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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』9:政宗、田村領へ

9:政宗、田村領へ

原文

一 清顕公より政宗公へ仰遣され候。小浜は多人数に候。其上方々より引除候者共、小浜へ集候間、御働成られ候えども、思召の儘に在間敷間田村へ御廻り、備前抱の小城共を御取成られ然るべき由御理に付而九月廿二日に築飯を御立。田村の抱の地黒かこと申城へ御馬移され、廿三日は御休息成られ候。小浜に替衆候而人数引籠申すべき由小十郎を以申上に付て白石若狭・桜田右兵衛・片倉小十郎・我等四人は築飯に相残され候。

語句・地名など

黒かこ:黒籠

現代語訳

一、清顕から政宗へ仰せつかわされた。「小浜に味方するのは大勢であります。その上方々から退いてきた者たちが小浜へ集まっているので、戦闘になったとしても思うようにはならないので、田村へお寄りになり、大内定綱の抱えている小さな城どもをお取りになるのがよい」と仰ったのにあわせて、9月22日に築館を出発なさり、田村の抱えている土地である、黒籠というところへ移動され、23日はお休みなさいました。小浜に裏切ろうとする者がいるため、手勢を残すべきであるということを、片倉景綱を介して注進する者がいたので、白石若狭・桜田右兵衛・片倉小十郎と私の四人は築館に残されました。

『伊達日記』8:二本松境について

8:二本松境について

原文

一 二本松境へは今は御手切も御座なく候。実元分別には、会津仙道より四本松へ助候諸勢。田村は敵にて二本松領中打通申候。義継へ会津以下の衆疑心申され候様にと存ぜられ境をしずめ、跡々の如く、二本松よりも入魂の体候。其存分政宗公へは申上られ候へども、若輩故聞為、申されず候。此境事切候はば、弥以強成られ候間、申上事切無用の由我等に両度迄誓紙を致し為す。二本松境無事に仕られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、二本松の境目は、今は手切れもありませんでした。実元が治めているあいだは、会津・仙道から塩松へ援軍があり、田村は敵であったので、二本松領内を通っていました。二本松の畠山義継へ会津の衆が疑心をお持ちになったようであると思い、境目をしずめ、前のように、二本松からも親しくしておりました。
そのことを政宗へも申し上げられたのですが、私には若輩のため伝えられておりませんでした。
この境界で戦が起こるならば、手強いことになるだろうから、事切れはするべきではないという事を私に二度も誓紙を出させた。こうして二本松境は無事であった。

感想

ここは同じ内容のものが『政宗記』2-1にもあります。政宗と実元が成実に知らせず連絡をとっていたこと、手切れをするべきではないということについて実元・成実の親子間で誓紙を二度も出させていたことなど、少し意外なことがわかります。

『伊達日記』7:青木修理の証人替え

7:青木修理の証人替え

原文

一 築飯に御在馬の内、青木修理抱置候三人の者儀小浜へ内通に付、大内も人質返し候事無念に存ぜられ候へども、家老の者共の子を相捨候事も成らず候間、小瀬川と申処へ双方より罷出、御横目申請証人替仕候。

語句・地名など

現代語訳

一、築館にいらっしゃる間、青木修理が捕まえていた3人の者の事が小浜に伝わった。大内も人質を帰したことを無念に思ったけれども、家老の者たちの子を見捨てることもできなかったので、小瀬川というところへ双方から出て、政宗の目付の見ているところで、人質を交換いたしました。

