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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』11-1:政宗物僻事

『政宗記』11-1:政宗の物数寄について

原文

去ば常々物僻にて御坐す、爾程に数寄道をも、日来心掛給へり。其故に先茶湯の道具より申せば、碾茶壺、肩衝・桶口肩衝・侘助肩衝・紹鷗文琳・壺物・大海・利休物相、茶入れの名物此のごとく。扨虚堂墨跡、是は大相国秀忠公より拝領し給ふ、清拙墨跡、輝東陽墨跡、布袋痴絶賛、寒山十得痴絶の賛、定家の色紙、梅の画無極の賛。牧渓の画虚堂賛にて三幅対。是は都の町人勘兵衛と云いけん者持けるを、堀出に黄金五百枚に取給ふ。扨砧の花入青磁なりしが、砧の太みに薬力かからで、一寸五分四方丸く焼切有て剰へ其中破たり。其破へ唐にて鉄を以て、かすがいを打ければ、水を持花入となり、天下の名物なるを、太閤秀吉公色々の仰立にて拝領し給ふ。家の宝物となるなり。破笠の香炉、其外数多之有りと雖も一々記すに及ばず。扨又大小は、鎺き国行・来国光・宇佐美長光・二字国俊・守家・三原正家・大原真守・当麻包永・守家・長光・貞宗・信国・一文字・保昌五郎・日理古備前・来国光・正宗・左文字・大倶利伽羅広光、相国秀忠公より忠宗拝領し給ふ。脇差には、別所貞宗・左安吉・大鼓磬貞宗・真長・鎬き来国光・国行・左文字・正宗・二字国俊・鎬き藤四郎吉光、是天下の名剣なりしを太閤秀吉公より拝領し給ふ。家の家宝となる也。破笠の香炉、其外数多之有りと雖も一々記すに及ばず*1。扨又大小は、此外記に暇あらず。惣じて何事によらず、或珍物・名物、或は乱舞のかた、何れ成とも是は浮世にすぐれ、客抔の馳走には、一廉なるものなれば、何程にても其造作には構へ給はず。縦へば乱舞の方を申すに、笛太鼓、或は諸職人に至る迄、名を呼ぶ程の上手なれば、必ず抱ひ給ふ。去程に、桜井八右衛門とて譜代なりしを奈良の都の今春八郎に十四五ヶ年、大分の造作を以て付置給ひ、能の名人と成、今天下に其名を呼れけり。此の如く取立給ひ、役者彼是三万石余の入方なり。爾れば、至りて能僻かと思へば左もなし。扨は無僻かと思給へば左はなくして、只夫々の折に隨ひ、能拍子をもたせ給ふ。有とき若林の西枢輪にて、各親類衆一家へ振舞給ひ、能をさせ給ふに、二番目は実盛なり、さればして語りの内に、「実盛常に申せしは、六十に余り軍せば、若殿原に争ひ先をかけんも長けなし。又老武者とて、人々に慢られんも口惜しかるべし、鬢髭を墨に染め、若やぎ討死せんずる由、常々申し候らひしが、誠に染て候ひける」と、さしも勇々敷申ければ、政宗ひたもの落涙し給ふ。此有様をみ参らせ、知も知らぬも或は田夫野人に到迄、皆落涙せざる者はなし、又或時の能に、定家をさせ給ふ。是は時雨の亭とて好有処なり*2、都の内とは申し乍ら、心すごく物哀れなればとて、此亭を立置時雨の頃の年々歌をも詠じ給ひしとなり、古跡といひ折柄といひ送縁の法をも説玉ひて、彼御跡を吊ひあれと、太夫謡ひければ、誠に座敷に有かね声を立られ、鼻紙にて顔を押え給ふ。扨此ときは物の味を存じたるも存ぜざるも皆感じける。只義理の深きことには、必ず落涙し給ふ。されば有とき咄に、「当世はやりものにて、大身は云に及ばず、二三万石取者迄も、家中に横目を付、家来の悪事を聞出さんとす、勿論仕置の為理りなれども、又思案を以てみるときは、天下の御主より外入らぬ事と思ふなり。其謂を云に、何こと有ども一度は主君に対し、二つ無き命を奉ると思ふは、下の習也、去れば迚、其者どもに横目を付、昔が今に到るまで、傍輩は笑ひ敵迚、一言なりとも能事をば見立すして、悪出来よかし、主君へ申上んと計りねらふべし、又ねらはるる者は、主人奉公をば脇になし横目の気を取、悪事をしらざる様と、二六時中其気遣のみに候はん。爾れば、横目を分々退々に召仕事、家来は主君を敵と思ひ、主人も又家来の者を敵となして、一代を召使ふ道理なり、扨こそ家中ども仕合の能折柄は主と仰ぎ、悪事のときは何の役にも立間敷也。