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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』4-7: 田村家老衆訴訟之事

『政宗記』4-7:田村の家老衆の訴えについて

原文

同四月、石川弾正逆意に付て、相馬へ傾く者ども伊達を守人々も、政宗時刻を移さず打出給ふべしと、田村にて積りけるに、左もなかりければ、何れも不審を立るは理りなり。然りと雖ども、政宗にも亦十分なる子細にや、隣国の最上義顕政宗へ伯父にて御坐ども、身の中をも知給はず、欲の深き大将にて、在城の米沢を望み給ひ、右にも申す鮎貝藤太郎に、様々の知略をめぐらさし手切の砌なれば、跡を打明卒爾に出られけるは、成らざることなり。爾る処に、田村月斎・橋本刑部、白石若狭を頼み米沢へ申けるは、「石川弾正逆意に付て御馬を出され、御退治成んと人々存る処に、御馬も出さず、扨亦田村は過半相馬へ傾きけれども、御鋒先を恐れ未だ手切もなかりける、今度義胤を引立参らせんために、伊達へ弾正逆心なれば、御馬を出されずして叶はず」と申す。政宗「時刻を移さず打出べしと雖ども、只今最上との戦にて何の境にも、大身どもを差置けれども、最上境は小身なれば、米沢を打明出べきこと遠慮の旨なり、扨亦馬を出す程ならば、或は退治か或は一ケ所も取らずして、一両日の働にて空く引込けることは、流石に四方への聞へもいかがなり、されば退治をなさん左も有るときんば、日数を経べし、爾れば永々敷在城を打明んこと気づかいなり」と宣ふ。重ねて月斎・刑部「其御底意をば知候はで、一向馬窕がずと田村の者ども存じなば、各相馬へ傾ん、惣じて御家に限らず、他国の大将衆も御手際のよきこと計りは、争でか御坐候べき、たとへ久しき御在馬には非ずとも、一働遊しなば、何か願の候べき、只今迄田村の平穏なるも、御出馬を恐れてのことなり、爾るに左もなかりければ、其者の生害は疑ひなし」と申す。故に政宗「両人の申す所も十分なり、さらば一評議候らはん」とて、陣触せよと宣ひ、四月二十九日に米沢を打立、三十日に信夫の大森へ馬を出され、三日逗留有て五月四日に、四本の松の築館へ移し給へり。斯て弾正居城は月山といふ処なり、小手の森は四本の松を手に入給ふ其砌政宗より弾正処へ加増に賜はる、又百目木とて、弾正親摂津守居城は、相馬境なり。去程に築館近所より働き賜ふべし迚、先小手の森へ打出給へども、月山へも働き給ふと聞へ、義胤一日前に打て出、月山を抱ひ給ひ、小手森へは弾正を籠らせ給ふ。されば政宗小手の森地形を見給ふべしとて、北より南へ通り給へば、内より鉄砲を打掛けれども構はざる故、何事なく其日は先引上給ふ。扨、成実をば南筋を気遣ひ給ひ、其夜に二本松へ返し給へり。翌日は雨降けれども成実亦築館へ参りければ、働も相止まかりかへり、其より日々参りけれども、天気悪く働き給ふも叶はざれば、五月七日政宗も大森へ引込給ふ。爾るに月斎・刑部引込給ふを承驚き、白石若狭と成実を以て、「右にも一働とは申しけれども、御出馬遊ばす程ならば、流石に四五日も働き玉ふべしと存ぜじに、天気故とは存じながら、一日の御働にて引込給ふは、只最上境を深く御気遣と、田村の者ども含みなば、伊達を守る者ども心替候べし、此上は米沢にも田村にも事出来なば、何方へも御早蒐遊ばれんがため、大森に御在馬と諸人存ずる様には、如何候べき」と申す故、若狭・成実両人大森へ参り、原田休雪・守屋守柏(意成)・伊東肥前(重信)・片倉景綱四人に、右の趣語りければ、肥前「十分なる御訴訟なれども、各存知の如く米沢に大身衆、一人も差置給はで、最上境は小身なり、たとへば御早打と申とも、此方より彼境へは田舎道二百里に及ぶ処に、何事を申来るとも、跡辺ならん」と申す。若狭「旁は田村の事をば、只大杉に思はれけり、月斎・刑部已に御奉公を思ひつめ、田村を踏しつめたればこそ、只今迄も穏にしけれ、爾るに大森を引込給はば、右の両人頼みを失ひ心替るべし、事危き」と云。又肥前「たとへば心替り候とも、米沢に悪事出ては更に詮なし、去程に御在城の政を能納め、田村をも御抱ひ好るべし」と云、景綱「爰にて問答入ざる事なり、御前へ披露して兎も角も仰せ次第」とて、各相具し右の品々申しければ、政宗「引続きの雨天故手際なしにて引込けるは、本意なきことなり、両人望の如く、当地に人馬を休め、何方にも事出来なば、早打せん心安かれ」と宣ふ故に、若狭方より其旨申遣しければ、月斎・刑部悦こと斜めならず。爾して後大森に逗留御坐内、安積郡高倉辺をみんとて、五月十一日に出給ひ見廻り給ふ。成実は通り給ふを俄に聞て、居城二本松を打立、本宮にて追付奉り供を致す。前田沢堀の内と云処まで見給ひ、其日に大森へ帰り給ふ。されば田村に於て、下々何角と色々申すことども有ければ、月斎・刑部、景綱に内通して密々に伺ひ其上申し出けるは、「大森には政宗公、月山には義胤公在陣し給ふ。扨其内双方の衆を田村へ入立悪事もあれば、爾るべからず、たとへば御用ありといふとも、今より後は伊達衆も勿論、相馬衆をも入間敷と存ずるなり、但各は如何思はれける」と評定しければ、梅雪・右衛門を始め、何れも頭立ける者ども爾るべしと同じける。是に付て月斎・刑部、景綱へ其旨申合せ、其よりは不通にて候事。

