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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』6-6:常隆小野より佐竹・会津に進事

『政宗記』6-6:岩城常隆、小野から佐竹・会津に進んだこと

原文

同三月、常隆田村の小野より、佐竹・会津へ打出給へと進め給ふ、両大将此義にうなづき、五月廿八日に岩瀬の郡須賀川迄馬を出し、三家の相談にて、政宗領分田村へ働くべしと云へり。政宗是を聞給ひ、片倉景綱後より「田村へは、伊達・信夫・刈田・柴田の勢を、新地駒ヶ峯より直に遣すと云ども、今又猪苗代盛国予が味方となり、会津へ手切となる、かかる折柄、佐竹・会津より仙道へ打出ければ、彼是の為、我も二本松か扨は本宮へ馬を出さん、爾ば猪苗代への加勢には、伊達成実と汝を遣はさん、去程に、汝二本松へ廻り、其旨成実に云渡し、罷通れ」と宣ふ、是に依て手勢をば、猪苗代へ直に遣はし、我等斗廻けるとて、六月朔日の申の刻に、景綱立寄急ぎ二本松を罷通る故に、成実も人数を催し、其日に打立、其夜は荒井と云処に一宿して、二日には阿久ケ島迄参りけれども、俄かなれば、勢も続かず漸く待受、三日に猪苗代へ参り、小十郎は朔日阿久ケ島、二日には猪苗代へ著掛りけるに、弾正逆意の次第、須賀川へ聞へ、同三日に義広会津へ陣帰有て、四日には猪苗代へ働給ふと云。其旨景綱に成実告知せければ、昨日も働と申しけれども、偽なり、今日も其分ならんと申す。爾と云ども成実、会津猪苗代不案内なるに、かかる序でに見物せんと存、摺上へでければ景綱も跡より来る、爾るに猪苗代逆意に付て、境目の者ども二三百、摺上近所へ取出、引除ける空家どもを焼払ひ、働の様に候ひけるが、景綱と成実を見かけ、皆引上けるなり。夫より新橋引たる体、扨大寺辺の地形を見廻り、其日の午の刻に猪苗代へ罷りかへる。されば義広会津へ帰陣なりと、政宗聞給ひ、六月三日に、仙道安積の郡阿久ケ島迄馬を進め、評定の者どもを召て宣けるは、「義重・義広須賀川へ打出、常隆へ加はり田村に働くべしに候へども、已に猪苗代の一乱聞へ、義広帰陣、其に又義重・常隆会津へ加勢を越しける由、爾れば、猪苗代への警固に、成実・景綱ばかりを差向、明日に急事有んとき、永き弓矢恥ならん。さる程に、我も進んで一所となり、会津へ向はん」と宣ふ。評定の者ども「是は案の外なる仰せかな、先猪苗代への入口は中山とて田舎道三十里が程は山中にて、除口の全く成ざる大切所、扨猪苗代打入て城の南は、四十里四方の漫々たる湖有て、夫より摺上を越、新橋とて水の落口切所の川なり。又城の北は盤梯山と云大山なれば、何方を取ても切所なるに、況や御無勢と云ひ、鰐の淵へ入んと宣ふ、如何に御方を申す猪苗代と云ども、敵地の中へは御運の末なり」と申す。夫にて政宗「各思案を以て申す処を予が愚案を先立ん事、是又傍若無人にも有ん、左有んに取ては、成実・景綱に問合、何れの道にもなさん、さらば」とて、六月四日に阿久ケ島より、布施清左衛門と云歩立を、猪苗代へ使者に賜はり、仰の旨を景綱・成実承るに、「義広会津へ入馬の上、佐竹・岩城より加勢の由、左も有ときは、義重・常隆田村への働きも、無勢にてはいかで叶候べき、其義ならば、田村のことは心安し、然るに其表に両人計を差置、悪事の刻は是迄出たるかひもなく、軍を取ての瑕ならん、左有に於ては、其表へ移さん」とて御文にも其趣をのぶ。景綱「当所へ移給事、善悪の二つなれば、一大事に候、但し如何有べきぞ」と申す、成実「されば愚案ながらも、移給ふは云に及ばず、阿久ケ島に御坐も望に取ては手先過たり、其れをいかにと申すに、義重・常隆本宮迄働き給はば、我地を跡にし給ひては、然るべからず、唯願くは本宮に御坐て好るべく、増て是迄趣き給はば、返々も謂れなし」と申ければ、景綱二人友に延慮の旨、急ぎ帰り参りて申上べく、若や悪事もある事ならば、阿久ケ島へは三十里なれば、昼夜を嫌はず申上んとて、御請状を差渡し、清左衛門を相返しけり。かかりけるに、政宗阿久ケ島にて思はれけるは、成実・景綱も移し然るべしとは、よも申すまじと思ひ給ひ、清左衛門罷り帰りの中途へ、密かに人を出され、「汝此方へ来て人承るには、成実・景綱も急ぎ移り給ふべき事、待兼たりと申すべし、然らずば、手討にせん」とて待給へば、清左衛門罷り帰る。「扨両人は何と云ぞ」と尋ね給ふ、教の如く畏てぞ候ひける。其とき政宗「昔が今に至る迄武道慥なる兵は、同意と伝へたり、今思ひ当りて候、扨も心地よき挨拶かな。早打立ん」との給ふ。評定の者ども、「今日は日暮兵も散て候程に、明日卯の刻に立ち給ひては如何有ぞ」と申す。以の外気色替り、「夫兵なくとも打出事かたかるべきや、今夜一夜物を喰ざる事をば、我とともに堪忍せよ、然と云ども汝どもは、明日来れ早打立ん」と宣ふ。何れも是非を伺い兼、一度に立て仕度の由。去程に其夜の戌の刻に、猪苗代へ著給ふと聞へけり。偽りならんと申しければ、景綱実定にて御迎に出ると申す、扨はとて取物も取会えず、駒に策打進みければ、須賀川*1と云処にて出向奉り、六月四日の子の刻に、猪苗代の城に入給ふ。然る処に、盛国当十三歳の子を人質に、昨日三日に阿久ケ島へ差上けるを、同四日に召連、其夜に返し給へば、弾正申けるは、「子供二人の内、兄は我を背き今会津へ引除奉公成に、此子を返し給はる事、内外ともに有がたけれども、迚も小十郎へ預け置き、大森へ遣はさん、またも子供有事ならば、是に差添上べき物を、是非なき次第」と申上候事。

