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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』1-4:青木修理忠節事

『政宗記』1-4:「青木修理の忠節のこと」

原文:

(小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967・『仙台叢書11巻』を参考に)

同七月*1、成実米沢に使者を以て申けるは「今度猪苗代弾正親子の間と罷成、申合の忠節、存の外なる違変、某式迄本意なき事、次に会津へ手切の首尾無く、彼是なれば、先此間に仙道四本松へ馬を出され、大内備前定綱を誅せられ、其れより仙道中を押廻し給はば、其末々は御手立も有べし、此義承引し給ふならば、定綱家中をこしらへ見候はんや」と申しければ、「今度万無手際にて空しく引込候こと、是のみ心にかかり候、去ばとて大内家来の忠節をこしらひ候らはんこと悦の到也、左有んに於いては手立てせよ」と宣ふ。去程に成実郎等大内蔵人・石井源四郎と云二人どもに、本は四本松譜代なりしを召使こと幸ひなれば、彼四人を遣はし、四本松の内、苅松田城主大内家来青木修理を語らひければ、忠節せんと申す。是に依て勧賞望の所判形調差遣はす。されば大内も田村を背ひて気遣をなし、郎等共より人質を取置けるが、亦伊達を背き、尚も野心を挿み家中の上下嫌いなく一同に取置けり。故に修理も新太郎とて、生年十六歳の弟、其後伊達へ参り政宗目を懸取立玉ふ、近頃青木掃部事なく彼新太郎に五歳の男子を差添小浜へ渡す。尓るに修理逆心ならば、二人の人質死罪にならん、さも有るときは立身するとも何の益あらん、唯所詮は如何にもして、証人替をなさんと思ひ、或とき修理小浜へ行て、家老三人の子共に、中沢九郞四郎・大内新八郎・大河内次郎吉と云若者どもに語りけるは「今程在所苅松田に、雉子の子沢山にて、草追鳥の折柄なり、新太郎はおらずとも旁来たり、追鳥して慰みせよ」と云いければ、実(げに)もと思けん、頃は八月五日の日、三人共に来て翌日六日に追鳥して雉子十四五の勝負也。其夜に料理して、夜半過まで乱酒をなして、其とき修理云ふ、「旁数盃の上尚過酒せんこと危し、只大小を抜て酒を盛」と申す。いや苦しからずと云けれども、修理子細を含み、面白く云いあしらひ、皆奪取、「今より心安く、何程も酒盛」とて引取けるに、是を誠と心得、大酒大狂常ならずして、前後も知らず酔臥けり。其時修理郎等共十四人、我身どもに甲冑を鎧ひ、七日の明方に三人の枕元へ立寄り、「某定綱へ恨の筋候て伊達へ忠を申なり、旁存知の如く、新太郎と五歳の子どもを小浜に差置、其方ども三人を頼み証人を侘せんが為なり、扨定綱も我に無念はましますとも、家老三人迄の子ども衆をいかでか打捨て給ふべき、命に気遣ひ候はで隨ふべし」と云ければ、三人の若者ども其にて俄かに行当り、命はをしからしとは思ひけれども、大小をば奪はれ力及ばず、亦さすがに捨てがたきは命なれば、是非なくして三人共に、おめおめと錠をぞ打れける。去程に修理証人のことは心安、其日に小浜へ向て火の手を挙げ、手切して成実所へ注進なり。急ぎ此旨米沢へうかがひければ、自身出給ふ迄では遅きとて、小梁川泥蟠*2・白石若狭*3・浜田伊豆*4・原田左馬介*5四頭、給し玉ふを成実同心にて、苅松田近所飯野と云処に在陣させ、成実は立根山*6と云在所に打越陣を備へ、政宗も同八月十二日に信夫の福島へ馬出さる。故に修理に成実、使を添へて差上げれば召出し、忠節奇特の由宣ひ、長谷部国重にて金熨斗附の刀を給はる。然る後、四本松を絵にして上よと宣ひ、絵師を付られ、絵図きはまり差上げるを見玉ひ、苅松田近所より働くべしとて、小手郡川股と云処へ陣を移され、働く前に清顕*7へ蕨ヶ平と云処にて、縁組*8の以来九年目に始めて対面し給ひ、同二十三日には小手森へ働くべしと、清顕へ宣ひけれども、大雨なれば、二十四日に働き給ふ。かかりける処に、小浜へ助入りける会津・仙道・二本松の加勢、小手森の近所へ助け来る。扨て小手森へは大内備前*9自身籠て、城内多勢にみえけれども、味方の惣軍押詰働くといへども敵一騎一人も出合ず、偖又味方も仕掛べき術もなく、其日先引玉へば、敵人数を出す後陣へ一戦持掛ければ、御方の
軍兵取て返し、合戦に取組かかりけるに、会津・二本松の加勢、城内よりの申合に候や、両口よりの戦ひなりしが、助の中にも二本松衆は先陣たり。故に田村の勢は東より働き、伊達の人数は北より動く。尓りと雖も、其間に大山隔て田村の勢は合戦にも出合ず、却て伊達の軍兵の除口なりしを、政宗腰なる采幣を取て、旗本と不断鉄砲五六百にて、自身東の山副(やまぞい)より押切る様に、横向にかかり給へば、敵悉く敗北して取手へ押込れ、敵二百六十二人が頸を取らせ給ふ。多勢をも討せ給べきを、敵小口へは入ずして、城の南へ逃散けるを襲ひければ、二本松衆と合戦未だ巳の時なるに、味方押切らるべきを見合給ひ、即ち引取給ふ。大内も其夜に小浜へ帰る。味方も其夜は五里程引上陣し給ふ。若や夜かけも如何と宣ひ、辻々芝見を出しけれども恙なし。明る二十五日にも、押詰働き給へば、敵出合ずして、会津より加勢助け来たりけれども、中久喜という山に備へ、下へは侵さず、城内へ通路はありとみへけれども、人数としては入ざるより、其日も何事なく引上、敵地へ押寄野陣なし玉ふ。尓りと雖、御方の田村衆は、大山隔ければいまだ出合ざる処なり。翌二十六日にも働き給へと亦構はず。故に城の体を見べきため、鉄砲をかけ給ひては如何有んと片倉景綱申しければ、尓るべしとて取手へ向て馭を打ども、城中堅固に抱ければ近く押詰、今度も又野陣をかけ給ふ。かかりけるに、城の南に当りて竹屋敷の有ける、「明日成実陣場移し、城内の通路を留る程ならば、必持兼候はん、成実陣を移しなば惣軍も相語られ、如何有るべきぞ」と申しければ、政宗「竹屋敷へ移りなば、敵の加勢打下り妨ぐべしと、其ときは城中より取出、両口の合戦は如何あらん」と宣ふ。成実申しけるは、「たとひ両口にてもあれ、陣場を移しければ、田村衆に出合けることを是第一の所也、已に成実陣場へ斬て出る程なれば、其ときは、田村衆と成実に打任せ給はるべし、其外脇に備へたる加勢を一宇助けるならば、其人数は味方の惣軍勢、打下妨げけるとも地形切所なれば、合戦有ともよも心易には候まじ、夫をいかにと申すに、一昨日も取手へ自身押込玉ふときも、二本松衆の戦是非強答所なれども、悪所を気遣ひ引取りける」と申しければ、原田休雪「陣場を移し候事、返す返すも謹むべき御合戦も大事なれば、只日数を以て後には如何様にも」と申。何れも休雪申分理なりとぞ同じける。又移させ玉ひて好るべしと申す者も候へども、其日は兎角差別なく差上られ候事。