『伊達日記』6:竹屋敷移陣と小手森攻め

6:竹屋敷移陣と小手森攻め

原文

一 廿七日昨日はまちまちにて落居申さず候へども、我等存分悪は之有る間敷と存。御意をも請けず、未明竹屋敷へ陣を移申候間、伊達上野介我等に引続陣を移申され候に付、惣陣を相詰べき由仰付られ、惣人数は備を立、夫兵は野陣を懸候処に内より一人罷出、我等陣所へ小旗を振招候間、人を越たずね候へども、石川勘解由と申者にて候。我等家中遠藤下野に会申度と申候間、下野に会なされ申候はば、勘解由申候は、此城に小野主水・荒井半内を始備前近奉公仕候者共数多籠申候。通路を切られ、落城程有間敷候間、城をわたし小浜へ罷除度候。此段たのみ候由申候に付、御前へ使を以て申上候へば、御弓矢のはか参候様にと思召候間相出されるべく候。去ながら小浜へは遣はされ間敷候。伊達の内へ罷除くべき候由御意候間、石川勘解由をよび出し、御意の通申候へば、伊達へ罷除候事は命乞に候間、備前切腹も程有間敷候間、腹の供を仕度候間、小浜へ遣わされ下され候様にと申に付、又其通申上候へば、是非小浜へ遣はされ間敷由御意に候間、遠藤下野門二重の内迄罷越申理候。勘解由本丸へ参御意の通申理候処に、御前より我等に御使下され、城内の者共こわき事を成られず候間、申度ままに申候。御攻成られるべく候。本丸迄は落申さず候共、城中の者共伊達へ引除申すべく候。早々惣手へ仰付られ候由御意に候間、是非に及ばず城へ取付候條、下野も漸内より罷出候。我等手より火付方々へ吹付候処に、何方よりも火を付押込候間、内の者共役所を離未刻より御責申の刻に落城申候。なで切と仰付られ、男女牛馬迄切捨、日暮候て、引上られ候。其夜は新城木こり山の敵城共に自焼仕引除候。廿八日未明に木こり山へ相渡され候由、御触御座候。各陣場取に参られ候間、我等も家中四五騎先へ越候処に馬上一騎築飯の方より参候て招候間、我等者乗向たずね候へば、服部源内と申者、我等本扶持仕候。四本松へ本居仕候者築飯も引除候間、早々追懸申すべき由申に付而押懸候へども早引、途から城へ乗入其由申上候へば、則築飯へ御馬を移され御休息成られ候。

語句・地名など

築飯とあるところは築館(福島県安達郡東和村木幡築館)

現代語訳

一、26日、昨日は意見がまちまちであったので、落城させることは出来なかったけれども、私は思っていることは悪いことではないと思った。ご命令を受けずに私が未明に竹屋敷へ陣を移したので、伊達上野介政景は私に引き続き陣を移されたので、政宗は総陣を以て詰めるとご命令になり、総軍は備えを立て、その兵は野陣をかけたところ、城の内から人がひとり出てきて、私の陣所へ小旗を振り呼んでいたので、人を送って訪ねたところ、石川勘解由という者であった。
私の家臣、遠藤下野に会いたいと行ったので、遠藤下野に会わせたところ、勘解由は「この城には小野主水・荒井半内をはじめ、大内備前に近侍している者たちが沢山籠もっております。通る道を切られ、落城するのは間違いないようになったので、城を渡し、小浜へ退きたく思います」と言った。この頼まれたので、政宗に使いを遣わして、申し上げたところ、戦というのはそういうものであるとお思いになったので、出城せよと仰せになった。しかしながら、小浜へ遣わされるのではなく、伊達のうちに退散するようにと仰ったので、石川勘解由を呼び出し、仰ったとおりに言った。伊達へしりぞくのであれば、命乞いであります。備前の切腹もそれほど先のことではないと思うので、切腹の供をしたく思いますので、どうか小浜へ送りくださいますようにと言うので、その通りに申し上げたところ、小浜へはおくるべきではないと思われたので、遠藤下野を二重の門の内まで引き入れ、申し付けなさった。勘解由は本丸へ参上すべきことを仰せられたので、政宗は私に使いを下され、城内の者たちは弱いということを言いたいように申し上げ、お攻めなさるように。本丸までは落とせずとも、城の者たちを伊達へ退けるべきだと言いました。早く総攻めをするべきですと言ったところ、同意なされ、仕方なく城へ攻めかかったところ、遠藤下野がやっと城から出てきたのです。私の手のものから火を付け、方々へ吹き付けていると、すべてのところから火を付け押し込んだので、籠城していた者たちは見張るべき所から逃げ、未の刻から攻め、申の刻には落城した。
政宗は撫で切りにせよと仰ったので、男女・牛馬まで切り捨て、日が暮れたので引き上げられた。
その夜は新城の樵山の敵の城も同じく自ら焼き、退却した。
28日の未明に樵山へ行かれることをお触れなさった。
みな陣場を取りにきたので、私も家臣を4,5騎先へ送ったところ、馬に乗った騎馬武者が一人築館の所から来て、呼んだので、私の家臣が乗り向かって聞くと、服部源内という、私の家臣の者であった。塩松にいた者たちは築館からも退き、早く追い掛けるべきであると言うので、押しかけたが、彼らは早く退き、途中から城へ入城し、そのことを申し上げたところ政宗はすぐに築館へお移りになり、お休みになった。