語句・地名など

築館:福島県安達郡東和村木幡築館
百目木:福島県安達郡岩代町百目木
跡辺:後手・あとのまつりの意か
月山:東和村木幡鍛治山

現代語訳

同じく天正16年の4月、石川弾正の裏切りに際して、相馬へ味方していた者も、伊達へ忠節を守っていた者も、政宗がすぐに出陣するだろうと田村では思っていたところ、そうではなかったので、だれもが不審に思うのは道理であった。
しかし、政宗の方にもまた充分な理由があったのである。
隣国の最上義光は政宗の伯父ではあるのだけれど、身の中のことも知らず、欲の深い大将だったので、政宗の居城である米沢を望み、前述の鮎貝藤太郎宗信にさまざまな知略をめぐらせて、戦闘をしかけたところだったので、後を開けて軽々しくでることはできなかったのである。
そのところに、田村月斎顕頼・橋本刑部顕徳が白石若狭宗実を頼りに米沢へ「石川弾正の裏切りについて出馬され、退治して下さるだろうと人々は思っているのに、出馬もされず、一方でまた田村の半分を越える人数が相馬へ味方しようとしているけれども、政宗の攻撃を恐れ、まだ手切れにもなっていない。今度義胤を引き立てるがために、伊達へ弾正が裏切ったのに、出馬されないため、叶わなかった」と言ってきた。
政宗は「すぐに出発しようと思っても、いままさに最上との戦をしていて、いずれの領地の境目にも大身の家臣を老いているけれども、最上との境界は小身であるので、米沢を開けて出立することをやめたのである。また出馬をするならば、退治をするか、または城のひとつも取らずに、数日の戦闘だけですぐにしりぞくことは、さすがに周りへの聞こえは如何だろうか。なので、退治を成そうとするときは、日数をかけなくてはいけない。なので長々と在城を空けるのを心配している」と仰った。
月斎・刑部は「そのお心を知らず、いっこうに馬が見えないと田村の者たちは思っているので、それぞれ相馬へ味方しようとしている。すべて伊達の御家に限らず、他国の大将衆も政宗の手腕のよいことはどうしておられるのでしょうか。たとえ永く来られなかったとしても、一働きされたならば、何かの願いがあるでしょう。今まで田村が平穏であるのも、政宗の出馬を恐れてのことであります。なので、それがないのであれば、だれかがいつか殺されるでしょう」と言った。
そのため政宗は「二人の言うところも十分である。ならば一度相談しよう」と言って、出陣の命令をせよと仰り、4月29日に米沢を出発し、30日に信夫の大森城へ馬を出され、3日逗留なさり、5月4日に塩松の築館へお移りになった。
さて、弾正の居城は月山というところであった。小手森は塩松を手に入れたころ、政宗から弾正へ加増なさったところであった。また百目木という弾正の親の摂津守の居城は、相馬との境であった。
そのため、築館の近くから働くのがよいと、まず小手森へお出になられたが、月山へも働きなさったと知らせが伝わり、義胤は一日前に出発し、月山に籠もり、小手森へ弾正を籠城させた。
政宗が小手森の地形を御覧になろうとして、北から南へお通りになったところ、城の内から鉄砲を打ちかけられたが、構わなかったため、何事も無く、その日はとりあえず引き上げなさった。
一方、南方面を心配なさり、成実をその夜に二本松へお返しになった。
翌日は雨が降ったが、成実はまた築館へ参上したのだが、働きも止まったため帰った。それから毎日参上したのだが、天気が悪く、戦闘しようというのも叶わなかったので、5月7日に政宗も大森へ退かれた。
