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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』15:輝宗生害事件

15:輝宗生害事件

原文

一 六日の晩。輝宗公政宗公之御陣屋へ御出、御台所へ家老衆召寄られ義継御侘言の様子御相談成られ候。我等若輩に御座候へども、此使い我等親仕候に付、義継への御使仕るべき由輝宗公仰付られ候。ケ様の大事の御使如何の由色々申上候へ共、頻に御意に候間、是非に及ばず、御意任せ候。義継我等を以て跡々如く、南成共北成とも一方指添られ、下され候様にと仰られ候へども、罷成らず候に付、重て家中共を本の知行高にて召仕られ候事。不便の由仰上られ候へども、それも罷成らず候間、此元へ伺公申候上は切腹を仕候と覚悟仕候。何分にも御意次第之由仰上られ相済候。義継身上相済恙候間、御目見え仕度仰られ候間、其通申上候処に、尤御会成られるべく候由御意にて、義継我等陣場へ七日ノ八つ時分御出、彼是時刻移蝋燭立候而会御申成られ、宮森へ御帰候。八日早天に義継従我等所へ御使預宮森へ参るべく候。輝宗公御かせぎを以て相済候。御礼をも申上度候。又見舞も申度所存数多候間、相済罷帰子共を米沢へ登らせ候。支度も申度由仰られ候間、輝宗公御陣所へ参候。伊達上野其外家老数多宮森へ参られ、二本松迄落居目出度由輝宗へ申上られ候。義継我等へ仰られ候は、輝宗公へ参忝義申度由に候間、其通申上候処に、早々御出候様にと、御意に候付、義継輝宗公御陣所へ御出候。供ノ衆に高林内膳、鹿子田和泉、大槻中務三人御座敷へ召出され候。和泉参時義継へ耳付に何をか申候て座敷になおり候。輝宗公御下に上野も我等も居申候。何も御雑談もなく御立候。御門送に御立候。内にて御礼成られ候。其左右には御内衆居組候えへ捕申事もならず候哉。表の庭迄御門送に御出候に、両方竹から垣にて御脇を通るべき様も之無し。つまり候処にて御礼成られ候。義継手を地に突、今度色々御馳走過分に候処に、我等を生害成られるべき由承候由にて、輝宗公の御胸の召物を左の手にてとらへ、右にて脇指御抜候。兼て申合候哉、義継供の衆近居候者共七八人御後に廻り、上野も我等も御先へ通らず、御後に居申候。間を押隔引立候間、仕るべき様も之無。門を立候へと呼候へ共、立会申さず候間、御跡をしたひ参候。小浜より出候衆は武具に早打仕候。宮森より出候衆は武具も着合わず、多分すはだにてあきれたる体にて取巻申、高田と申所迄十里余参候。政宗公は御高野へ御出成られ、聞召され、御帰候。二本松衆半沢源内月館*1持候。遊佐孫九郎弓を持候。其外抜刀にて輝宗公を取籠参候。然所に取巻参候味方の内より鉄砲一つ打候に付、誰下知ともなく惣勢懸り、二本松衆五拾人余一人も残らず打殺候。輝宗公も御生害成られ、政宗公も其夜は高田へ御出馬成られ候。家老衆先小浜へ御引返、吉日を以て御責然るべき由申上られ候に付、九日未明に小浜へ御帰成られ、輝宗公御遺骸其夜小浜へ御供仕り、九日に長井資福寺へ送奉候。御葬体の砌遠藤山城内馬場七右衛門追腹仕候。須田伯耆も百里隔候在所にて追腹仕候。八日晩義継死骸方々切放候を求出し、藤を以てつらね小浜町外に張付に御かけ候。義継抱の地本宮、玉ノ井、渋川、八日の晩二本松へ引除、米沢へ人質成られるべき由仰せられ候。十二に御成候国王殿と申子息を譜代衆守立、義継いとこ新城弾正と申兼て覚えの者主に成籠城仕候。

