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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』3-8:月舟訴訟之事

『政宗記』3-8:黒川月舟斎の訴えのこと

原文

去程に伊達の二陣、上野・伊豆を始め、師山の南の畑に控へたりしが、先陣の者ども通り過して引付けんとて、先へ押通らんと進みけれども、切所の橋を引れ通りけること叶はず。あまつさへ桑折・師山両城の敵共、前後左右に押はさみ抱けるに、日も早暮かかりければ、尚も通ること叶はずして、却て二軍も其場を除かね、上野方より使者を以て、舅月舟晴氏の許へ、除させてたべと理はりければ、「御辺許り除たまへ」と云。重ねて上野「某一人争で通るべく候、此方の備一宇通し給はば引除ん、爾らざれば則討死せん」と云。かかりける処に、月舟伯父の八森相模と云者晴氏を進めけるは、「上野殿を始め一々討果し、軍の実否を付らるべし、其謂を如何にと云へば、大崎は所々区々なるに、政宗は大身と云ひ、一度敵となりては、伊達の軍兵助たりとて、二度取返し月舟身代果して立つべき見当なし、只詮ずる所は爰にて敵を討果し、好しかるべし」とすすめけれども、流石に聟を討兼て上野へ引添ける、伊達の勢をば残りなく、松山へこそ引せける。されば先陣の軍兵は、跡を切れて叶はざれば、凡ては五千人の人数なれども、小地の新沼へ籠城して已に饑渇に及ぶ故に、伊達より亦軍兵共を遣はし、籠城を引取んとは思はれけれども、伊達の軍兵一宇を遣はしたまへば、安積・仙道口を気遣給ひ、如何せんと思れける内、籠城の者ども師山を押通り、向ふ敵を切払ひ松山へ引ん、と云ふ評定の由、其にて永井月鑑、「桑折・師山両城を敵相抱、立はさみ難しと云も場好なれば、責めてのことなり、況や玉造の川を渡りしとき、跡先より押包まれ、手を空く討死せんこと必定なり」と申す。実にもとて思ひとどまるとかや。其時の玉造川は古川の町の中を流れ、師山へ落けるときなり、爾るを今北へ廻して此へ加へる。かかりける処に敵の方より鈴木伊賀・北郷左馬尉と云ひけん者両使、中途へ来て新沼へ使を遣はし、籠城の大谷・加沢と云両人を呼出し、泉田安芸と月鑑を人質に渡されなば、籠城の諸軍を出城させんと云、二人共城内へ先帰り月鑑・安芸に聞せければ、安芸郎等湯村源左衛門申けるは、「中々多勢斬て出て討死なるは案の内なり、然に諸軍を引せ後日に安芸一人搦め捕れ、首を刎られ死後迄の恥辱何ことか是に過候らはん、夫を安芸争か承引あるべき」と申す。月鑑「安芸殿は兎も角諸軍を助くれば政宗へ第一の忠なり、去程に我等は敵の手へ渡て急ぎ味方を引出さん」と云。又源左衛門「御辺の御底意、疾に推量申して候」とて以ての外の口論なるを、安芸「源左衛門申すこと無益なり、我は人には構はず、一人なりとも敵の手へ渡り諸軍を助けんこと悦なり」とて、其旨鈴木伊賀・北郷左馬尉に申し渡す。本より月鑑は渡るべきとのことなれば、二月二十三日に両人共に新沼の城を出て、大崎之蟻ヶ袋へ行向ひ人質となり、伊達の諸軍出城して御方の松山へぞ引除ける。故に浜田伊豆・小成田惣右衛門・山岸修理、米沢へ帰り参て軍の品々政宗へ申しければ、「見合もなく敵地へ余り深入して、態と越度を取けるなり。重ねては弾正に云合せ、桑折・師山二ケ所の城を攻取べし」と宣ひける事。

語句・地名など

蟻ヶ袋(ありがふくろ):宮城県志田郡三本木町蟻ヶ袋
切所(せっしょ):峠や山道などの要害の地。交通の要所に設けた防御用のとりで。また難所。
区々(くく/まちまち):まちまちでまとまりのないさま/取るに足りないさま
中々(なかなか):なまじっか/〜しない方がましだ
蟻ヶ袋(ありがぶくろ):宮城県志田郡三本木町蟻ヶ袋

