がそれぞれ本宮へ出て動くであろうことを心配し、その年はまず延期となされた。そうしている間に、翌年また仙道の戦がふたたび起こり、政宗方が勝利し、そのうえ会津まで手にいれ、1,2年の間城となされた。
これよりあとは関東へと勢力を伸ばすことを志し、大崎のことは言葉にもお出しにならなかった。そして太閤秀吉公小田原を出立されたとき、会津を召し上げられて米沢へ本領と戻され、葛西・大崎を木村伊勢守吉清が拝領した。政宗へは名取・国分・宮城・黒川を熱心に下されたので、月舟斎は婿の留守上野政景のところへ駈け入り、「命ばかりはお助け下さいませ」と言った。政景はそのことを政宗へ申し上げたところ、大崎にて想像以上に多くの兵が討ち死にしたのは月舟斎の反逆の所為である。その供養のために月舟斎の首をはねようと仰り、秋保へ遣わして、境野玄蕃にお預けになった。
これによって留守政景は米沢へ上がり、「以前大崎にて、浜田伊豆・館助三郎・宮内因幡、私の命もつつがなく退却できたことは、月舟斎のしてくれた配慮のおかげである。しかりといっても、これを申し立てるのではなく、私の親のようなものであるから、その所領をすべてさしあげ、仕えさせ、その報いに応じて月舟斎の命をお助けくださいませんでしょうか」と100度の歎きの言上により、叔父政景の訴えでもあったので、仕方なく引き受けなさった。
留守政景は月舟斎を境野玄蕃のところから引き受け、宮城の居城利府城に帰り、このうえもないほど非常に喜んだ。
政景の申し立てなされた所領も召し上げにはならず、首尾よくすみ、その後は政景への志しとして、少くはあったが月舟斎へも堪忍領をお与えになり、その後仙台に城が移ってからは、屋敷を賜り、ときどきは政宗のところにもお呼ばれになった。これはひとえに政景への配慮であると聞いた。
さて、月舟斎の伯父八森相模という者について、大崎桑折の城で月舟細を強く諫めたこと、その上政宗が指していた小旗の紋を自分の紋にしていたことが心に強くひっかかっており、小国へ遣わし、上郡山式部にお預けになり、のちには妻子ともに死罪になさったのである。

感想

ようやく、まとめてですが、大崎合戦のくだりをupすることができました。ここら辺戦の展開をよくわかっていないのもあって、なかなか訳せませんでした。おそくなって申し訳ない。
伊達史料集によるとこの巻三は前半の巻には珍しく、唯一寛永13年に成立した分なのだそうで(奥書がそうなっています)(1・2・4・5・6・7は寛永13年成立、3・8・10・11・12が寛永19年成立したと推測されています)。成実があまり関与していないこともあり、思い出すのに時間がかかったのでしょうか。理由はわかりませんが。

*1:叔父の間違いか。留守政景は政宗父輝宗の弟