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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』46:田村家の内情

『伊達日記』46:田村家の内情

原文

一天正十四年霜月清顕公御遠行以来。三春の城に御北様御座成られ候。万事の差引田村月斎。同梅雪。同右衛門大夫。橋本刑部少。此四人に候。其比は政宗公御夫婦間然無く候。内々御北様御うらみに思召され候。月斎。刑部少は縦御夫婦間然無く候共。政宗公を頼入らず候ては田村の抱成まじき由分別に候。梅雪。右衛門大夫は御北様。相馬を頼みいり。政宗公へ違候ともくるしからざる由分別申され候上は。伊達をたのみ入候様にて底意は相馬へ申寄られ候上は。をしなべて伊達御奉公の様にて月斎方梅雪方と申様にて候。然処ろに大越紀伊守と申もの田村一家にて義胤にはいとこに候。田村に番の大名に候。此者相馬へ申合内々からくり仕候。其外にも田村中に相馬の牢人城を持候ほどのもの四五人も御座候。一番の大名梅雪が子田村右馬頭と申候て小野の城主に候。是も相馬へ申合られ候。ある時月斎刑部少。若狭物がたり申され候は。大越紀伊守相馬へ申合逆心歴然に候間。大越を抱由申され候。其通米沢へ申上られ候処に政宗より我等所へ御状を下され御用候間使を一人為登申べき由仰くだせられ候間使上申候処に。大越紀伊守を相かかへ度由月斎。刑部少申上られ候。無用之由御意なされ候へども。若不図相抱候はば田村の急事に成るべく候。田村は二頭を引立御持成らるるべきと思召候に月斎つのり候事もいかが。紀伊守は其方を以御奉公だてを申上候間。油断申さず候様に知らせしめ申候間しかるべき由仰下され候。兼て我等家中内ヶ崎右馬頭と申紀伊守に念比に候。紀伊守より使に大越備前と申もの右馬頭所へいく度もまいり候條。大越備前を指越さるるべき由紀伊守所へ申遣候。即備前まいり候間田村の様子相たづね腹蔵無く物がたり申候て。政宗公仰越され候通申理べき由存候て。備前に会申たづね候へども。一円かくし候て申さず候條。大事の儀直にいかがと存候。右馬頭に其様子物がたりに致させ候。備前まかり帰候てより紀伊守三春へ出仕を止。城に引籠罷出ず候間。田村四人の老衆よりつかいを立。いか様の儀を以罷出ず候。存分候はば申べき由申理られ候処に。始は何角と申候が頻りに子細をたづねられ候間。成実より三春へ出仕申されず候はば相抱えらるるべく候間。出仕無用之由しらせ候間。罷出ぬ由申され候に付て。我等所へ四人衆より右の品々申越され候間。我等あいさつには。田村の御内何角六ケ敷候間。如何様にも相静られ候やうにと存候。争左様の儀申すべく候哉と返答申候。四人衆より紀伊守へ我等返答の通申越れ候処に。必内ガ崎右馬頭を以知らせしめ申さるる由申に付。かさねて我等所へ其通申越され候條。我等あいさつ申候は。右馬頭にたづね申候へば紀伊守久しく懇切に御座候。世上にて紀伊守逆心成られ候か。相抱られ候儀も成がたく候由我等異見に申候。成実より申され候とは申さず候。大越備前承違にて之有るべき由申候と返答申候へば。左候はば右馬頭と備前と対決致させ然るべき由承候條。備前相だされ候はば右馬頭も指越申すべき由申候條。三月初めに鬼生田と申所へ大越備前罷出候由申越候間。田村より検使御座候歟と相たづね候へば。検使は参らず候よし申に付て検使之無く候はば右馬頭出し申間敷由申候間。大越備前も罷帰候。そののち田村へ拙者つかいを越申。此間右馬頭出申すべく候へども検使を差そへられず候間。右馬のかみ出し申さず候。かさねて備前に検使を差そへられ相出され然るべき由申に付て。田村衆も満足申され。検使両人備前に差そへ鬼生田へまかり出候間。右馬の頭も相出し申候。備前は貴所を以成実御理には。三春へ出仕申間敷由しらせ候よし申され候。右馬頭は御存分ちがい候はば御出仕御無用の由申候に。御出仕なくば逆心御くはだてと相見え申候。ただ今にも御存分違ひ申さず候はば御出仕之有るべく候。三春にて御相違は之有る間敷由申候て埒も付かずまかり帰候。かやうに御洞六ヶ敷候故おのおの打寄伊達をたのみ入べく候哉。いかやうに申すべきと相談候処に。常盤伊賀と申もの御相談に及ばず候。清顕公御死去の砌御名代は政宗公へわたし申され候間御思案も之無く候。去りながら各御分別次第の由申候條。誰も別て申出べき様之無し。何も尤の由申され落去申候。されども上は伊達へ付内は相馬へ引候衆過半候。子細は田村に牢人衆の表立候衆多分相馬衆に候。梅雪。右衛門大夫内々は相馬をへ申合され候間相馬牢人衆と申組られ候。牢人傍輩の由申候て仙道。佐竹。会津の牢人も梅雪。右衛門大夫へ念比に候。其様子石川弾正本傍輩にて存前に候。当座清顕公御意を以政公へ御奉公申候へども。末々は身上大事に存其上御<此末くさりて文字見えず。写さず候。>