現代語訳:

天正13年7月、私(成実)は米沢に使者を遣わし「今度猪苗代弾正盛国の親子の間に衝突が起こってしまい、申し合わせていた内応の件は、思いもかけない変化が起こってしまい、望み通りに行かないようである。会津への手切れについてもいい知らせが無くまとまらないので、まずこの間に中通り地方・四本松に出馬し、大内備前定綱を征伐し、中通り地方を押さえれば、のちのちの手段もあるだろう。承知してくださるならば、大内定綱の家中へ内応をしかけてみるがどうだろうか」と申し上げた。
政宗は「今回はなにもかも上手くいかず、空しく引きあげることが、気に掛かっている。なので大内の家来の内応を試みようという知らせは非常に嬉しく思う。ならば、その作戦を実行せよ」とおっしゃった。
なので、成実の家臣で大内蔵人・石井源四郎という者達が、もと四本松に代々仕えていた者を召し抱えていたのを幸いに、この四人を四本松に遣わし、大内定綱の家臣青木修理に声をかけたところ、内応しようと言って来た。なので、内応が成就した際に望むものについて、判形(書き判)をととのえて送った。大内は田村から背いて以後家中への警戒をし、家来達から人質を取っていたのだが、また伊達にも背いた今回も、裏切りを警戒し、家中のすべての身分の者達から人質をとっていた。なので青木修理も、のちに青木掃部と名乗り、伊達に来て政宗に目を懸けられ取り立てられることになる、16才の新太郎という弟と5才の子を添えて小浜に差し出していた。しかし、修理が寝返れば、この2人の人質は死罪になるだろう、そうなったら出世したとしても、何の得があるだろうと青木修理は悩み、唯一の手段として証人の取り替えを試みた。
あるとき修理は小浜に行き、家老三人の子供である、中沢九郞四郎・大内新八郎・大河内次郎吉という者を「今私の在所刈松田に、雉子の子が沢山来ており、追鳥狩によい季節であります。新太郎はいませんが、皆様来られて、気晴らしに追鳥しなされては」と誘った。3人は「まったく」とでもおもったのだろうか、8月5日、三人は刈松田を訪れ、翌6日に追鳥をして、雉子14.5匹を捕らえる成果を得た。その夜はそれを料理し、夜中すぎまで宴会をし、過度に酒を飲んだ。
そのとき修理は「皆様飲み過ぎることは危ないです。刀の大小をはずしてのまれませ」と言った。いやかまわないと言ったが、修理は上手く言いくるめてあしらい、刀を奪った。「これから安心していくらでものめますな」と言って、刀を引き取ったのをみて、3人は納得し、非常に酒を飲み、尋常でなく前後不覚になるまで酔っ払い、寝っ転がって寝入ってしまった。
そのとき、修理の郎等達14人が甲冑を着け、7日の明け方に3人の枕元を訪れて言った。「我等は定綱へ恨みがあって、伊達へ寝返ることとする。皆様御存知のように私は新太郎と5歳の子どもを小浜に人質に出している。あなた方3人を使って証人の交代を申し出る為である。定綱もこれを悔しく思うだろうが、家老3人の子ども達を打ち捨てることは無いだろう。命の心配はせずに、我等に従え」と言うと、3人の若者達はたちまち状況を把握し、命はおしくないと思ったが、刀も小太刀も奪われており、力及ばず、またさすがに命を捨てるのは忍び難かったので、仕方なく捕縛された。そして、修理は証人のことは安心し、その日に小浜に向かって火の手をあげ、手切れをして成実のところへ報告した。
このことをどうすべきか急いで米沢に尋ねると、自分が行くのでは遅いといって、小梁川泥蟠斎・白石宗実・浜田景隆・原田宗時の4人を派遣してきたので、成実も同道し、刈松田の近所の飯野という所に在陣させた。成実は立根山を越えて陣をしき、政宗も同8月12日に信夫の福島へ出陣した。なので、成実が青木修理を遣いを添えて政宗の所へ送ると、政宗は修理を召し出し、修理の内応を非常に褒め、長谷部国重の金熨斗が付いた刀を授けた。その後、四本松の地図を作れとおっしゃり、絵師をつけて絵図を作らせ、献上されたそれを見ながら、刈松田近所から戦闘を開始すべきだといい、小手郡川股というところに陣を移した。
