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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』3-3:田村清顕頓死、附政宗北の方へ不和の事

『政宗記』3-3:「田村清顕の頓死、政宗と北の方の不和のこと」

原文:

同十一月、田村清顕頓死し給ふ。是に依て政宗米沢より信夫の福島に出られ、田村へは使者を遣はし、則ち帰り給ふ。されば清顕には嗣子なかりければ、残命の内より、末には田村をば政宗に譲り玉はんと常々宣ふ。故に死去と雖ども、田村の在城三春には、政宗姑母儀を先城代に置参らせ、偖万づ諸仕置等をば、清顕一門の田村月斎(顕頼)、同苗梅雪(顕基)、従弟の右衛門(清康)、家老橋本刑部(顕康)彼四人にと政宗下知し給ふ。かかりける処に、其頃政宗北の方へ中悪ければ、三春の母儀是を恨み、内証は逆心の二心にてをはしませ共、月斎・刑部は縦御中悪くましますとも、北の方の母儀は、相馬義胤の伯母なれば、如何に女儀にてましますとも、押たて相馬をたのみ、政宗へ背ひても別義なしとの思案にて、上には伊達を守れども、底意は相馬にかたむきけり。田村差引四人の内証、斯くの如く分れければ、何方にてもあること也、其手寄次第月斎方・梅雪方とて、下々迄も二つに分れけれども、上は先押なめて伊達へ奉公の体なり。されば政宗一年北方へ不和にてまします。政宗十歳の年偖清顕息女九歳にして縁約あり、其後品ありて媒酌の女房をば手討にし給ひ、相残る女房ども一人も助けずして皆死罪に行ひ給ふ。其いきどをりに依て、中不和にて御坐す。然りといへども北の方其の頃若年なれば、つひには和睦し給ひ、目出度かりける幸かな。彼腹に嫡女誕生有て、其より二男家督忠宗、三男摂津守宗綱、四男竹松にて、子供数多出させ給ひ、凡六十年を栄ひ、北の方六十九歳のとき、政宗七十歳にて逝去し給ふ。此時に至りて、北の方さまをかへさせ給ひ、改名をば陽徳院と号し、家督忠宗の孝行申すも中々有かたく候事。

現代語訳:

天正14年11月、田村清顕が頓死なさった。このため政宗は米沢から信夫の福島城に出られ、田村へは使者を遣わし、すぐにお帰りになった。さて清顕には嗣子がなかったため、存命の間から、ゆくゆくは田村領を政宗にお譲りしようと常々おっしゃっていた。なので、死去といっても田村氏の在城である三春には、政宗の姑の母を城代に置き、もろもろの仕置を清顕の一門の田村月斎顕頼・田村梅雪顕基・田村右衛門清康・家老の橋本刑部顕康の四人にまかせると政宗は下知した。
その頃政宗は北の方愛姫と仲が悪かったため、三春の愛姫の母はこれを恨み、心の中では逆意を抱いていた。田村月斎・橋本刑部はたとえ仲が悪くとも、北の方の母は相馬義胤の伯母であったので、たとえ助勢であっても、押し立てて相馬へ頼って政宗に背いてもかまわないと思っていたので、表面上は伊達に従っていたのだけれども、心の中では相馬に傾いていた。田村を率いる四人の心のうちはこのようにわかれていたのだが、どこでもあることである。その縁故の月斎方・梅雪方と、下々の者までも二つに分かれていたけれども、表面上はすべて伊達へ奉公しているように見せかけていた。
さてこの頃政宗は北の方と不和であられた。政宗が10歳の時に清顕の息女愛姫は9歳にして婚姻の約束をした。その後事情があって仲立ちの女房を手討ちにし、のこった女房たちを一人も助けずに皆死罪になされた。愛姫はそのことを怒って、不仲でおられた。
しかしそれは北の方が若かったので、その後仲直りなされたことはめでたい幸福であった。嫡女五郎八姫の誕生があり、その後次男で家督を継いだ忠宗、三男の摂津守宗綱、四男竹松丸と多くの子をお生みになり、約60年を連れ添われ、北の方が69歳のとき、政宗は70歳でお亡くなりに成られた。このときに北の方は落飾し出家して、陽徳院と号し、家督を継いだ忠宗の孝行も非常にありがたいほど篤いものであった。

語句・地名など:

品(しな):そうなった事情や立場、理由。

感想:

田村清顕そして田村家をめぐるあれこれ。
清顕の死後相馬派である先代清顕夫人と、伊達家出身である先々代隆顕夫人の伊達派と分かれ、田村氏は上から下まで二つに分かれていたとのこと。
また愛姫の婚姻の経緯・政宗との不和の経緯にも触れています(ここらへんが記述に遠慮のない成実…)。
この侍女手討ち事件は『独眼竜政宗』でもかかれていました。そりゃ全員身内の侍女殺されたらそりゃココロ開きませんよ…。政宗ひどい。その後仲直りしたあとはわりと仲の良い夫婦なまさめごです(『木村宇右衛門覚書』によると政宗が愛を立て、非常に敬意のある関係ですよね。いつまで同衾してんねん…政宗(笑)<愛のほうからもう年だしさすがに…と断っている(笑))。
愛姫の年齢は治家記録によると二つ下とのことですが、私は根拠は別にありませんが、一歳下説の方を取っております。成実は日付けとか年齢とかよく間違うけど、さすがに同い年の姫の年は忘れないんじゃないかな〜と(はっきり69歳の時に政宗死亡ってかいてますし)。
どこの資料だか忘れましたが、愛姫の輿入れのときに実元じゃなく成実が迎えに行った説もあるらしいですね。実元の間違いじゃないかと思うけども、本当に成実が行ったんだとしたらなんとかわいらしい名代でしょう(笑)。11歳の花嫁を11歳の名代が迎えに行って、先導して板谷峠を越えたんだとしたら……すごいかわいらしい絵面で萌えます…。ま、実際は実元が名代で、大森から米沢まで一緒について行ったとかそんなんなんでしょうが。
てなわけで私はまさめご一歳差説をとっています(萌えで判断する素人)。同い年福島県人のしげ&めご…!(≧▽≦)