『政宗記』3-5:大崎での戦のこと
原文
同十四年七月、政宗仙道の軍募りて四本松二本松迄で手に入玉ひ、八月始めに米沢に帰陣し給ふ。然る処に大崎義隆の家中二つに分り政宗へ申寄、其根本を如何にと申すに、其頃義隆へ拒障上の新田刑部と云、双びなき義隆崇敬の者あり。爾るに彼者いか成虚言もありけるやらん、義隆前跡のやうにもなく、其後又伊揚*1惣八郎といへし者近く使いひ給ふ。故に刑部驚怖を銜み、親類多き者なれば、其者ども一同してさたなしけるを、惣八郎見合大事とや思けん、岩手の城主氏家弾正と云けん者、末の頼みになさんとて、弾正方へ其旨頼みければ、引立候べきとて誓詞を以て約束なり。刑部親類是を聞て、弾正取持程ならば、刑部一党悪むべしとや思けん、其頃大崎・伊達の境論にて、義隆と政宗不和なりけるを、刑部一党是を悦び、「伊達より加勢を下され弾正一党惣八郎と共に討果たし、義隆へも自害をさせ、大崎中をばたやすく御手に入ん」と申す。政宗「一左右次第に人数を遣すべし」と宣ふ。爾と雖も刑部其頃迄、義隆へ付参らせ玉造の名生の城に相詰けり。されば義隆へ弾正申けるは、「刑部一党政宗へ忠を入れ、逆心して既御滅亡の禍ひなり、去程に刑部をば誅罰あるべく候や、しからずば牢舎には如何あらん」と申す。義隆中処は「去る事なれども、幼少の者より召使ひ、又死罪牢舎は不便なり、只其身の在所新田へ遣はすべし」と宣ふ、様々に諫めけれども其甲斐なし。斯て義隆刑部を召して、「其身一党逆意を企ち口惜けれども、幼少より召使ける其賞に死罪を思ひとどまり候ぬ、今より在所新田へゆけ」と宣ふ。刑部「仰せは尽し難けれども、御暇を給はり御本丸を退きなば、心に掛り候とて傍輩どもに、即時に討れ候べし、恐れ多き申ことには候へども、只今迄の報恩に、中途迄召連下されなば、有難く覚へ候べし」と申ければ、不便の由宣ひ大崎の内伏見と云処迄送り給ふ。爾るに刑部究竟の郎等ども二三十人、刑部には付ずして義隆を、前後左右に打囲て参りけるを、義隆「供の者ども無用」と申せば、早事を出すべき風情にて、漸伏見へ送り玉ひ、「是よりゆけ」との宣へば、刑部は「其身計り参るべき体なれども、郎等ども迚も新田迄召連下さるべし」と申す、供の衆如何あらんと申しければ、義隆を討果さんとす、故に思ひも寄ず新田へ送り、在城名生へも送らずして新田に止置候なり。去程に刑部親類、狼塚の城主里見紀伊守、谷地森の城主主膳、宮沢の城主葛岡太郎左衛門、古川の城主弾正、百々の城主左京亮、八木沢備前、米泉権右衛門、宮崎民部、中の目兵庫、飯川大隅、黒沢治部、これは義隆の子舅なり、斯くの如くの歴々の者共、右には政宗へ申寄、御威勢にて氏家一党惣八郎と共に討果し、義隆へも自害を成せ参らせんと企ちけれども、思の外義隆を生捕本の心を今又引替、伊達を相捨義隆を守立て、氏家と惣八郎を退治せんとの評定にて、帰忠の面々共義隆へ申しけるは、「刑部親類申合せ、取立申す程ならば、累代の主君と申し誰か疎に思ひ奉るべき、只弾正一人と思ひ詰、已に二世の供迄約束なりしを、今に到りて退治とは面目なきとは思ひけれども、新田に押止訴訟なれば、流石力及ばず尤もなりと同じける」。
語句・地名など
狼塚(おいぬづか):宮城県加美郡中新田町狼塚
拒障(こしょう):辞退すること
崇敬(すうけい):あがめ奉ること、心から尊敬すること
一左右(いっそう):便り、知らせ、指示
究竟(くっきょう):非常に強い、この上なく優れている
早事(はやこと):急いですること、慌ててすること
現代語訳
天正14年7月、政宗は中通りの兵を集め、塩松・二本松までを手中にし、8月始めに米沢にお帰りになられた。そのころに大崎義隆の家中が二つに分裂し、政宗へ申し入れてきた。