尤も有ときは、代々の者どもを、横目にねらはせけること、第一不便の至り也。爾れども、横目付程吉事悪事の嫌ひなく、申上よと云付、吉事の者には褒美取せ、悪事のものをば曲事に行事、是正法にて面白くもあるべきか、左はなくして、只物の悪事計り聞けとのことは、先上下の作法も違ひ、兎角我等式には、似合わず思ふ。若年より横目を付すに、此年今日迄万づ仕置けるに、旁々覚えの如く違事一度もなし、其昔方々軍の時代さえ、当坐其日の横目と有儀は事によるなり、分て今静謐の御代、人々はいかにもあれ、我に於ては惜しむべき被官共を、敵になして召使事、此咄も暮々いやなり。横目を付何と用心有とも、不届者は悪事なくして叶ふまじ。其へ又好者共に不断気遣させ、更に入らぬ事なり、不届者悪事あらば、其時々に申付尤也。但横目僻なる其家は主人構て手弱故に、下の横目を手よりにせんがためか」と、手を打て是を成実とかく大笑をし給ふ。さて有年江戸浅草にて、金剛大夫上意せしめ、一七日の勧進能有り。二日めは、諸大名衆政宗見物し給ふ。其日は七番の筈にて、終日の事なりければ、太夫少々労倦やらん、祝言前の能如何にも不出来なる故、芝居の者迄一円進まず、諸大名衆は云に及ばず、芝居中も立毛色に成て、政宗御簾を上自身、「今日の能如何とやらん残り多かりければ、一番所望申すなり、各も立騒がで見物あれ」と宣へば、此義に何れも隨ひ給ふ。斯りけるに、太夫「冥加なる御望には候へども、罷成間敷」と申す。政宗「所望の処を成間敷とは推参なり、成間敷とも頻りにさせん、重ての返事に依て、楽屋を打囲み、縦へば言上申すとも、争僻事ならん、其品尋ね承れ」と宣ふ。是に依て上の御横目には、桟敷奉行衆、政宗桟敷へ御坐して、「仰の向を背きなば、某とも計ひ候はん」とて、同心衆を引付御坐ければ、太夫「罷成間敷には非ず、勧進能と申せしは、役者の者ども我儘にて、手前の役さへ相済ければ、隙明次第に先々罷帰、今は早祝言の役者計に罷成て候程に、爰を以て右の御挨拶、御心に掛け奉り驚入」と申す。政宗「其儀ならば最前より、其子細を申すべき事なり、又役者どもも昨日と違ひ、今日は諸大名衆の見物にて、我人共にに*3桟敷を立ず、其先に帰るべき謂れなし。其上天下の御役者なれども、慰のためなれば、それぞれに似合敷扶持切米を取せ置も、ケ様の時の為なり。未だ我も立たぬ其前に、手前の役過たり迚、帰るべき謂れなし、何れも宿々へ行て、一々引返せ」と宣へば、承り候とて侍歩行に至る迄、我先にと追掛残らず皆引返しけり。爾りと雖も、兎角して能の間、相延ければ、惣芝居もあぐみたる体也、「旁待遠なりとも、今少し待給へ」迚、小姓頭を召て、「俄なれども惣芝居へ酒を振舞」と宣ふ。何事によらず、思はれけること共の欠かざる様にと、兼て心掛油断なき折節なれば、諸白の大樽共数を知らず。後には大樽・半切に至る迄取出、爰彼処にて打砕、引冠湿て絞る者あり、種々様々の肴ども、盆供饗数を知らず。東西の御寄合、貴賤群衆をなしける芝居、さしも弘き江戸なれども、所なげにぞみえたりける。盃に土器の千二千出ても足らぬ故、「梨地に蒔絵したる重箱、或は家具とも、或は皿・砂鉢の類迄、酒を酌げる物ならば、皆取出せ」と宣ふ程に、当るを幸に投出しければ、芝居は上を下へ下を上にとくつがえす。東西の諸大名衆、面々桟敷の酒宴を止、御簾を上げ見物し給ふ。酒も漸過けるに、政宗「いかに芝居の者ども、其へ出たる程の道具をば、皆取するぞ、思々に取て行」と宣ふ。金銀の砂を敷たる程なれば、数少きならばこそ、我の人のと奪ひけめ、思々に取て行。誠に立田川に紅葉流るるを錦とし、吉野・初瀬の花盛も、此庭の有様には争過間敷ぞと、諸人耳目を驚す。大樽共を背負、荷担て行もあり、上下万民勇みて、何れも我宿所へ帰りける。扨翌日は差も弘き江戸なれども、何か昨日の道具共、一色ずつ持ざる者はなし、去程に御横目衆、其旨上聞に達し給へば、殊の外なる御感にて、「余人は学ても成さぬ事」と御諚の由、爾後政宗屋敷へ帰り、手前の役人どもに「比類無き支配共斜めならず、何ときも今日の心へ肝要なり」と宣へ、褒美を取せ給ふ。有難き忝とて、何れも悦候事。