語句・地名など

現代語訳

一、天正14年11月、田村清顕がお亡くなりになって以来、三春の城は奥方がいらっしゃった。すべての采配は田村月斎・田村梅雪・田村右衛門大夫・橋本刑部少輔の四人がとり仕切っていた。
この頃政宗とめご姫夫婦のあいだは良く無かった。こっそりと田村の北の方はこれを恨みに思われていた。月斎・刑部少輔はたとえ夫婦仲が悪くとも、政宗をたよらずには田村の仕切りが成りたたないということをわかっていた。梅雪と右衛門大夫は北の方が相馬を頼み、政宗と敵対してもかまわないと思っていたので、表向きは伊達を頼っていたが、本心は相馬と内通していた。しかしだいたいの家臣は伊達に仕えるという者が多く、月斎方と梅雪方と言っていたという。
そこに大越紀伊守という田村一族の者で、相馬義胤の従兄弟にあたる者がいた。田村に詰めていた大名であった。この者は相馬と言い合わせ、秘密裏にいろいろと仕込みをしていた。その他にも田村の中に、相馬の牢人で、城を持つほどの者たちが、4,5人もいた。一番の大名である梅雪の子、田村右馬頭といって、小野の城主であった。これも相馬と語らって内通していた。
あるとき、月斎と刑部が、若狭に語ったところによると、大越紀伊守は相馬と話し合い、反逆するであろうことは歴然なので、大越紀伊を生け捕りにするようにと言った。
そのとおり米沢の政宗へ申し上げたところ、政宗から私のところに、書状が来て、用があるので、遣いをひとり米沢へ登らせるように仰られたので、遣いを送ったところ、大越紀伊を召し捕らえたいと月斎と刑部少輔は申し上げた。それはしなくていいとお思いになったのだが、もし急に捕らえたならば、田村にとって急ぎのよくない事態になるだろう。田村は二派に分かれて成り立たせるべきとお思いに成り、月斎がいいつのってもそうしないように言った。それというのも、紀伊は月斎を理由に奉公をしているのであって、油断せずに知らせて、しかるべきであると仰せになった。
以前から私の家来で内ヶ崎右馬頭という者が、紀伊守と懇意にしていた。紀伊よりの使いには、大越備前という者が右馬頭のところに何度も来ていた。大越備前をこちらへ使わすように紀伊へ申し伝えた。すぐに備前が来たので、田村の様子を聞き、腹の内までもすべてを話会い、政宗が仰った通りに言わねばならないと思い、備前に会って尋ねたのであろうが、すべて隠して、言わなかった。なので、大ごとの話は直にいうのはよくないかもしれないと思い、右馬頭にその様子を知らせさせた。備前は帰って以降、紀伊守は三春への出仕をやめ、城にひきこもって出なくなったので、田村の4人の家老衆は使いをたてて、何があって出てこないのか、思ったことがあるのならばそれを話すようにと言ったところ、はじめはなんのかのと言っていたが、何度も詳細を尋ねられたので、成実より三春へ出仕しなければ、捕らえられるので、出仕は無用であるということを知らせたので、出仕しない理由を言った。なので私の所へ4人衆から以上の詳細を言ってきたので、私は、「田村の家中は何かと難しいので、どのようにしても鎮まれるようにと思っている。どうしてそんなことを私が言うでしょうか」と返答した。