その詳細はどのようであったかというと、その頃義隆への出仕をやめていた新井田刑部という、義隆から並ぶものない寵愛を受けていた者がいた。しかし、どのような偽りの言葉をいったのだろうか、義隆は前のような寵愛を与えることがなくなり、その後伊場惣八郎(伊場野総八郎)という者を近く使うようになった。そのため、刑部はこれに驚き、恐れを抱き、刑部には親類が多くいたため、その者たちを集めて、謀略をしようとした。これを見て惣八郎は大事であると思い、岩手沢城主氏家弾正吉継という者を将来の頼みにしようとし、弾正へそのことを頼んだところ、同意して、誓詞をかわし約束した。
刑部の親類はこれを聞いて、弾正が取り持つほどならば、刑部の一党は憎々しいと思ったのだろう、その頃大崎と伊達の境の争いで、義隆と政宗は不和になっていたことを、刑部一党は喜んで、「伊達より加勢をいただき、弾正一党と惣八郎を共に討ち果たし、義隆も自害させ、大崎領をたやすくお手に入れることができましょう」と言った。政宗は「知らせ通りに兵を残すことにする」と仰った。しかし、刑部はその頃までに、義隆へついて玉造の名生の城に詰めていた。
なので弾正は、義隆に「刑部一党は政宗へ寝返り、既に大崎家滅亡の禍いである、なので刑部を誅伐するべきであります、そうでないなら牢舎へ入れるのはどうでしょうか」と言った。義隆の心中は「そうではあるけれど、幼少の頃から召使った者を、今死罪や投獄するのは可哀想である、ただかれの在所である新田に返すのがいい」と仰った。家臣たちががさまざまに諫めたけれど、義隆は考えを変えなかった。
義隆は刑部を呼んで「おまえとその一党は反逆を企てたことは口惜しいことであるが、幼少から仕えてくれた褒美として、死罪とすることを思いとどまった。今より在所の新田へゆけ」と仰った。刑部は「仰せは有り難いことであるが、暇を給わって本丸をしりぞいたならば、心配の種であるとして同僚たちにすぐに討たれるでしょう、恐れ多いこととは思いますが、今までの御恩への報いとして、中途まで連れていってくだされば、有り難く思うことでしょう」と言ったので、義隆は哀れに思い、大崎領の内、伏見というところまでお送りになった。
すると刑部配下の強い郎等たちが2,30人刑部ではなく義隆を前後左右に取り囲んだのを、義隆は「供の者は無用である」と言ったのだが、急がなくてはいけない様子であったので、ようやく伏見へ送り、「ここからゆけ」と言った。すると刑部は「ただ身ばかりで行くべき身でありますが、郎等たちも新田まで一緒におつれください」と言った。供の者たちはどうしましょうと言ったところ、義隆をうち果たそうとした。そのため思いもよらず新田へ送り、在城であった名生へ送ることなく新田に留め置くことになった。
これをうけ、刑部の親類である狼塚の城主里見紀伊守・谷地森の城主主膳、宮沢の城主葛岡太郎左衛門、古川の城主弾正、百々の城主左京亮、八木沢備前、米泉権右衛門、宮崎民部、中の目兵庫、飯川大隅、義隆の小舅である黒沢治部など、この通りの歴々の者たちは政宗へ申し入れ、政宗の加勢により、氏家弾正一党と惣八郎を供に討ち果たし、義隆も自害させようと企てたのだが、刑部が想定外に義隆を生け捕ったことで心をいれかえ、伊達への内応を中止し、義隆を盛り立てて、氏家弾正と惣八郎を退治しようと評定で決まった。
再度内応した者たちは、義隆に「刑部親類たちは申し合わせ義隆を盛り立て、累代の主と言い、だれがおろそかに思うことでしょうか。ただ頼れるのは弾正一人と思い詰め、既に殉死し次の世まで仕えるとお約束したことを、今になって退治するというのは面目がないと思うけれど、新田に押し止め、訴えることができたので、とても力及ばず、もっともであると思いを同じくした」と言った。
感想
天正14年7月、塩松・二本松を手にいれ、政宗が米沢に帰陣した8月以降の出来事、大崎合戦のスタートです。
大崎氏は本姓は源氏、奥州管領・探題をつとめた一族でしたが、戦国時代になって弱体化し、稙宗の援助を受けたことから伊達氏との力関係が逆転していました。
大崎家中の内紛をきっかけに政宗は大崎領への侵攻を開始します。
*1:仙台叢書版では伊場