語句・地名など

入方(いりかた):入用、出費
ひたもの:しきりに、はげしく
暮暮(とくれかくれ):そうこうしているうちに、とにもかくにも。
芝居(しばい):武家・貴人達の桟敷席と舞台との間の芝生にもうけた庶民の見物席
諸白(もろはく):精白した米を用いた上等の酒
半切(はんぎり):底の浅い桶。半切り桶

現代語訳

さて、政宗はつねづね数寄を解する人でいらっしゃった。なので、日頃から数寄道を心がけておられた。それ故に、まずお持ちであった茶の湯の道具からいいますと、碾茶壺、肩衝・桶口肩衝・侘助肩衝・紹鷗文琳・壺物・大海・利休物相、などの茶入れの名物をお持ちであった。
虚堂墨跡というのは、大相国秀忠公より拝領したものである。清拙墨跡、輝東陽墨跡、布袋痴絶賛、寒山十得痴絶の賛、定家の色紙、梅の画無極の賛。牧渓の画虚堂賛にて三幅対。これは都の町人、勘兵衛という者持っていたのを、掘り出し物で黄金五百枚にて買い取ったものである。
また、砧の花入青磁であったものが、砧の太みに薬力がかからず、一寸五分四方丸く焼き切りがあり、そのうえその中が破れていたものがあった。その破れたところへ唐にて鉄をつかって、かすがいを打ち、水をいれて花入とし、天下の名物となったものを、太閤秀吉公さまざまな経緯で拝領したものである。これは家宝となった。破笠の香炉など、そのほか数多くあるのだが、いちいち記すには及ばない。
また刀の大小は鎺き国行・来国光・宇佐美長光・二字国俊・守家・三原正家・大原真守・当麻包永・守家・長光・貞宗・信国・一文字・保昌五郎・日理古備前・来国光・正宗・左文字、相国秀忠公より忠宗が拝領した大倶利伽羅広光。
脇差には、別所貞宗・左安吉・大鼓磬貞宗・真長・鎬き来国光・国行・左文字・正宗・二字国俊、
鎬き藤四郎吉光は天下の名剣であったものを太閤秀吉公より拝領した。家宝となった。
破笠の香炉など、そのほか数多くあるのだが、いちいち記すには及ばない。また刀の大小はこの外記すに時間がないほどである。
すべてどのようなことでも、まためずらしいもの、名品、或いは能楽師など、なんであっても、世間ですぐれ、客などのもてなしに必要なものは、すぐれているものであれば、いくらかかっても手間や費用をかけることを惜しまなかった。
たとえば、能役者の話をしますと、笛・太鼓・或いは諸職人に至るまで、名のある程の名人であれば、必ず召し抱えなさった。あるときは桜井八右衛門といって譜代の家臣であった者を、奈良の都の金春八郎に14、5年、多くの費用をかけてつけさせ、能の名人とさせて、今八右衛門は有名な名人となっている。このように取り立てられた役者などにかかった費用はかれこれ三万石余りの出費であった。
では、非常に能好きかと思えばそうではなかった。しかし好きではないかと思えばそうでもなく、ただそのときどきに従い、能拍子の機会をお持ちになった。
あるとき若林城の西曲輪にて、親類衆・一家のものを集め、饗応をし、能会をもよおされたのだが、2番目は「実盛」だった。その語りの内に「実盛が常に言っていたのは、60を越えて戦に参加したら、若武者達相手に争って先駆けしようとするのも大人げなく見え、また老武者であると人々にあなどられるのも口惜しいものである。鬢髭を墨色に染め、若やいで討ち死にしたいものであると常々いっていたものだが、本当に染めていたとは」という部分があり、能役者が勇ましく申したところ、政宗は激しく落涙なさった。この有り様を見て、物事を知るも知らぬも、あるいは教養のない粗野な者にいたるまで、落涙しなかった者はなかった。