4人衆から紀伊へ私の返答の通り言って聞かせたところ、必ず内ヶ崎右馬頭を通して知らせてくるだろうと思うので、ふたたび私のところへその通り言ってきたので、私が返したのは、「右馬頭に聞いたので、紀伊は長くとくに親しくしている。世間において、紀伊が裏切るだろうと言っているのだろうか。そのような状態ならば捕らえられるということもないだろうと私たちは言ったが、成実から言ったとは言わなかった。大越備前の勘違いだろう」と返答したところ、そうであるならば、右馬頭と備前とを対決させるべきであると言ってきた。
備前を出されたのならば、右馬頭も使わすと言ったので、3月初めに鬼生田とというところへ大越備前が来たと知らせがきたので、田村から検分の使い来たかと尋ねたところ、使いは来ないということだった。使いがないというのなら、右馬頭を出すことはできないと言ったところ、大越備前も帰った。
その後、田村へ私の使いを送り、このことで右馬頭を出すべきであるけれども、使いを付き添わせなかったので、右馬頭を出さなかった。再び備前に検分の使いを添えられ出すべきであると言うので、田村の衆も満足し、検分の使いを二人備前に着けて鬼生田へ出てきたので、右馬頭も送りだした。備前は身分の高い方を通して成実に言ってきたのは、「三春へ出仕しない理由を知らせたことを言った。右馬頭は考えが違うのであれば、出仕しなくてもよいと言ったところ、出仕しないのであれば、反逆を企てていると思われるであろう。今も思っていることが違うのであれば、出仕するべきである。三春において、諍いはないであろう」と言っても、らちもつかなかったので、帰った。
このように、御親戚のあいだのことは難しいため、それぞれが伊達を頼りにしているのだろうと思われた。どのように言うべきだろうと相談していたところ、常盤伊賀と言う者が「政宗に相談する必要はないでしょう。清顕公がお亡くなりになったとき、名代を政宗に任せるよう仰ったのであるのだから、考えることもないことです。しかしながらそれぞれ思うところによってこのようになっているのでしょう」と言ったので、他の者たちは特に言うことがなかった。みなもっともであると言い、去った。
しかし、表面上は伊達へ付き、中では相馬へ付いている者が半分を越えていた。詳しいことは田村に牢人衆の表だった者たちはおそらく相馬方であると思われた。
梅雪と右衛門大夫は本当のところは田村へ申し合わせていたので、田村の牢人衆と組まれていた。牢人は中迄あると言い、仙道・佐竹・会津の者も梅雪・右衛門大夫へ親しくしていた。
そのようすを石川弾正はもともと同僚であったので、前もって知っていたのだろう。とりあえず清顕の石により政宗へ奉公していたけれども、将来は身上を大事に思い、其の上……(この後くさって文字が見えないので写しませんでした*1

感想

その当時の田村家の内情が書かれています。
政宗とめご姫の夫婦仲がよくなかったこと、そのため北の方が相馬を頼ろうとしていたこと、そしてそれに合わせて家中が二つに割れていたことが書かれています。
「かやうに御洞六ヶ敷」このように親戚衆のことは難しい、と書いているように、成実の目にも南奥羽の親戚衆との渡り合いが難しいことであったことがわかります。興味深いです。

*1:と写本者がかいています