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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』64:鹿俣落城

『伊達日記』64:鹿俣落城

原文

一片平助右衛門事切に付。常隆公三月廿四日小野の地へ御出馬成られ候。小野御越の間に鹿俣と申候城は田村奉公の地に候。常隆公近陣成られ候。小野大越近候間田村より手越に候間。助も成らぬ地形候。六七日相抱候へども罷成らぬ御侘言申され。城を明田村へ引除申され候。常隆公は小野に御出馬成られ候。其様子政宗公聞召され田村へ郡治部大夫。飯坂右近大夫。瀬上中務指越され候。左候へども御足の痛堅く無く候故御出馬之無く候。

語句・地名など

鹿俣:かんまた

現代語訳

一、片平助右衛門親綱が伊達に内応したため、岩城常隆公は3月24日小野の地へ出馬なさった。小野と大越の間に、鹿俣という城があり、田村に仕えていた地であった。常隆は近陣し、小野と大越は近かったので、田村からは遠く、援軍も出せない地形であった。6,7日は籠城していたが、不可能であると申し出、城を明け渡し、城に居た者たちは田村へ退いた。
常隆公は小野に出陣なされた。政宗はそのことをお聞きになり、桑折治部少輔・飯坂右近宗康・瀬上中務景康をお使わしになった。しかしながら、足の痛みがまだよくならなかったため、自らの出陣はなかった。

感想

岩城常隆がすばやく鹿俣城を落としたことが書かれています。