すると月斎・刑部は政宗が退いたというのを聞いて驚き、白石若狭宗実と成実を通して、「たしかに一働きとは言っていたけども、出馬なさるのであれば、さすがに4,5日も働きなさるであろうと思っていたところに、天気のためとは言いながら、1日の動きだけで退かれるとは、ただ最上との境を深く心配しているのだと、田村の者太刀はわかっているが、たとえ伊達へ従っている者たちも心がえしてしまうでしょう。このうえは、米沢にも田村にも、ことがおこったとしたら、どこへもはやがけしようと思って、大森におられるのだと皆が思うようになりますが、それはどうしますか」と言ったため、白石若狭宗実と成実は大森へ参上し、原田休雪斎・守屋守柏意成・伊東肥前重信・片倉景綱の四人に、前述の話を語った。
伊東肥前重信は「もっともな訴えだが、みなさま御存知の通り、米沢には大身の家臣がひとりも差し置かれず、最上境に置かれているのは、小身の家臣だけです。たとえ急いで出立なされたとしても、こちらからその境までは田舎道200里にもなるので、何を言ってきたとしても、あとのまつりになるだろう」と言った。
白石若狭宗実は「みなさまは田村のことを、ただの大杉だと思われている。月斎・刑部はすでに政宗への奉公を思い詰め、田村を支配しているので、いままでも平穏でしたが、もし大森をしりぞかれれば、その二人は頼みを失い、心変えするでしょう。大変危険です」と言った。
また伊東肥前は「たとえ心変えしたとしても、米沢に悪いことが起きてはさらに無益です。なので、城の政を良く治められ、田村をも抱えなさるのがよいのではないでしょうか」と言った。
景綱は「ここにての問答は不要なことです。政宗の前でそれぞれの意見をお伝えし、とにもかくにも仰るとおりにしましょう」と言って、それぞれ一緒になって政宗のところにいき、前述のことを詳しく話したところ、政宗は「永く続いた雨のため良い結果もなしに退くのは、思うところではない。二人が望むように、ここで人と馬をやすめ、どの場所でことが起きても、すぐに駆けつけよう。安心せよ」と仰ったため、白石宗実を通じてそのことを言い伝えたところ、月斎・刑部は大変喜んだ。
そしてあと、大森にいらっしゃる間に、安積郡の高倉あたりを見ようと、5月11日に出られ、見廻りなさった。
成実はお通りになるのを急に聞いて、居城二本松を出立して、本宮で追い付き、お供をした。
前田沢の堀の内というところまで御覧になり、その日に大森へお帰りになった。
すると、田村に於いて、身分低い人たちがいろいろと言うことなどがあったのを、月斎と刑部は景綱に内通して密かに聞き、それを申し上げたのは「大森には政宗公、月山には相馬義胤公が在陣なさっている。一方で、そのうちどちらかの衆を田村へ入れたら、悪いことがあると思うだろうが、そうではない。たとえ用があったとしても、これよりさきは伊達衆はもちろん、相馬の衆も入れるのはよくないと思ったのである。ただしそれぞれが何を思っているだろうか」と相談したところ、田村梅雪斎顕基・田村右衛門清康をはじめ、いずれも立派な者たちであるべきと意見を同じくした。
このため、月斎・刑部は景綱にその旨を言い合わせ、それからは通うのをやめたのである。

感想

伊達と相馬のどちらにつくかでゆれる田村家中についての記事です。
政宗も政宗で義光との戦で四方に警戒をめぐらしているため、自由には動けないでいるようすが書かれています。
冬は冬で大変ですが、雨も大変ですね。