『伊達日記』5:青木修理の内応

5:青木修理の内応

原文

一 同年七月初に米沢へ我等使を上申候て、猪苗代の義相違仕迷惑に存候。会津に御敵は御座無く候間、大内備前を御退治成られ然るべき候。御尤に思召候はば、大内家中に一両人も御奉公仕候様に申し合わすべき由申上候処に、会津へ御敵はなく、御入馬候間、四本松へ御出馬と思召され候。御奉公の者候へば、猶以然るべき候間、早々こしらへ申すべき由御意に候間、我等家中本四本松より罷出候者、大内蔵人・石井源四郎を申付、かり松田の城主青木修理所へ申遣候へば、合点申候間、知行をのぞみに御判形申請越申候。備前田村境の城主よりは久敷人質取置申され候。今度は彌四本松の城主と人質とり申され候に付、青木修理も新八郎と申十六に成候弟に、此比の青木掃部、其比は五つに成子を指添、小浜へ人質相渡され申候。修理存候は、米沢へ御奉公申し候ば彼人質共相捨申すべき儀難儀に候間、証人替申すべきと存。備前家老の子中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内九郎吉三人へ状を越。唯今追鳥時分にて候間、罷越候へと申に付、何も若者共にて以後の分別もなく、八月五日の晩、苅松田へ罷越。六日の朝追鳥二十四五取料理仕。夜半時分迄大酒仕候。修理いずれも御酒過ぎ候間、過もなき様に刀脇指を渡され候へとて無理に取長持へ入置候。三人共に酒に酔伏候て夜を明候。修理は下戸、其上底意候間、酒にも酔わず。くっきゃうの者十人計具足をきせ、三人伏申候処へ押懸起候て、備前殿にうらみ候間、米沢へ御奉公申候。御存知の如く、弟新八郎子共二人小浜へ人質に置申候間、証人人替に申度候間、命の儀は気遣有間敷候由申理候。三人の者共、刀脇指は取られ、何共仕るべき様之無く候。ほだしを討たれ、かり松田に居申候う。其日小浜に向火の手を上事切仕候て我等所へ注進申候間、則米沢へ飛脚を以申上候。御出馬迄遅由御意成られ、小梁川ていはん・白石若狭・原田左馬助・浜田伊豆遣わされ候條、我も四人の衆同心にてかり松田近所舘野に在陣申させ、我等は立小山に在陣仕候。十二日政宗公福島へ御出馬成られ、青木修理に我等使を添福島へ参られ、御目見え仕候処一*1、今度の御奉公御大慶の由、御意成られ御腰物下され候。四本松を絵図に仕指上申すべき由に候間、絵書を遣わされ候間、大形仕差上げ申候へば、御覧成られ、かり松田近所より御働成られるべく候由、思し召され候処に田村より遠候。此度は清顕公より御同陣なられるべき由仰合わされ候間、小手森へ御働成られるべき由御意候て川俣へ御馬を移され、清顕公とわらい平と申所にて御対面成られ候。廿三日には大雨にて相延、廿四日に小手森へ御働候処に、会津仙道二本松を助勢小手森近所迄助来。小手森へは大内自身籠城中堅固に見え候。近々と御働候へども内より一人も出ず。城中多人数に見え候間、此方より取懸らるべき様もなく、打上られ候所に、後陣へ城中より仕懸候間、惣勢打ち返され、合戦御座候。二本松衆先手にて、会津勢も助合候。田村は東より押し寄せられ候処に、大山隔合戦に会い申さず候。然処に政宗公御旗本御不断鉄炮五百挺程召連られ、原の山添より押切候様に横合に御懸候間、城中より出候人数敗北候條、一やらいへ押入、五十余打取候。虎口へ入らず、南へ逃候者追懸候へども、二本松衆合戦候処にて長追然るべからず候由にて打上られ候。大内其夜は小浜へ帰申され候。味方も五里程引上御野陣成られ候。夜懸も之無く、廿五日に御働候へども、城中より一人も出でず、会津衆もなかくきと申処に備を立何事もなく打上らる。御野陣少御寄成られ候。左候へども田村衆と成合候事ならず候。廿六日、又御働候へども、内より出申さず候。小十郎鉄炮を御懸然るべき由申上候に付、七八百挺程内のやらいへ御懸成られ候へども、城中堅固に候間、打上られ、又御野陣少御寄候迄に候。我等申上候は、今日は南の竹屋敷へ陣の通路を切申すべく候間、惣体を相詰められ然るべき由申上候はば、左候はば助勢打下さまたげべく候。城中よりも出るべく候間、両口の合戦如何在るべき由御意に候。又申上候は、竹屋敷へ陣をうつし候はば、田村衆と成合申候間、城中より打出申候敵をば田村衆と我等にまかさるるべく候。助勢をば惣人数を以御合戦候はば、両口に成候とも御気遣在間敷候。地形難所候間、総勢も合戦容易はあらる間敷候。一昨日も城中へ押込れ候に、二本松衆其気遣か引上申さる由申候へば、原田休雪申され候はば、御戦大事に候間、日数を以後は左様に然るべき由申され候。半分我等に同意。半分休雪に同意候て其日落居申さず、打上られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、同天正13年7月はじめに、米沢へ私の使いを送り、猪苗代の人質の事について相違があり、大変困ると思い、会津に敵はいらっしゃらないので、大内備前定綱を退治なされるのがよいと申し上げました。
もっともだと思われたのでしたら、大内家中に数人こちらに奉公するように約束を交わすべきであるということを申し上げたところ、会津は敵はおらず、城に入ることができるので、塩松へ出馬しようと思われたのです。