出陣の前に、蕨ヶ平というところで、田村清顕と対面した。田村清顕はめご姫の父であり、天正7年冬の婚姻以来、9年目にしてはじめての対面であった。政宗はこのとき、23日には小手森攻めを開始すると清顕に述べたが、大雨だったので、24日に変更した。
そうこうしているうちに、小浜への会津・中通り・二本松の援軍が、小手森の近くへ援軍に来た。しかし小手森には大内定綱自身が籠城し、多くの人数が城内に籠もっているように見えたけれども、伊達勢が追い詰めても、敵からは一騎もあらわれることなく、かとって味方も、仕掛ける手段も無く、その日は退却した。敵勢の本陣に戦闘を仕掛けると、味方の兵がとって返し、合戦になったところ、会津・二本松の援軍が、城からの申し合わせがあったのか、両口からの戦いとなったが、援軍も、二本松衆は先陣であった。
そのさい、田村勢は東より動き、伊達勢は北から動いた。だが、その間に大山をへだて、田村勢は合戦にも出合わず、却って伊達勢の退却口となった。政宗は腰に付けてあった采配をとり、旗本と不断鉄砲隊5,600を連れ、自ら東の山沿いから押し切るように横向きに攻めかえると、敵は悉く敗北して砦へ逃げ込み、敵262人の首級を取った。より多くの兵を討ち取ろうとしたが、敵の要所である小口へは入ろうとせず、尻の南へ逃げようとする者達を襲った。二本松衆との合戦はまだだったので、反撃を食らうのを懸念してすぐに引き下がった。大内定綱もその夜に小浜に帰った。味方もその夜は5里ほど引き、陣をしいた。もしや深夜の襲撃もあるだろうかとおっしゃり、要所要所に物見を出したが、何事も無かった。
明くる25日にも、城攻めを行ったが、敵は出てくることがなく、会津から援軍がきたのだが、中久喜という山に陣をしいただけで、下へ進入してくることはなかった。城の中へつながる通路はあるようで、人の出入りはあるようだったが、集団としては出陣する様子はなくその日も何事も無く引き挙げ、敵地へ押し寄せ、野陣をしいた。
だが、味方の田村衆は大山を隔てていたので、まだ合流できなかった。翌26日にも戦闘をせよと命じても、応じなかった。なので、城の様子を見るために、鉄砲を撃ちかけてはどうかと片倉景綱が申し上げたところ、そうだと、砦へ向かって鉄砲を連発してうちかけたが、城の守りが堅固だったので、近くまで追い詰めたが、今度もまた野陣をしいた。
このような状態であったので、成実は「自分が城の南にある竹屋敷に陣場を移し、城の中の通路を遮断すれば、必ず城は落ちるだろう。成実が人を移すので、総軍を上げて攻めるのはどうでしょうか」と申し上げると、政宗は「竹屋敷へ移ったなら、敵の援軍が下ってきてそれを妨げようとするだろう。そしてそのときに城からも出陣してくる。両方面の合戦はどうだろうか(よくないのではないか)」とおっしゃった。成実が「たとえ両方面に対しての戦闘となっても、陣場を移していたら、田村勢と合流出来ることが一番よいことである。そのときに成実の陣場へ攻撃してきたとしても、そのときは田村衆と私にお任せ下さい。その他の控えている援軍が一団となって助勢してきたら、その軍勢は味方軍がで戦えば、ふさぎきれるでしょう。しかし、地形が難所であるので、合戦となったら非常に難しくなるでしょう。それというのも、一昨日砦へ(政宗の軍が)押し寄せたときも二本松衆は激しく応戦するかと思いましたが、場所が悪いとみたのか、ひきあげました」と申し上げたところ、原田旧拙(休雪)斎が「陣場を移すことは、くれぐれも謹むべきである。合戦も大事であるが、もう少し日にちをおいて敵の様子を見るべきである」と言った。いずれの者も、旧拙斎の言い分に理があると同意した。また陣の移動をするのもよいという者もいたが、その日は結局意見が分かれたのであった。