現代語訳

そうこうしているうちに、伊達の二陣は、伊達上野と浜田伊豆をはじめとして師山の南の畑に控えていたのだが、先陣の者たちを通り過ごして引きつけようとして、先へ強引に押し通ろうと進んだのだが、難所である橋を落とされ、進むことはできなかった。その上、桑折・師山の両城の敵が、前後左右に押し挾まれ囲まれ、日もすでに暮れかかっており、なおも通ることが出来なかった。予想に反し、二軍ともその場を退く事が出来かね、伊達上野から舅月舟斎のもとへ「退かせてくれ」といったところ、「あなただけ通れ」と言った。上野は重ねて「どうして私一人で通ることができるでしょうか、私たちの備え全部通してくれるなら退きましょう、そうでないのなら、ここで討ち死にします」と言った。
月舟斎の伯父の八森相模という者が晴氏に「上野殿を始め全部討ち果たし、戦の勝ち負けをつけるべきです。それは何故かというと、大崎はところどころまとまりがないが、政宗は大きな家であり、一度敵となっては伊達の軍兵を助けたとしても、二度反逆した月舟斎の身代が立つ見込みはない。ただよく考えてみたところ、ここで敵を討ち果たすことがよいことでありましょう」と進めた。しかし、さすがに婿を打つことはできかねて、上野に付き従っていた伊達の軍兵をすべて松山へ退かせた。
すると、先陣の軍兵は後を追うことができず退くことができなかったので、およそ5000人の軍であったが、小さな城の新沼城へ籠城し、飢えと餓えに苦しんだ。
そのため伊達よりまた兵を使わし、籠城した兵たちを助けようと思ってはいたが、伊達の兵全てを使わしたところ、安積・仙道口のことを心配なさり、どうするべきかと思われていた内に、籠城の者たちが師山を通り、迎える敵を切り払い、松山へ退かないであろうかという相談のときに、長江月鑑斎は「桑折・師山両城を敵は抱えており、挟撃することは難しいといっても、場所はよいのだから、無理にすることである。ましてや、玉造の川を渡ったとき、前後から押し囲まれ、必ず簡単に討ち死にするようにきまっていることであります」と言った。本当にその通りであるとして、思いとどまったということである。
そのときの玉造川は古川の町の中を流れ、師山へ落ちていっていたころである。これを今北へまわして、これへ合流させようとしていた。
すると敵の方から鈴木伊賀・北郷左馬尉という名であったろう二人の使いが、途中まできて、新沼へ使いを送り、籠城している大谷・加沢という二人を呼び出し、泉田安芸と月鑑斎を人質に渡してもらえるならば、籠城している諸軍を城から出させましょうといった。二人とも城内へまず帰り、月鑑斎と泉田安芸に聞かせたところ、泉田安芸の家臣、湯村源左衛門が「なまじっか多勢を切って出て討ち死にするのは考えのうちである。しかし諸軍を引き上げさせ、のちに安芸ひとり縛り上げられ、首を刎ねられることは死後までの恥これ以上のことはないことである。それを安芸はどうして承引してくださらないのか」と言った。
月鑑斎は「安芸殿はともかく、諸軍を助ければ、政宗への一番の忠誠となるだろう。なので私は敵の方へ渡り、急いで味方を城から引き上げさせよう」と言った。
また源左衛門は「あなた様の下心は、既にわかっております」と言い、激しい口論になったところを、安芸が「源左衛門の言うことは無益である。私は人のことには構わず、一人であっても敵の手元に渡って、諸軍を助けることができるのは嬉しい」といって収め、その旨を鈴木伊賀・北郷左馬尉に言い渡した。
もとより月鑑斎は来るべきであると決まっていたことであったので、2月23日に、二人とも新沼の城を出て、大崎の蟻ヶ袋へ向かい、人質となり、伊達の諸軍は城を出て、味方である松山の方へ退却した。
そのため、浜田伊豆・小成田惣右衛門・山岸修理、米沢へ帰ってきて、戦の詳細を政宗に申し上げたところ、政宗は「きちんと予想もせず、敵地へ過剰へ深入りして、わざわざ失敗をしたのであろう。この次は弾正に言い合わせて、桑折・師山2ヶ所の城を攻め取れ」と仰せになった。