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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』3-6:氏家弾正忠節の事

『政宗記』3-6:氏家弾正の内応のこと

原文

去程に義隆へ刑部一党訴訟の旨を弾正聞て、「安からざること也、返忠の徒党共逆意のときは、某一人思詰名生に於いて籠城ならば、岩出山より取移し、滅亡の御供こそ思ひしに、今又我を退治とは移れば替る世の習ひ、か様のことを申すらん、さらば我も手を越て伊達へ申しより、命をまぬがれん」とて、片倉河内・真山刑部といふ郎等二人を米沢差上、片倉景綱を以て、「新田刑部を始め親類の者ども、一度義隆を背き伊達へ忠申すといふとも、思の外に義隆を刑部生捕、今は早其忠を致し違変して、已に某を滅亡させんといふ謀あり、仰ぎ願くば御助勢下されなば、大崎中をばたやすく治め差上奉らん、如何あらん」と申す。政宗「年来義隆への憤り、剰へ刑部一党中の違変、彼是なれば、軍兵ども遣はし加勢をなさん」と宣ふ故に、両使急ぎ帰りて仰せの旨を申し渡せば、弾正悦ぶこと斜めならず。されば義隆を新田へ生捕、其後名生はあき処なれども、義隆の北方と子息正三郎殿、御袋に東の方と両人をば弾正名生の城に人質に押へ置、其守りには弾正親参河と、伊場惣八郎を附置けり。角て弾正、正三郎殿を伊達へ差上べしとは思ひけれども、不慮なることにて譜代の主君を、背くだにあるに況や引連差上なば、天命をも背き仏心三宝にも放され奉るべきことを感じ申し、新田の城代南条下総所へ送りけり。二人の北の方は、義隆父子へも離れければ、二六時中の歎き已に自害をと思はれけれども、流石に叶はざれば明暮涙のみにて候こと。かかる処に、同十五年*1丁亥正月十六日に、大崎へ伊達勢を向給ふと雖ども、安積表を気遣ひ給ひ、信夫より南の侍大将をば、遣はし給はで、中奥の人数ばかりを指向給ふ。是に付て政宗伯父*2に伊達上野守政景、一家の泉田安芸重光、両大将にて、其外粟野助太郎・永井月鑑・高城周防・大松沢左衛門・宮内因幡・館助三郎、家老浜田伊豆、軍奉行は小山田筑前、横目には小成田惣右衛門、山岸修理にて、惣軍を相具し、松山の遠藤出羽処へ遣はし玉ふ。去程に大崎より伊達へ忠を入ける面々、氏家弾正・一栗兵部・湯山修理・一の迫伊豆・宮野豊後、三の迫の富沢日向何れも岩出山近所と云幸ひなれども、月舟伊達へ逆心なれば、四竈と松山の間は月舟居城の黒川にて、尾張何と存ずるとも是も叶はず、さては何方より働き、偖如何せんといふ、各申ければ、桑折・師山二ケ城に籠もりたりける敵軍、伊達の軍兵押て通る程ならば、敵二ケ城より取出合戦も取組ども、三本木の川後口に当て、中々働き難しと申す。其にて遠藤出羽「新沼の城主甲斐は、某妹聟にて代々伊達へ忠の者なり、さらば師山には押へを指置、中新田へ押て通り玉ふとも、別義有るまじき」と申す。上野、「左は候へ共、中新田へは二十里余り、況や敵の城を後に当て、両地へ道を付置けるに、彼地を押て通ること気遣なり」と云ふ、其にて重光思ひけるは、今度の軍は其発起なれば、上野殿日来は我等に不和と云ひ、其に又月舟は御身の舅にて、彼是此軍は情に入まじきと疑心をなして、「安芸・出羽申処理也、伊達の勢を氏家見かけざる時は、頼みを失ひ、義隆へ返忠危きことなり、師山には押へ差置通り給はば好るべし」と申す。故に是非なく中新田への働に相済ける事。