語句・地名など

現代語訳

10月6日の晩、輝宗公が政宗公の陣屋へ来られ、御台所へ家老衆を呼び出され、義継の訴えの様子をご相談なられました。
私は若輩であったのですが、この使いは私の親がしたことであったので、義継への使いをするようにと輝宗公に仰せ付けられました。このような大切なことの使いはどうだろうかといろいろ申し上げましたが、何度も言われたので、仕方なく言われるとおりにしました。
義継は私を介して昔のように、南か北おどちらか一方でも領地をそのまま与えてくださるようにと仰ったのですが、それはならないということなので、次は家中の者たちを元の知行高で召し使えてくださらないかと言ってきたのですが、それもならないということなので、こちらへ伺いもうしあげるのは、切腹をしようと覚悟しておりました。なにごとも御意志次第であることを仰り、その場は終わりました。
義継の身代の話がつつがなく済んだので、御目見得したいと仰せになったので、その通り申し上げると、お会いしようといわれたので、義継は私の陣場へ7日の八どきに来られた。かれこれ時間はたち、蝋燭をたてる時間になったが、お会いになり、輝宗は宮森へお帰りになった。8日早くに義継から私のところへ使いが来て、宮森へ参りたいと言ってきた。輝宗公のご尽力でうまく片付いたので、お礼を申し上げたい、また見舞いもしたいと何度も行ってきたので、すべて済み、帰って子どもを米沢へのぼらせる支度もしたいと仰ったので、輝宗公の陣所へ参上した。伊達上野政景そのほか家の家老たちが多く宮森に参っていて、二本松が落ちたことをめでたいと輝宗に申し上げていた。
義継が私に仰ったのは、輝宗公の前に参上し、忝いということを言いたいというので、その通り輝宗に申し上げたところ、早くくるようにと仰せになったので、義継は輝宗の陣所へお越しになった。ともとして高林内膳・鹿子田和泉・大槻中務の三人が座敷へ呼ばれた。和泉が参上したとき、義継に耳をつけ、何事かを言って座敷に座り直した。輝宗公の下座に政景も私もいました。
とくに雑談もなく、出発することになり、門まで送るとお立ちになりました。陣所の中でお礼され、その左右には身内衆がかためて、捕らえることもできなかったのではないだろうか。
表の庭まで見送りに出られたところ、両方竹垣があり、脇を通るすきまも無かった。つまっているところでお礼なされた。義継は手を地につけ、「今回は過分に馳走していただいたところ、私を殺そうとしているということを聞いた」と言って、輝宗公の着物の胸のところを左の手にて捕らえ、右手で脇指を抜いた。まえから申し合わせていたのあろうか、義継のともの者は近くに居り、7,8人が後ろに回り、政景も私も先に通ることができず、後ろにいた。
彼らはあいだを開けようとしたが、するべきこともなく、門を閉めろと声をかけたが、占めることができなかったので、あとをおいかけたのです。
小浜より出ていた衆は武具を持ち、早くかけることができたが、宮森からでてきた者たちは武具も着ず、ほとんどが何も持たず、あきれるほどなにもできない様子で、まわりを取りまいて、高田というところまで10里あまりついていった。
政宗公は鷹野に出られていたが、このことを聞かれ、お戻りになった。
二本松衆の半沢源内は月剣を持ち、遊佐孫九郎は弓を持っていました。そのほか抜刀した者たちで輝宗公を取り囲んでおりました。そのときに取り巻いていた味方の中から鉄砲がひとつ打ちかけられ、誰が下知するでもなく総勢で戦闘が始まり、二本松衆50人あまり、一人も残さず打ち殺しました。輝宗公も殺され、政宗公もその夜は高田にお移りになった。
家老衆が、まず小浜へ引き返し、吉日にて攻めるべきであると申し上げたので、9日未明に小浜へ帰られ、輝宗公之御遺骸はその夜小浜へお連れし、9日に長井の資福寺へ送り申し上げた。葬送のとき、遠藤山城・内馬場七右衛門が追い腹をした。須田伯耆も100里隔てた自分の領地で追い腹をした。8日の晩、義継の死骸をあちこち切り離していたのを見つけ出し、藤でつなげて小浜の町の外に磔になさいました。
義継が治めていた土地のうち、本宮・玉ノ井・渋川は8日の晩に二本松へ退き、米沢へ人質を送るよう仰せられていた、12になる国王という子息を譜代衆が盛り立て、義継のいとこの新城弾正というかねてから覚えている者が城主になり、籠城したのです。

