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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』7-1:須賀川陣事

『政宗記』7-1:須賀川の戦のこと

原文

去程に天正十七年己丑六月、会津をば思ひの儘に治め、在城となる。然りと云ども、須賀川は未だ敵対給ふ。其子細をいかにと申すに、城主盛行死去たりと云ども、盛行の後室政宗へ恨を含み、彼城を踏へ佐竹・岩城を頼み給へば、佐竹よりの警固に、百茂鴉の折とて、一騎当千の二頭へ、佐竹の内南郷衆の一党を差添給ふ。岩城よりの加勢には、植田但馬・高貫中務物頭也。かかりけるに、須賀川一家の西方衆は、政宗へ背く事叶ふまじとや思ひけん、保土原江南・浜尾善斎・矢部下総を始め六七人は、伊達へ手寄て忠をなさんと云。又矢田野伊豆・横田治部・須田美濃其外七八人は、引分て須賀川方也。かくて政宗同十月二十二日、片平迄馬を出し、田村孫七郎同陣にて、同二十五日に須賀川一味の矢田野へ働き、近所の横田まで押返し働き給ふと云ども、其日は何事なく引上給ひ、松山と云横田の城を見降しける山に於て、何れも召寄相談し給ふ。評定の者共は、田村月斎・橋本刑部、須賀川よりの保土原江南・浜尾善斎、扨其外は伊達譜代の者ども也。然るに、政宗「明日の働きは何方ならん、但し、横田・矢田野両城の内、何れ成共近陣には如何有ん」との給ふ。江南「両城に手間を取られ、更に詮なし、たとへば働き給ふとも、扨近陣になりとも、両様ともに先須賀川へ然るべし、彼地落城ならば、脇々の小地共には、争か手間を取給ふべき」。政宗「敵の勢は何程あらん」と宣ふ、江南「佐竹より二頭、岩城より二頭、扨其外は不肖衆迄にて、城の旗本を取合せ百騎にはよも過候まじ、左も有ときんば、惣人数の大小を並して、一騎に三十人連にしては、雑兵共に二万千の積り」と申す。政宗「扨須賀川へは、何方より働くべきや」と尋ね給ふ。伊達の面々、「釈迦堂口か、扨は南の原より然べし」と申す。田村月斎「須賀川は古所なりければ、内を深く御方の各気遣給はん、然りと云ども、彼地は第一平地也、惣じて下より高所を見ときは内を深くみるものにて候、又高き方より下をみれば、必ずみ消すもの也、釈迦堂口は、向ひは高く此方はひくし、南は到て場好なれども、御方の惣勢内をみ下し、心安く取付ける事、先是一つの競、扨御勝利門出也、去程に一手をば西の原寄り、今一手は雨乞口と、両方より働き給ひて然るべし」と申されければ、政宗を始め、是を承る程の諸人、「月斎申さる分あはれ剛の者哉」と感じける。其翌日彼地を攻給ふに、月斎積りの如く御方押詰、内を見降し心安ふ競ひかかつて、取付けるなり。されば其日は明日の評議相済、二十五日の夜は高館と云処に在陣有て、明る二十六日には須賀川へ取掛給ふ事。

語句・地名など

百茂鴉の折りとて:調べましたが意味がよく分かりません。何か出典に近い言葉を御存知の方おられましたらどうかお教え下さい。仙台叢書版『政宗記』を見ますと「百茂鴇の打とて」となっており、もしかしたら双方が写本or翻刻ミスの可能性も…?(原写本のくずし字を見ないとわからないかもしれません)そして私はくずし字読めません…。
南郷衆:東白川南部の衆
古所:古いところ。古くからの土地
不肖衆(ふしょうしゅう):取るに足りない衆
二階堂盛行→盛義

現代語訳

天正17年6月、会津をとうとう思い通りに治め、在城とする。しかし、須賀川はまだ敵対していた。その詳細はどうしてかというと、城主の二階堂盛義は死去していたが、盛義の未亡人である伊達晴宗の息女が政宗へ恨みを持ち、この城へ籠もり、佐竹・岩城をお頼りになったので、佐竹からの援軍に、百茂鴉の折とて*1、一騎当千の二頭に、佐竹の南郷衆の一党をおつけになった。岩城よりの加勢は、植田但馬・高貫中務が長となり、つけられた。
そして須賀川の西方衆は政宗に背くことは無理であろうと思ったのだろうか、保土原江南行藤・浜田漸斎・箭部下総をはじめとする6,7人は、伊達を頼って忠孝をつくすべきと言った。また矢田野伊豆・横田治部・須田美濃その他7,8人は引き分けて須賀川方に付いた。
なので政宗は天正17年10月22日、田村孫七郎宗顕を連れ、片平まで出馬し、同25日に須賀川に味方する矢田野へ兵を出し、近くの横田まで押し返し軍を出したが、その日は何事もなくお引き上げになり、松山という、横田の城を見下ろすことができる山において、皆を集め相談をなさった。評定に集まったのは、田村月斎顕頼・橋本刑部顕徳、須賀川からきた保土原江南行藤・浜尾漸斎で、その他は伊達譜代の者たちであった。
さて政宗は「明日の戦闘はどちらからすればよいであろうか、ただし、横田・矢田野のふたつの城のうち、どちらにしても近くなるがどうするべきであろうか」と仰った。江南は「両方の城に手間を取られるのはさらに無益であります。もし戦闘になるとして、近陣となったとしても、まず須賀川を攻めるべきと思います。須賀川城が落城したならば、脇の小さな支城に手間が掛かることはないでしょう」と言った。政宗は「敵の人数はどれほどあるであろうか」と仰った。江南は「佐竹より二備、岩城より二備、さてそのほかはたいしたことのない衆でありますので、城の旗本をあつめても100騎にはとても届かない程度であります。なので、全ての者を並べて、一騎につき30人ほどとして、雑兵を合わせて2万千ほどでございます」と言った。政宗は「さて、須賀川城へはどの方向から攻め入るべきか」とお尋ねになった。伊達の面々は「釈迦堂口か、または南の原から攻めるべきです」と言った。田村月斎は「須賀川は古くからある城ですので、内側が深く、味方の皆様がたのご心配なさるのは当然なのですが、この地はまず平地なので、総じて下より高いところを見るときは内側が深く見えるものでございます。また高いところから下を見れば、必ず見えにくいものでございます。釈迦堂口は向こうは高く、こちらは低いため、南は非常に良い場所ですが、味方の総勢中を見下し、安心して取りかかれることと思います。またひとつの手は雨乞口と、両方から攻め入るのがよいと思います」と言ったところ、政宗をはじめ、これを聞いた皆が「月斎の言うところは非常に的確で、さすが剛の者であるなあ」と感じいった。
さてその翌日須賀川城をお攻めになる際に、月斎の計画の通り味方は押し詰め、中側を見下ろし、安心して競い掛かって、備えた。なのでその日は明日の評定を済ませ、25日の夜は高館というところに在陣して、明くる26日に須賀川城攻略に取りかかりなさった。

感想

二階堂氏の治める須賀川城を攻める前段階のことを書いてあります。
本文中、二階堂盛行とありますが盛義です。
盛義は既に死亡していましたが、晴宗娘、政宗には伯母にあたる継室阿南姫(大乗院)が政宗に対して激しく抵抗し、敵対することになりました。伊達側は(どこまで本当かはさておき)一応何度も和議を申し入れ、平和的にしようとしたようですが。
この盛義と大乗院との娘が一度常隆に嫁ぎ(岩城氏の記録では正室ではなく妾とのこと)、その後成実の継室となる岩城御前です。

*1:不明