語句・地名など

四竈(しかま):宮城県加美郡色麻村四竈
三本木(さんぼんぎ):宮城県志田郡三本木町

現代語訳

前述したように、義隆へ刑部一党が訴えたということを弾正は耳にして「心配である。再び寝返りの者たちが逆心を抱いていたときは、私一人だけが思い詰め、名生で籠城していたら、岩出山より場を移し、滅亡のお供をしようと思っていたのに、いままた私を討とうとは、移ろいやすい世の習いはこのようなことをいうのだろう。ならば私も手を使って伊達へ近づき、死を逃れよう」と、片倉河内・真山刑部という郎等二人を米沢に使わし、片倉景綱を介して「新田刑部をはじめ親類の者たちは一度義隆に背き伊達へ内応するといいながら、想定外に刑部が義隆を生け捕ったため、今はまたそちらに内応し、心を変え、私を滅ぼそうというはかりごとをしております。願わくば、助勢をくだされば、大崎領をたやすく手にいれ、差し上げいたしましょう、どうでしょうか」と言った。
政宗は「近頃の義隆への憤りに加え、刑部一味全体の心変わりといろいろあったので、我等の軍兵を遣わし、加勢をしよう」と仰ったため、両使いは急いで仰った内容を伝えた。すると氏家弾正は非常に喜んだ。
義隆を新田へ生け捕ったあと、名生は空き城となっていたのだが、義隆の正室とその子正三郎は、義隆の母親と東の方の両人を弾正は名生の城に人質として置き、その守りに弾正の親である参河と、伊場惣八郎をつけ置いた。そして弾正は義隆の子正三郎を伊達へ献上しようと思っていたのだが、思わぬことで、代々仕えた主君を、背くのみならず、召し連れ差し上げたならば、天命に背き、仏心三宝にも見放されるであろうと強く思い、新田の城代南条下総のもとへ送った。
二人の北の方(正室と義隆母)は、義隆父子と離れてしまったことで、一日中嘆いており、自害をしたいと思っていたのだが、さすがに不可能だったため、涙に明け暮れることしかできなかった。
そうこうしているところに、政宗は、天正15年1月16日*3に伊達の軍勢を大崎に向かわせなさったのだが、安積方面へ心を配り、信夫より南の侍大将たちは遣わされず、中通りの勢だけを向かわせられた。このため政宗叔父の留守上野介政景・一家の泉田安芸重光を両大将にして、そのほか粟野助太郎重国・永井月鑑(長江晴清)・高城周防・大松沢左衛門・宮内因幡(中務重清)・館助三郎(田手宗実)、家老浜田伊豆景隆、軍奉行は小山田筑前、横目には小成田惣右衛門重長、山岸修理定康にて、総軍をつけ松山の遠藤出羽高康のところへ遣わせなさった。
それに大崎から伊達に内応した者たち、氏家弾正・一栗兵部・湯山修理・一の迫伊豆・宮野豊後、三の迫の富沢日向、いずれも岩出山に近くというのは幸いであったのだが、黒川月舟斎晴氏が伊達に逆らったので、四竈と松山の間は、月舟斎の居城の黒川があるため、尾張は何と思っても実行することができず、さてどの方角から戦を仕掛け、どのように兵を進めようと評定になった。
それぞれが言ったのは、桑折・師山の二つの城に籠もっている敵軍は、伊達の軍兵が無理に通るのなら、この敵の二つの城から出て合戦となるだろうが、三本木川が後ろにあるため、なかなか戦闘しづらいであろうと言った。そのため、遠藤出羽は「新沼の城主甲斐は私の妹聟ですので、代々伊達へ忠節を誓っている者であります。なので師山には抑えをおき、中新田を強引に通ったとしても、困ることはないでしょう」と言った。
上野は「そうではあっても、中新田までは20里あまりである。敵の城を後ろにして、両地へ進路を向けると、彼の地を通ることは心配である」と言った。それを聞いて重光が思ったのは、今度の軍は重光が言い出しであるので、日ごろから自分と不和をなしている留守上野政景は、その上月舟斎を舅としていたので、この戦にかれこれと情けをかけるのではないかと疑いを持ち、「泉田安芸重光、遠藤出羽の申すように。氏家が伊達の勢を見ることができないときは頼みを失い、義隆へ再び内応する可能性があり、危うい。師山には押さえを置き、お通りなさるのであればよいのではないでしょうか」と言った。そのため、仕方なく中新田への進軍することになった。

感想

大崎合戦展開中です。注でも書きましたが、『政宗記』では天正15年となっていますが、『治家記録』では天正16年となっています。まあ成実の思い違いでしょう!(笑)←結構年号の間違いありますよね…おじいちゃんなので忘れたのか!(笑)
成実は「信夫より南の侍大将」にあたるので、自身は参加していません。だから間違えたのか!(笑)
この大崎合戦で重要になってくるのは泉田安芸重光と留守上野政景の不仲です。月舟斎の婿である政景の微妙な立場も関係してきます。興味深いです。

*1:『治家記録』はこれを天正16年とする

*2:叔父

*3:治家記録によると天正16年