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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』7-2:須賀川合戦附落城

『政宗記』7-2:須賀川の合戦とその落城

原文

明ければ二十六日の寅の刻より、須賀川へ押寄給ふ。兼て伊達の備定めを今度は引替、須賀川よりの降参衆先陣にて夫へ、会津新参へ譜代衆を取加え、各西の原に陣を取る。政宗は家老の者共、其外四五十騎召連、八幡崎と云処、扨雨乞口の道方々を乗廻し見給ひければ、城の内より両口へ、足軽三百余人川の際迄出して、鉄砲を打かけ、鎧武者十四騎にて下知をなす。是をみ給ひ、攻給ふべしと宣ふ。御方の者共先軍配を御覧有て、近陣に好るべきかと申す。今日より西の原迄移し給ひて然るべしと申す者も有けれども、政宗「内は多勢と相みへ、人数出走りける程に、時刻移して叶ふまじ、一合戦始め、若や御方川を越内へ押込程ならば、一構ひも取候らはじ、人数を遺すべし」と宣ふ。此義然るべしとて、八幡崎の先陣は、新国上総・保土ケ原江南・浜尾善斎・矢部下野、二陣白石若狭、三番柴田但馬。雨乞口の先陣は大内備前・片平助右衛門兄弟、二陣伊達成実、三番片倉景綱にて、各川の際迄■*1を並べければ、政宗先を駈よと宣ふ。何れに押寄先に進む。故に内より人数を出、両口にて合戦始る。かかりける処に、備前・助右衛門兄弟人数足跡を違ひ崩れけるに、成実手勢を入替、其より追つ返しつ、互ひに勝負を決する処へ、成実来かかり下知をなせば、小口へ押込、長禄寺と云禅寺へ火をかけければ、雨乞口の敵兵引込けるを、御方の軍兵付入にして、内町まで乱入ども、八幡崎の合戦に未巳の時にて其方の御方は方々押きられけれども一芝も破れを取ず、折節風強ければ、長禄寺の風吹越、本丸へ移り落城なれども、八幡崎に敵どもは跡の破れに構はず、合戦をし果し、其場を除ずに討死なれば、名誉有間敷働哉と時の人々感じけり。十月二十六日の辰の刻より合戦始まり、酉の刻に引上給ふ。其より直に須田美濃抱和田と云処へ取かかるべしと思はれけれども、人馬も草臥、明る二十七日と宣へければ、其夜に和田も引除けり。是に依て政宗北の山に野陣を張、逗留し給ふ。然る処に、其内白川義近降参にて見廻り給へり。去程に、矢田野伊豆・横田民部須賀川落城の上訴訟に付て、本領三ヶ一になり召出し、小荒田隠岐も成実を頼み訴訟に及び、本領小荒田の内、只一郷給はり、相済けり。万事終て後、須賀川をば大和守昭光へ遺し給ふ。是に付て須賀川よりの忠節衆も、昭光与力に付置給ひ、政宗も三十余日の逗留なり。然るに、白川より関東の那須境に、関名子と云処へ新地を取立、政宗への忠節に、義近伊達より番手持を望み給ふ。故に成実人数を須賀川より、直に白川へ遺し給へり。是に仍て会津へ帰陣の砌は、成実無勢故在所二本松へ返し給ふ。扨次の番替には白石若狭を遺し給ひ、関名子にて越年致し候事。

