『伊達日記』123:秀吉の死
原文
一秀吉公御違例に候処。次第に重候故諸大名衆をめされ。御病気つよく候間。御他界も候はば秀頼公にたいし逆意存まじき由誓紙仕るべき由仰出され候に付。熊野牛王に血判いづれも成られ候を。大峯にをさめ申すべき由御意にて。正護院殿山伏多召連られ御登山に候。天下の仕置家康公。浮田中納言。安芸毛利殿。加賀筑前殿。長尾景勝へ仰置かれ候。然る処に秀吉御存命の時分。景勝は国替仰付られ。程なく秀吉公御煩に付上洛仕候間。御暇下され候へとも御違例の内は在京にて。御他界以後会津へ下向に候。秀吉公新八幡と祝申すべき由御遺言に候へども。勅許なきによつて豊国の明神と祝申候。東山に宮相立られ候。
語句・地名など
現代語訳
秀吉が病になられ、次第に重篤になっていったので、諸大名をお呼びになり、「病気が重くなってきたので、もし私がシンだなら、秀頼に対し反逆しないように」と誓紙を書くようにとご命令になり、熊野牛王の血判をみな押したものを、大峯に納めるようにご命令になったので、聖護院の山伏を多く連れて山に登らせた。
天下の采配は家康・宇喜多中納言秀家・安芸の毛利輝元・加賀筑前前田利家・上杉景勝へお目維持になった。
秀吉が存命の頃、景勝は国替えを命令され、ほどなく秀吉がご病気になられたので、上洛したので、在地に戻りたくとも病気の間は在京するしかなく、秀吉薨去ののち、会津へ下向した。
秀吉は新八幡として祭るよう御遺言であったが、天皇のお許しがでなかったので、豊国大明神と祭ることになった。東山に神社が建てられた。
感想
秀吉がとうとう病に倒れ、そのまま亡くなりました。秀頼のことを諸大名に頼み、豊国大明神として祭られることになりました。