またあるときの能に、「定家」をさせなさった。
「…(定家卿が)この亭を立て置かれ、時雨の頃に毎年和歌を詠じなさった、ということです。由緒ある古跡でもありますし、またちょうど時雨の季節でもありますので(時雨に降られて僧は知らずに時雨亭の古跡に雨宿りしたという展開が、この前にあります)、ちょっとした順縁とは言えない縁ではありますが、定家卿の菩提をお弔い下さいませ」と太夫が歌ったところ、本当に座敷におられかね、声を立てられて泣かれ、鼻紙にて顔を押さえなさった。このときは物の味もわかる物もわからないものも皆感動した。ただ、義理の深いことには必ず落涙なさりました。
すると、あるときお話しされたことに、「近頃流行っているものとして、大大名は言うに及ばず、2,3万石をもつ者まで、家中に監視をつけ、家来の悪事を聞き出さんとする。もちろん家中の仕置のためという名分はあるけれども、よく考えてみれば、天下の御主以外、要らないものだと思う。その訳はというと、どんなことがあるとしても、一度は主君に対し二つと無い命を差し上げると思うのが、仕える者の習いである。しかし、その者たちに横目を付け、昔から今に至るまで、傍輩は勿論敵までも、ひとことであっても良いことを見出ず、悪いことがおき、主君へ申し上げようと考えてねらっているだろう。また狙われる者は、主人への奉公を疎かにして、監視の機嫌をとり、悪事を知られないようにと、常に気遣いするようになるだろう。されば、監視をそれぞれに召し使うことは、家来は主君を敵と思い、主人もまた家来の者を敵と思って、一生を送るということである。であるからこそ、家中の者も調子のよいときは主と仰ぎ、悪いときは何の役にも立たなくなるだろう。尤も、あるときは代々の者に監視をつけることは仕方なのないことである。しかし、監視人に良いこと悪いことの区別なく申し上げよといいつけ、良いことをした者には褒美をとらせ、悪いことをしたものを成敗するのは、これは普通のことであって、面白くもない。そうではなく、ただ物の悪事だけ聞けということはまず身分が上の者と下の者では価値観も違い、とにかく自分のやり方には似合わないように思う。若い頃から監視をつけ、この年今日まですべての仕置きをしていたけれども、おまえ達は覚えているように、やり方を違えたことは一度もない。その昔、戦の多かった時代でさえ、その日の監視と意味はときと場合による。特に今は落ち着いた静かな時代となり、他の人はどうであれ、自分にとっては惜しむべき家臣たちを敵にして召し使うことは、この話をするのもとにもかくにも嫌である。監視をつけていかに用心していても、不届き者は悪事をするだろう。その上また気に入っている者たちに常に気遣いさせることは更に不要なことである。不届き者が悪事をするならば、その時々に申し付ければいい。しかし、監視をつけるのを好きなその家は、主人が極めて弱いから、下の監視人を頼りにするために監視をつけているのかな」と、手を打って成実と話し、大笑いなさった。
さてある年、江戸浅草にて、金剛大夫を呼び、七日間の勧進能があった。二日目は、政宗を始め諸大名衆が見物なさった。その日は7番の予定で、終わる予定であったのだが、大夫は少々疲れていたのだろうか、祝言前の能がいかにも不出来であったため、桟敷席と舞台の間の芝生の上にいた見物人までもみな気持ちが進まず、諸大名衆はいうに及ばず、見物人達の中も苛立つものがある様子になった。すると政宗は御簾を自ら上げ、「今日の能はなんとも心残りが多いので、もう一番するよう望む。皆様も立ち騒がずに見物ください」とおっしゃったところ、これに何れも従った。しかし、大夫は「有難いお望みではありますが、できません」と言った。政宗は「所望の所をできないとは無礼である。できなくとも同じようにさせよ、かさねての返事によって、楽屋を囲み、もし言上するとしても、不都合なことになるぞ、そのことを聞きいれよ」と仰った。