内応する者がいるのならば、よりいっそうそうであるべきなので、早く内応の策略をするべきだとお思いだったので、私の家臣のなかで、元塩松の出身の大内蔵人・石井源四郎を申し付けて、刈松田の城青木修理のところへ使いを送ったところ、承知する、望む知行について書状を送っていただきたいと言ってきました。
大内備前定綱は田村との境の城主から、長年人質をとっていました。今回はさらに塩松の城主と人質を取っているため、青木修理も新八郎という16になる弟(いまは青木掃部と名乗っている)と、その頃は5歳になる子を一緒にして小浜の大内定綱のところへ人質を渡していたのです。
修理は、米沢の政宗へ奉公をするのであれば、人質たちは見捨てなければならないことは困ると思っていたので、証人の取り替えをしようと思った。
大内定綱の家老の子に中沢九郎四郎・大河内九郎吉という三人に書状を送った。今は追鳥狩にちょうどいい時期であるので、お越しくださいと書状に書いたところ、いずれも若者であるので、たいした分別もなく、8月5日の夜、苅松田へやってきた。6日の朝、追鳥狩をし、24,5を取り、料理をした。夜中まで大酒を飲んだ。修理は「みな酒を飲み酔っ払っているので、間違いがないように刀と脇指をお渡しください」と言って無理に取り上げ、長持ちへ入れました。三人ともに酒に酔い、突っ伏して夜を明かしました。修理は下戸であり、その上策略があったので、酒には酔わなかった。屈強の者10人程に具足を着せて、3人が伏せているところへ押しかけ、起きたところに、「備前に恨みがあるので、米沢へ奉公することにします。御存知のように、弟新八郎と子の2人を小浜に人質としておいておりますので、人質の取り替えをしたく思います。なので命のことは心配しなくてもよい」ということをいった。3人の者たちは刀・脇指は取られ、何もすることができない様子であった。枷をつけられ、刈松田に移された。
その日、小浜に向かって火の手を上げ、手切れをしたので、私のところへ連絡してきたので、すぐに米沢の政宗の所へ飛脚を送り、申し上げた。政宗が出馬するまで待つのは遅いと思われ、小梁川泥蟠斎・白石若狭・原田左馬助・浜田伊豆を使わされたので、私も四人と一緒に刈松田の近く舘野*2に在陣させ、私は立子山に在陣しました。
12日政宗公は福島へ出馬なされ、青木修理に私の使いを付き添わせて福島へ来させ、御目見得されました。今回の内応を大変お喜びになり、刀をお与えになった。
塩松の絵図を作るようにと仰せになったので、絵図を遣わしたところ、だいたいのところを送り申し上げたところ、御覧になり、刈松田の近所から動くべきとお思いになっているところに、遠く田村より知らせがありました。
今回は清顕公から同陣なされるようにと言い合わせておられたので、小手森へ仕掛けるべきであるとお思いに成り、川俣へ動かれ、清顕公と蕨ケ平というところでご対面なされました。
23日は大雨であったので延期になり、24日に小手森へ戦闘を仕掛けられたところ、会津の・仙道・二本松の援軍が小手森の近所まで来ていた。
小手森には大内定綱自身が籠城しており、堅く守っているように見えた。近くに軍を動かしてみたけれども中からだれも出てこなかった。城には多く人がいるようであったので、こちらから取りかかる方法もなく、切り上げなさったところに、うしろの陣に城から仕掛けてきたので、総軍を持って打ち返し、合戦となったのでございます。
二本松衆が先陣で、会津勢も助けに来ました。田村は東から押しよされているところに、大きな山を隔て、合戦に合わなかったのです。
そこへ政宗の旗本の鉄砲衆を500挺を引き連れ、原の山添いから押しきられたところに、横からお攻めになったので、城から出てきた手勢は敗北し、いちの矢来まで押し寄せ、50余りを討ち取った。城の虎口へ入らず、南へ逃げた者を追い掛けたのだが、二本松衆との合戦があったので、深追いはするべきではないという理由で、打ち切られた。
大内定綱はその夜小浜へ帰ったのです。味方も五里ほど引き上げ、野陣を引かれたのです。夜襲もなく、25日に戦闘をしかけたけれども、城中から一人も出てこず、会津からの軍勢も、中久喜というところに備えをしき、何事もせず打ち上げなさった。野陣を少し寄せられたのだが、田村の衆と合流することができなかった。
26日また戦闘を仕掛けたけれども、中からは出てこなかった。片倉景綱が鉄砲をしかけては如何でしょうかと申し上げたので、7,800挺程、内側の砦に向かって打ちかけたのだが、城は堅く守られたため、切り上げ、また野陣を少し寄せられただけに終わった。
私が「今日は南の竹屋敷へ陣の通路を切るようにしたらよいのではないかと思うので、総勢を詰められてはどうか」と申し上げたら、「そうしたら、敵の援軍が下がってきて、妨げとなるであろう、城からも軍勢がでてくるだろうから、両方面と戦をするのはどうだろうか」と仰った。
また私が「竹屋敷へ陣を移したら、田村衆と合流出来るので、城中から出てきた敵を、田村衆と私にお任せ下さるといい。援軍を総軍を以て合戦なされば、たとえ両方面の戦となっても、ご心配はない。地形が難しいので、総軍も合戦は簡単ではないでしょう。一昨日も城の中に押し込んだときに、二本松衆は引き上げるでしょう」という事を言ったところ、原田休雪斎が「戦は大事にございますが、日数をかけたほうがよいでしょう」と申し上げた。半分は私に同意し、半分は休雪斎に同意したので、その日は落とさず、切り上げたのです。