語句・地名など

摺上(すりあげ):福島県耶麻郡磐梯村更科磨上
新橋(にっぱし):日橋川。猪苗代湖より流れ出て阿賀川となる。この場合、橋に掛けた新橋を取り除いたことをさす。
大寺:磐梯村大寺
中山:安積郡熱海町中山
戌の刻:午後八時

現代語訳

天正17年3月、岩城常隆は、田村領の小野から、佐竹氏・会津蘆名氏へ出陣なさってくださいと進めていた。両大将はこれに同意し、5月28日に岩瀬郡須賀川まで出馬し、三家(蘆名・佐竹・二階堂)の相談によって、政宗の領地となっている田村領へ攻め入ろうと言った。
政宗はこのことをお聞きになり、片倉景綱にあとから「田村には、伊達・信夫・刈田・柴田の勢を、新地・駒ヶ嶺より直接に遣わすといっても、今猪苗代弾正盛国が私の味方となり、会津に対して手切れをすることになった。このような時期に、佐竹・会津から仙道へ出馬したならば、あちこちが大変になるため、私も二本松かもしくは本宮へ出馬しよう。ならば猪苗代のへの加勢には、伊達成実とおまえを使わそう。なのでおまえは二本松へ廻り、その旨を成実に伝えて、とおれ」とおっしゃった。
これに従って、手勢を猪苗代へ直に遣はし、私たちのみ廻っていたところお、6月1日の申の刻(午後4時頃)景綱が立ち寄り、急いで二本松を通ったため、成実も手勢を集めて、その日に出立した。その夜は荒井というところに一泊して、2日には安子ヶ島まで行ったのだが、急なことであったので、勢が続かず、しばらく待ち、3日に猪苗代へ行った。小十郎景綱は1日に安子ヶ島、2日には猪苗代到着しかかったときに、猪苗代弾正盛国が反逆した詳細が須賀川に伝わり、同6月3日に蘆名義広は会津へ帰り、4日に猪苗代へ戦闘なさると行った。成実がその旨を景綱に伝えたところ、昨日も戦が始まると言っていたけれども、嘘の情報であった。今日もそうではないかと言った。そうとは言っても、成実は、会津・猪苗代方面に詳しく知らなかったので、このついでに見物しようとも医、摺上原へ出たところ、景綱もあとからやって来た。
猪苗代盛国の寝返りに際して境目に詰めている者たちが2,300が摺上原近くへくりだし、空になった空き家を焼き払い、戦闘状態のようになったが、景綱と成実をみかけ、皆引き上げた。
それから日橋川の橋の無くなっている様子や、大寺あたりの地名を見廻り、その日の午の刻に猪苗代へ帰った。
さて蘆名義広が会津へ帰ったとお聞きになった政宗は、6月3日仙道安積郡安子ヶ島まで馬を進め、評定衆を呼んで次のように仰った。
「佐竹義重・蘆名義広が須賀川へ出て、岩城常隆と合流し、田村に戦闘を仕掛けようとしているけれども、猪苗代での騒動を聞いて、義広は会津へ帰陣した。それにまた義重・常隆が義広へ援軍を送る模様。ならば猪苗代への警固に成実と景綱ばかりを向かわせ、明日にでも急な事がおこったとき、私の武勇にとっての永い恥となるであろう。であるから、私も出馬し、一緒になって会津へ向かおう」とおっしゃった。
評定衆は「これは想定外のお言葉です、まず猪苗代への入り口は中山といって、田舎道30里ほど山の中にあり、退く道が全くない危険なところであります。また猪苗代に入ると、猪苗代城の南は、40里四方の広々と果てしない猪苗代湖があります。それから摺上原を越えても、日橋といって、水の落ちるところで、通行困難の川であります。また城の北は磐梯山という大きな山であり、どこをとっても通行困難の危険なところであるというのに、ましてや少人数でいくというと、鰐*2のいる淵に入ろうと仰る。いかに猪苗代が味方になるといっても、敵地の中へ行かれるなら運も尽きましょう」と言った。
