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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』6-2:片平手切附岩城手切事

『政宗記』6-2:片平親綱の手切れと岩城の手切れ

原文

同三月、政宗宣ひけるは、「痛未だ十分には無れども、助右衛門申合の手切、程延ける事如何なれば、出ける事は叶はずとも、先手切せよ」と宣ふ。故に同十六日と申合、其旨米沢へ申ければ、助右衛門手切の次第岩城へ聞へ、「郡山にて対陣のとき、佐竹・会津へ今より以後、懇あれとこそ無事を扱ふ処に、程なく、政宗再乱は前代未聞の次第なり、爰は又此方より手を越処なり」とて、常隆田村へ向て手切をなし、同領小野と云処へ打出給ふ。彼地と大越の間に鹿俣と云、田村一味の処を近陣になして取詰給ふ。在城三春へ遠路なれば、助の人数も来ず。六七日は抱ひけれども、相叶はず、城内より訴訟に及び、出城して、田村の内へぞ引除ける。爾して後、常隆は右の小野に在陣し給ふ。かくして政宗此義を聞給ひ、田村への警固に、桑折治部・飯坂右近・瀬上中務を遣し給ふ。然りと雖も、未痛み給へば、出給ふ事をば延慮にて御坐す事。

語句・地名など

鹿俣(かんまた)

現代語訳

天正17年3月、政宗は「痛みはまだ十分にとれたわけではないけれども、片平親綱と約束した手切れがこれ以上伸びるのは良くないので、出陣することはできないが、まず手切れをせよ」と仰った。このため、3月16日に手切れと約束し、その旨を米沢へ伝えたところ、片平親綱の寝返りのことが岩城へ伝わってしまい、「郡山で対陣したとき、佐竹・会津へ今後懇ろにお願いすると言ったがために何事もなく扱っていたというのに、すぐに政宗によって乱されることは前代未聞の事である。ここはまた、こちらから手を加えるところである」と言い、岩城常隆は田村に向かって手切れをし、小野というところへ出られた。小野と大越の間に鹿俣という、田村に味方する城の側に陣を引き、城を攻めた。
田村の本城である三春へ遠かったため、援軍も来なかった。6,7日は籠城していたが、それ以上は叶わず、城内から訴えをおこない、城をでて田村領に引き下がった。
この後、岩城常隆はこの小野に在陣なさった。政宗はこれを聞き、田村への警固に桑折治部・飯坂右近宗泰・瀬上中務景康を遣わされた。しかし、未だ痛みがあったので、出陣は日延べとなった。

感想

この記事については、注に、

『治家記録』は『政宗記』のこの記事を「此段甚だ違えり」と評し、岩城常隆の小野出馬は四月十五日、片平親綱の事切は四月二十四日であり、常隆が最初から小野の地を略取することを計画し、事をしかけてきたのであると記している(『伊達史料集』による注)。

とあり、片平親綱のことと常隆の小野出馬は関係なかったとするのが正しいようです。
この頃の骨折の治療って添え木をあててひたすら待つことしか出来なかったようですが、政宗もその後不自由もなく綺麗にくっついてよかったですね。温泉のおかげでしょうか(温泉の湯を取り寄せて治療に使ったりしています)。