このため、将軍の監視として桟敷奉行衆が政宗の桟敷へ来られ、「仰ることの内容を背けば、それがしとも相談しましょう」といって、同心衆を集められた。すると大夫は「できないのではなく、勧進能というものは、役者の者たちは自分たちのやり方で、自分の役が終われば隙があり次第それぞれ帰り、今はもう祝言の役者のみになっているので、このため先の御言葉、お心にかけていただき、大変驚き入っております」と言った。政宗は「そういう理由であるなら、一番始めからその詳細を言うべきである。また役者たちも、今日は昨日と違い、諸大名衆の見物なのだから、我が儘に桟敷を立ち、先に帰るべきではない。おまえ達は天下の役者であるだろうが、人々の楽しみのためであり、それぞれに似合わない扶持・切米をもらっているのは、このようなときのためである。まだ我々が去る前に、自分の役が終わったからと言って、帰るべきではない。いずれも宿へ行き、それぞれを連れ戻して来い」とおっしゃったところ、了解したとして、徒立ちの侍にいたるまで、我先にと追い掛け一人残らず連れ戻した。
しかし、しばらくして能ができるようになるまで、時間が延びたので、見物人たちもみな飽きていたような様子であった。政宗は「皆様方、待ち遠しいですが、もう少しお待ち下され」といい、小姓頭を召して、「急なことではあるが、見物人のすべてに酒を振る舞え」と仰った。何事においても、落ち度のないようにとかねてから心がけていたときだったので、諸白の大樽が山のように用意してあった。のちには、大樽・半切り桶に至るまでとりだし、ここかしこにて打ち砕いて、冠を引いて湿らし絞る者もあり、種々様々の肴、盆供饗もたくさん出した。東西から来た寄合や、身分の高い者から低い者まで、群衆となった見物人の数は、広い江戸であっても、他になかったように思う。盃に土器の千や二千出しても足らないほどであったため、「梨地に蒔絵した重箱、あるいは家具でも、或いは皿・砂鉢の類まで、酒を告げるものならば皆出せ」とおっしゃったので、手に当たるものから投げだしなさったので、見物人は上手へ下手へとくつがえすように大騒ぎになった。
東西の諸大名衆は桟敷の酒宴を止め、御簾を上げて此の様子を御覧になった。酒もようやく過ぎたところで、政宗は「見物人たちよ、そこに出ている道具を、みなやるぞ、思い思いにとってゆけ」とおっしゃった。金銀の砂を敷いてあるほどのものだったので、数が少ないからこそ、人々は我先に奪い取りあい、思い思いに取っていった。
本当に、立田川に紅葉流れるのを錦とした故事や吉野や初瀬の花盛りであっても、この庭の有り様のようではなかっただろうと世間の関心を引いた。大樽を背負う者もあり、荷物を背負って行く者もあり、身分の上下を問わず皆楽しんで、それぞれの宿所へ帰っていった。
さてその翌日は非常に広い江戸であっても、なにか昨日のものをひとつももたない者はいなかった。そのように将軍の横目衆が将軍家光公にその旨を申し上げたところ、非常に感動なさったということで、「他の者は学んでもできぬこと」と仰せになったという。その後政宗は屋敷へ帰り、手配した役人達に「非常によいやりようであった。いかなるときも今日の心得は大事である」と仰り、褒美を取らせられた。有難き心添えであると、みな喜んだ。