それを聞いて政宗は「それぞれ考えがあって言うところに、私が愚かな案を通そうとするのは、これは非常に傍若無人な行為である。なので、成実・景綱に問合せ、どちらにしたらよいかを決めよう」といい、6月4日に布施清左衛門という徒立ちの者を、安子ヶ島より猪苗代への使者としてお送りなさった。
仰る旨を景綱・成実承ったとき、「義広が会津へ入馬した上、佐竹・岩城よりの援軍がくる様子である。若しそうなったときは義重・常隆の田村への先頭も、少数の兵では叶うことも難しいだろう。もしそうなるならば、田村のことは対して心配ではない。しかし仙道表に二人だけを差し置き、もし何か悪いことがおこったときには、これまで戦をしてきた甲斐もなく、軍に対しての瑕となるであろう。そのため、私も仙道表に出陣しよう」と、文章にもその主旨が記されていた。
景綱は「こちらへお越しになることは、良い面と悪い面があります。一大事であります。どうするべきでしょうか」と言った。
成実は「では私の意見では、お移りなるのはもちろん、安子ヶ島にいらっしゃることまで望むのは、やり過ぎである。それはどうしてかというと、義重・常隆が本宮まで戦闘しかけたならば、その地を後にするべきではないだろう。ただ本宮にいらっしゃればいい。ましてやここまでいらっしゃる必要は全くない」と言ったので、景綱も二人とも来なくて良いと言っていることを急ぎ帰って申し上げるべく、もし何か悪いことがあれば、安子ヶ島へは30里もあるので、御請状を渡し、清左衛門を昼夜を構わず返させた。
こうして、安子ヶ島で政宗が思ったのは、成実・景綱も、お越しくださるように、とは万が一にも言わないだろうとお思いに成り、清左衛門が帰っている途中の道に密かに人をお出しになり、「おまえが政宗の処に到着して、人に聞かれたときは、成実・景綱も急いでお移りなさるよう待ちかねております、というのだ。そうでないならば、手討ちにするぞ」と伝えた。
待っていると、清左衛門が帰ってきた。「さて二人はなんといっていたか」と政宗がお尋ねになったので、言われたとおり、畏まって言われたとおりに言った。政宗は「古来から今に至るまで、武道を理解している兵ならば、同意と言うだろう。今思い出した。なんと心地よい返答であろうか。早く出立しよう」と仰った。
評定衆は「今日は日も暮れ、兵ももう各所に散ったので、明日卯の刻(午前5時頃)出立してはどうでしょうか」と言った。そうすると、大変顔色が変わり、「その兵が居なくても、出発する方がいいいであろう。今夜一晩ものを食べないことぐらい、私と一緒に我慢せよ。しかしおぬし達は明日来ればいい。私は出発しよう」と仰った。そこにいただれも否定することができずに、一度に出発して仕度した。
その内、その夜の戌の刻(午後八時頃)に、猪苗代へお着きになると伝わってきた。嘘であろうといったところ、景綱は「本当のようなのでお迎えにでます」と仰った。なのでとるものもとりあえず、馬に鞭を打って進んだところ、須川というところで出迎え、6月4日の子の刻(夜12時半)ごろ猪苗代の城にお入りになった。
盛国が昨日3日に、安子ヶ島に13歳の子を人質にして送った子を、この4日連れてきており、其の夜にお返ししたところ、弾正は「子供二人のうち、兄は私に背き今は会津に退き、蘆名に従っていますが、この子をお返し下さったことは、真事にありがたいことであります。が、小十郎景綱のところに預けおいて、大森に遣わしましょう。もしまた子供が必要なときは、あらたに人質に献上するべきであるが、出来ないです」申し上げた。