語句・地名など:

忠節(ちゅうせつ):本来は「忠義を守ろうとする気持ち」だが、成実は敵の「内応」「主君替え」などの意味でよく使用する。
采幣(さいはい)=采配:大将が指揮するときに持つ紙製の指示棒
芝見(しばみ):しのびの物見
小口・虎口(こぐち):城郭や陣営などの最も要所にあたる出入り口。城門などで升形をつくり、敵勢が一時に攻め込めないようにな仕掛けがしてあるところ
馭/連べを打つ(つるべをうつ):鉄砲を立て続けに撃つこと(釣瓶打ちは当て字)
差別(しゃべつ):区別/区切り

苅松田:伊達郡飯野町飯野刈松田
川股:伊達郡川俣町/川股地方を小手と称した
小手森:安達郡東和村針道小手森

感想:

大内家に仕えていた青木修理の内応工作についての記事です。
この証人替えのエピソードは普通に読んでいてもおもしろいですよね。
しかし最終的にこの青木家と大内家も両方政宗に気に入られるのが何故か不思議です。
家中で顔を合わせるのとか、気まずくなかったんでしょうか。戦国期ですから、そんなこと気にしない時代なのでしょうかね。

ところで、この話は次の記事に続くのですが…
次回のお話は
成実、政宗の許しを得ずに陣を移すの巻で〜す(笑)<サ○エさん予告風に。

成実ひでえ…(笑)。

*1:天正十三年

*2:盛宗

*3:宗実

*4:景隆

*5:宗時

*6:立子山

*7:田村

*8:天正七年冬の婚姻

*9:定綱