語句・地名など

寅の刻:午前四時
巳の刻:午前十時
辰の刻:午前八時
酉の刻:午後六時
和田:須賀川市和田
小荒田(小原田):郡山市小原田
関名子:『治家記録』によると関和久

現代語訳

日が明け26日の午前4時から、須賀川城へ攻め寄せなさった。くわえて、普段から決まっている伊達の陣立てを今回は変えて、須賀川から降参した家臣たちを先陣に、その後へ会津を落としたときに恭順した新参衆に譜代衆を加え、それぞれ西の原に陣をしいた。政宗は家老衆をはじめとする4,50騎を召し連れ、八幡崎というところや、雨乞口の道など、各所を乗り回して御覧になったところ、城の中から足軽300人余り川の際まで出てきて、鉄砲を打ちかけ、鎧武者14騎にて命令をだした。政宗はこれを御覧になり、攻めろと仰った。味方の者たちはまずその支持を御覧になり、接近戦にするべきかと聞いた。今日から西の原までお移りになられた方がいいと言う者もあったが、政宗は「城の中は多くの兵がいると思われる。軍勢が出ているのを見ると長くは持つまい。一合戦はじめ、もし味方が川を越え中へ攻め入ったとしても、ひと構えもとることは出来ないだろう。軍勢を温存せよ」と仰った。このご命令はその通りであると、八幡崎の先陣は新国上総貞通・保土原江南行藤・浜尾漸斎・矢部下野、二陣は白石若狭宗実、三番柴田但馬宗義となった。雨乞口の先陣は大内備前定綱・片平助右衛門親綱兄弟、二陣は伊達成実、三番片倉景綱にて、それぞれ川の際にくつはみをならべたところ(=軍勢を並べたところ)、政宗は先を駈けよと仰った。皆一斉に押し寄せ、先に進んだ。このため内側から軍勢が出てきて、両出口にて合戦が始まった。
そうこうしているうちに、大内備前・片平助右衛門の手勢が足下を掬われ崩れたので、成実の手勢と交代し、それから攻め寄せ、返されを繰り返しつつ、互いに勝負を決しようとするところへ、成実がきて命令を下したところ、小さな入り口へ入り込み、二の丸にあった長禄寺という禅寺へ火をかけると、雨乞口の敵兵が引き下がり、味方の軍兵付けいり、内側の町まで乱入した。八幡崎の合戦はまだ午前十時で、そちらの味方勢はほうぼうへ押し切られていたが、ひと部隊も破られず、ちょうど風が強かったので、長禄寺の風が吹き込み、本丸へ移り落城したが、八幡崎の敵兵は城が敗れたことには構わず、最後まで合戦を戦い、その場を退かずに討ち死にしたので、なんと比類無き名誉の戦いぶりかと時の人々は感動した。
10月26日の午前八時から合戦が始まり、午後六時に引き上げなさった。それより直接須田美濃が抱える和田城というところへ攻めかかろうと思われたのだが、人も馬も疲れているので、明くる27日にすると仰ったら、その夜のうちに和田にいた勢も退いた。
このため、政宗は北の山に野陣を張り、逗留なさった。そこへその内白川義親が降参してきたので、見廻りなさった。石川大和守昭光が野陣をしいていた場所へいらっしゃって、お会いになり、これで会津・仙道全てが政宗の手に入れるところとなった。
矢田野伊豆・横田民部は須賀川落城の時、訴えてきたので、本領の三分の一になったが召し使える事にし、小原田隠岐も成実を頼んで訴えに及び、本領である小原田の内、ただ一郷のみ給わって、決着した。全てが終わったあと、須賀川城に大和守昭光をお残しになった。このため須賀川から寝返ったものたちも昭光の与力としておつけになり、政宗も30日余りの逗留なさった。そして白川から関東へ向かう那須境の関名子というところへ新しい城を作ったところ、政宗への忠節に、白川義親は伊達より城代を勤めることを望んだ。このため成実の手勢を須賀川から直接に白川へ残しなさった。このため会津へお帰りの時には、成実は軍勢を持たなかったので、在所の二本松へお返しなされた。さて次の城代には白石若狭宗実をお残しになり、関名子にて越年なされた。

感想

須賀川城攻略の顛末です。ここでは戦のことをさらっと書いているだけですが、『木村右衛門覚書』では、政宗が大乗院について言った一言などが書かれており、「えっ政宗がこんなこと言ったの…!」と思うようなことが記されています。

原文:
…ひしひしと城をば乗っ取り、川端に床几に腰をかけしばし見る所へ、伯母を城の内より追い参らせでたり。成実始め何と御計らいあるべきと、訴訟顔に申され候間、女儀といひながら、あの御心ばへ、誰あって一夜の宿貸す人の候べき。早く川端にて御暇参らせよといひて、その後は知らず。…
(『木村宇右衛門覚書』注を参考に漢字を補いました)

意訳:

川のほとりで床几に腰を置いて見ているところ(陣屋)へ、伯母を城内から連れ出してきた。
すると成実はじめ家臣たちがかけより「どうなされますか」と訴えるような様子でいった。政宗は「女であるというのに、あの心ばえ、一夜の宿を貸すような誰かがいるであろうか。早く川端でお放しせよ」といい、その後の行方はしれない。

この後大乗院は岩城に行き、岩城の降伏に伴って佐竹に行き、そこで佐竹が秋田に転封するまで過ごし、秋田へ移動中に須賀川へよりそこで病死したと言われています。岩城に行く前に、しばらく杉目城の栽松院の元に預けられていた時期も有ったようです。
『藤葉栄衰記』も確かめてみましたが、岩城佐竹に行く前に、杉目に送られたのはなんとなく確定のようです。
『奥羽永慶軍記』では、政宗が大乗院に対して新しい屋形つくってあげたり丁重な扱いをしようとしたけれども、未亡人はそれを断固拒否して岩城→佐竹→須賀川で死亡…となっていました。
『木村宇右衛門覚書』は政宗が語ったことを小姓が記している書なので、政宗自身が自分がこういう台詞を言ったということを悪気もなく言っていたということなので、流れとしては木村本が正しいのかと思います。

*1:馬偏に鹿/くつはみ