感想

佐竹・蘆名の動きにしたがって、有機物のように動く戦況が記されています。成実は片倉景綱と一緒に、猪苗代近所を偵察しています。もちろん二人だけではないでしょうが、戦が起こりそうなところを結構気軽に乗り回しているのが面白いです。
そして蘆名義広が会津へ戻り、兵を出そうとしているのをしって、政宗は猪苗代へ出馬をしようとして、評定衆に止められるのを見越して、景綱・成実へどうしたらいいかと聞きます。景綱・成実は「来なくていい」と返事。なのですが(笑)、ここで面白いシーンが続きます。遣いに出された布施清左衛門は急いで帰る途中、何者か(笑)に「政宗の元に帰って、聞かれたら、二人が政宗を待ちかねていると言え」と言われます。
おそるおそる何者かの言うとおりに政宗に伝える清左衛門。ここ独眼竜政宗でも映像化されていましたが、ほんっと面白い(笑)。政宗は初めから出馬をきめていたのでしょうね。評定衆に何をいわれてももう行く気満々(笑)です。
逆に猪苗代近所にいる小十郎と成実は困惑(笑)。「嘘であろう」「本当みたいです」ってなんだこのコント(笑)。須川(酸川)で政宗を迎えます。
そして政宗は猪苗代盛国に人質として出された息子を返し、感謝されます。
摺上原合戦前夜のちょっと面白いやりとりの記事でした(笑)。

*1:須賀川ではなく、須川(酸川)の誤記か

*2:古語では鮫