感想

「政宗の物数寄について」の章です。
政宗が所有した名物・名刀の列挙にはじまり、政宗の能に対する傾倒、「実盛」「定家」を見た際の号泣事件、横目(監視)を家来につけることについての感想、有名な浅草での金剛大夫脅迫?事件(笑)とそのあとの大騒ぎについて書かれています。なんともエピソード盛りだくさんです。
盛りだくさんすぎて、この盛りだくさん具合(と話のブレ具合)が成実の文章の醍醐味であるとさえ思うぐらいです!(笑) でも本人としてはきっと筋はぶれてないのです。政宗のすばらしさを語る文章という意味で。

実盛号泣事件については

に書いたとおり、皆が泣いたんじゃなくって激しく泣いたのは主に政宗と成実だった…ということが木村宇右衛門及び『名語集』筆者によってバレています。
それが成実に言わせると「田夫野人に至る迄」泣かなかった者はいなかった…になるのですから、誠に文章というのは罪深い。かきようによってどういう風にもなりますね。
定家でも政宗は泣いていますが、とにかく木村本・『名語集』でもわかることは政宗は感動したらすぐ泣く(しかも大泣き)人であったようですね。怒ると怖いも合わせてかいてあるので、喜怒哀楽の激しい人だったようです。

そしてそこから(何故か)横目(監視)をつけるつけないの話になるのですが、政宗も若い頃はつけていたことが『政宗記』にも登場しますが、老境に達した政宗はそれに対し批判的になったということが書かれています。疑心暗鬼の末に主従の信頼関係が崩れることの方がよくないという理由です。
最後に(横目をつける)他の家のことについて冗談を言って笑っているところがなんとも微笑ましく感じます。成実がこれを書いた理由はきっと政宗の鷹揚さなどを誇示するためかと思われます。

そして金剛大夫事件。
この逸話は立花宗茂が細川忠興に伝える形で細川氏の記録に残っているそうで(『綿考輯録』)、政宗の破天荒エピソードのひとつとして、かなり有名になりました。また『名語集』43にも同様の記事があります。
脅迫というか、殺すよ?と言ったことまでかかれております(笑)。上記ではわりとマイルドな脅迫ですが。
それぞれに書かれている政宗はほぼ同じ言動をしているので、これは実際にあった事件なのは確実だと思うのですが、同じ言動を見た人がこれほどまでに違う感想を抱いているというのが史料を読む上で楽しいことですね。細川忠興はドン引きしているようですが、(立花宗茂はこんなことがあったよ〜程度だったらいいけど…)木村・『名語集』筆者ともそうですが、成実の誇らしげな書きっぷりが印象的です。
成実アンソロ壱所収『成実と伊達家の能』では、柏木ゆげひ(twitterID@kashiwagiyugehi)さんによると、当時能役者の横暴が問題になっていたようで、もしかしたら政宗の言動もそれに対する抗議の意味も有ったかもしれないと指摘されています。
しかしまあそのあとのどんちゃん騒ぎは酔っ払いのそれにしか見えない…。
なんか楽しくなってしまったのだろうな…。
諸白の樽を一生懸命運んでいる伊達家の若い者たちの姿が目に浮かびます(笑)。

どうでもいいんですが、下線の部分は何故か二重になっている部分です。
『伊達史料集』の誤植なのか、原文がそうなっていたのか、写本の原文がそうなっているのかわかりませんが、その後一回刀剣のことについて書いたあとで、また書こうとして「書くに及ばず」になっているので、もし成実が一回書いたあとで間違ってまた書こうとして間違えたのなら、おもしろいんですけどね(笑)。
うっかり(笑)だけど、書き直すのも面倒臭いからそのまま…とか。

【20140928追記】

  • 柏木ゆげひさんの御教示を受けまして、「定家」部分の訳を訂正させていただきました。
  • 『木村宇右衛門覚書』には119「仙台城西曲輪にて能「実盛」を観劇したときのこと」に定家事件・実盛事件、102「浅草で金剛大夫勧進能を観劇したときのこと」に金剛大夫事件の対応記事があります。

*1:この行二回ありますが、伊達史料集ママ。

*2:現在はこの部分はどの流派でも「これは藤原の定家(さだいえ)の卿の建て置かせ給へる所なり」というそうです*柏木ゆげひさん情報

*3:史料集ママ