『政宗記』5-8:岩城へ景綱が使者となったことと成実の意見
原文
去ば今度対陣の無事を、常隆扱ひ給ひ相済ければ、自今以後仰合らるるのためにとて、景綱を岩城へ遣し玉ふ。大森迄罷帰と承、岩城の体を尋ね聞んがため、成実二本松より大森へ参る。故に景綱語りけるは、「小野と大越、伊達を背て今岩城を頼みければ、上下ともに田村へ心を掛ける程に、来年は必岩城は敵にならん」と申す。成実申しけるは、「手延にし給ひ其方より手を越ならば、春中田村の内相馬へ傾、今度梅雪・右衛門引除けるにも如何有けるやらん、未除兼田村に残りける歴々の者共、末の身上大事に思ふ折を見合、岩城へ又忠節ならば、田村の抱は成りがたく、然は去年大内備前降参の折節、弟助右衛門申合、忠節違変なれども、伊達を背き今は早後悔ならん、只助右衛門と大越を御赦免有て、彼両人を引付給ひ、此方より再乱ならば、縦ひ岩城は敵と成ても、軍は成好らん」と申しけるは、小十郎兎角の挨拶なく、成実も二本松へ罷帰る。爾る処に、其年の極月始めに、米沢より景綱書状を以て、「先月大森へ尋の刻、物語の事御耳へ相立ければ、思案の処尤もなり、助右衛門と大越を御赦免有て再乱有るべし、其ため先助右衛門忠節をば其身申し合わすべき」由仰の旨を遣す。成実申けるは、「跡とは違ひ、今は早、兄の備前此方に居ければ、彼方より拵なば、尚も首尾能候べし、左も有ならば成実も添状致さん、其旨心得べし」と申す。是に付て同極月二十日、片平へ遣しける備前使の者、二本松へ寄ける程に、状を遣して、「手切の事は政宗馬の出次第に」、と申ければ、助右衛門如何にも納得候なり。然りと雖も其砌は雪深ければ馬も出かね、申合の手切にいまだ相延ける事。
寛永十三年丙子六月吉日 伊達安房成実
語句・地名など
跡:以前・従来
現代語訳
このたびの対陣の和睦を岩城常隆が執り行い、無事ことがすんだので、政宗はこれから以後連絡し合おうということで、景綱を岩城へお遣わしになった。景綱が大森まで帰ってきたというのを聞き、岩城の様子を尋ねて聞こうと思い、成実は二本松から大森へ行った。
そのため景綱は「小野と大越が伊達に反逆し、いま岩城を頼っているので、みな田村へ心を掛けているので、来年は岩城は必ず敵になるだろう」と言った。
成実は「延期になさり、そちらから手を越えられたならば、春の間に田村の中で相馬に味方している者たちは、このたび梅雪斎・右衛門が引きこもったことをどう思っているだろうか。まだ退きかねて田村に残っている歴代の者たちも、未来の身の上を大事に思う時期を見合わせ、岩城へまた寝返るならば、田村の支配は成立しがたく、それは去年の大内定綱降参の時、弟の助右衛門もそう約束していたが、内応の約束はかわったけれど、伊達に背き、今ははや後悔しているであろう。ただ助右衛門と大越紀伊をお許しなさって、この二人を味方に引き入れ、こちらから再び戦をしかけるならば、たとえ岩城は敵となったとしても、戦はよくなるだろう」と言った。小十郎景綱はあれこれの返答をしなかったので、成実も二本松へ帰った。
そのところに、その年の12月初めに、米沢から景綱は書状で、「先月大森へお尋ねになったとき、仰っていたことを政宗の耳に入れたところ、その考えていることは尤もである。片平助右衛門親綱と大越紀伊をお許しになって、再び戦をするべきである」という内容の政宗の言葉を遣わしてきた。
成実は「前とは違い、今はもはや兄の大内定綱はこちらにいるのだから、こちらから策略をすれば、一段と首尾能くなるであろう。そうならば、成実も添え状を書きましょう。そのこと覚えておいて下さい」と言った。
これにより同12月20日、片平親綱へ遣わした大内定綱の使いの者が二本松にたちよったところ、書状を遣わして「会津との関係を切るのは、政宗が出馬するかどうかによる」と言ったので、片平親綱はいかにも納得したようでございます。そうはいっても、そのときは雪が多く、馬を出すことも出来ず、約束の手切れはいまだ延期にされていた。
寛永13年6月吉日 伊達安房成実
感想
岩城との関係について片倉景綱と成実が交わした意見交換についての記事です。この二人はなんかあると一緒に偵察行ってたり、お互い気軽に行き会っていたりで、思っているよりも気安い仲だったのかなあと思ったりします。
政宗が四方八方のバランスを考えながら戦の展開を考えていたことがよくわかる記事です。