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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』121:慶長伏見地震

『伊達日記』121:慶長伏見地震

原文

慶長元年太閤様伏見の向島と申処に御城御構候。御普請過半出来候処に。閏七月十二日夜半時分大地震にて御城の天守御殿共に破損し。御城の内にて男女五十人余打殺され候。向島は宇治川立廻地形下所にて候故。猶以普請衆数多越度申候。秀吉公此城御立候共然有間敷思召され。同廿二日に小幡山を御覧成られ。御城に成さるるべき由仰出され候。大名衆御馬廻り小身衆迄組々を成られ。極月晦日を切に御移徙成らるるべき由にて。夜を日について御普請いそぎ申され候。地震程をそろしき事は之無き由御意にて。御殿の柱二本は石次へ。三本目は地へ五尺許ほり入。上道具も方々をかすがへにてしめ。兼ての御作事とかはり地震の御用心第一に候。

語句・地名など

現代語訳

慶長元年太閤秀吉は伏見の向島という所に城を建てようと、工事をおこなっていた。その工事が半分以上過ぎたところに、閏7月12日、夜中ごろに大地震が起こり、城の天守・御殿ともに破損し、城の中にいた男女50人余が下敷きになって死んだ。
向島は宇治川が取り囲み、地形が低いところであったので、普請をしていた者太刀もたくさん命を落とした。秀吉公はもう城を建て直すのは無理だとお思いになり、同22日に小幡山を御覧になられ、新しい城になさることをお決めになった。
大名衆の・馬廻り衆・小身衆をみな組に分け、12月晦日を区切りに移ることができるよう、昼夜分かたず工事を急いだ。地震程おそろしいことはないと思われ、御殿の柱2本は礎石をつけ、3本目は地面へ5尺ほど堀り、入れた。部屋の中の道具なども、あちこちにかすがいをつけて留め、これまでの工事とは変わり、地震の用心を第一に考えた作りとなった。

感想

慶長地震とありますが、まだ文禄年間(文禄5年)の7月の出来事です。この数日間の間に大地震が各地で頻発したため、改元も行われました。
この項では、地震の様子とその余波として工事の工法が変わったことがかかれています。