*1:二か

*2:『政宗記』では「飯野」

2018夏南相馬亘理

成実生誕450年企画!
南相馬での展示と亘理の展示に行って参りました!
しかも日帰りです!(血反吐)
仙台からはいつもお世話になっているTさんがご一緒して下さいました!(≧∀≦)

8月12日


朝イチの新幹線で、東京から仙台へ。仙台着いたのが7時半過ぎ。8時に待ち合わせ、13分の列車に乗って南相馬へ!!揺られること一時間半…着いた!原ノ町駅!


駅からして野馬追の雰囲気満載です。


駅にこんな展示室がありまして、鎧や甲冑体験ができます。





さあそして20分くらいかけて南相馬市博物館へ!少し雨降ってましたが、傘が要らないくらいの霧雨。ポスター、バーン!!(≧∀≦)


野馬追模型。大迫力!!


ばばーん!!


右から!!


斜め後ろから!!


後ろから!!
写真撮影OK、ブログ等のアップもOKということで、upします!
背中側みたの初めてでした〜。




そして亘理伊達家の当主が作らせた野馬追の屏風。非常に細かくかかれていまして、この絵師さんもすごかっただろうなあ〜。


肖像画(の複製)!!


にじり寄って!! 今後自分の好きな武将の顔きかれたらこの画像を見せたいと思います…ww


さようなら…名残惜しい…


ここまで来たんだから亘理で海産物食べよう!!ということで田園へ!!(≧∀≦)
海鮮丼美味しかったです!Tさんは奮発してお寿司食ってたけどめちゃ美味しそうでした。


次はここです! 亘理伊達家の資料。普段は見られない書状の公開とのことで行ってきました!!


ここでは写真は許されていないので、幟撮る。ほしいなあこれ。


御霊屋御開帳も本当は行きたかったんですよ…あとで行かれたみなさんのレポ見て歯ぎしりした…行けば良かった…。


悠里館でもらえました。お祭りも花火もすごかったんですよね〜うらやましい…


牛タン食べる暇なかったのでフレンチトーストずんだ付き。わさびにしか見えないものがずんだです。

ここで展示されていた3枚の成実宛書状について、武水しぎのさんがサイト成実三昧で書き写しておられました。ありがとうございます!!
年未詳3月18日伊達成実書状
年未詳4月5日伊達成実書状
年未詳1月6日伊達成実書状
興味深いのが牛坂宛書状の追伸。
快案が処方した薬が効かない、痛みがとれないと愚痴っている成実。一体何歳の頃なんでしょうか。脚気ではないかと思っているとか、意外な表現が出てきます。
こういう書状もっとたくさんあるんですかね。見てみたいものです。