感想

輝宗生害事件いわゆる粟之巣事変の顛末です。
政宗がいつ戻ったか、乱戦になったきっかけの鉄砲の一発など、『政宗記』とは微妙に表現が違い、興味深い記事です。

*1:『政宗記』では月剣

『伊達日記』14:畠山義継との交渉

14:畠山義継との交渉

原文

一 廿六日政宗公小浜之城へ御馬移され候処に、二本松義継より実元所へ代々伊達を頼入身上相立候へども、会津・佐竹・岩城より田村へ近年御弓矢に候。我等も清顕公へ御恨候て会津佐竹へ一味仕候。去乍銘々首尾を存、輝宗公相馬へ御弓矢之時分、両度御陣へ参御奉公仕候間、身上別義無、相立下され候様にと仰遣され候付、実元より右之通輝宗公へ申上られ候。政宗公仰せられ候は、相馬御弓矢に御一味も御覚え候。去乍今度大内と一味にて小手森にても先手致され、をうはの内へも勢を籠候て合戦に及び候。在方大内同前の敵に候間、御勝負仕られるべき義仰招かれ候。然りと雖も、種々御侘言に付、左候はば南は杉田川切、北はゆい川切に明渡され、中五ヶ村にて相立られるべく候。其上子息を人質に米沢へ遣わされるべく候由仰渡され候。義継重て仰せられ候は、南成共北成とも一方召上られ、下さる候様にと御侘言候へども、罷成らず候に付、十月六日に輝宗公御陣所宮森へ義継不図御陣参候。

語句・地名など

ゆい川:結川・油井川

現代語訳

一、26日政宗公が小浜の城へ移動なさったところ、二本松の畠山義継から実元の所へ「代々伊達を頼り、家名を続けて居たのだけれども、近年会津・佐竹・岩城が田村と敵対することになった。
私たちも清顕に恨みがあり、会津・佐竹へ味方するようになった」と言った。しかしながら、それぞれ首尾を考え、輝宗公が相馬に戦を仕掛けていた頃、二度陣へ参り、奉公をしたので、家名には問題はなく、続けさせるようにと仰せ遣わされたため、実元からこのように輝宗へ申し上げた。
政宗公は「相馬の戦の時に味方したのも覚えている。
しかしながら、今回大内に味方して、小手森攻めにも先陣にされ、大波内へも手勢を籠城させて合戦に及んだ。ある意味大内と同じように敵であるので、勝負するべきつもりであると仰せになった。
しかしながら、いろいろと侘び言をいうため、そうであるならば、南は杉田川、北は油井川を区切りとして、明け渡し、中の5ケ村にて家名を続けるように、また子息を人質として米沢へ送るようということを言い渡されたのであった。
義継は重ねて「南であっても北であってもどちらか一方を召し上げて、残りはくださいますよう」と侘び言を言ったのだけれども、政宗は許さず、10月6日に義継は輝宗公の陣所宮森へ不意に参上したのです。

『伊達日記』13:小浜自焼

13:小浜自焼

原文

一 小浜にて助勢共、岩津野を取られ候は、引除候事成間敷由相談申さる。会津衆備前へ申され候は、今日政宗公岩津野を召廻し御覧候ば彼城を御取在るべき由思召され候と見え申候。彼城を取申され候はば、何も引除候事成間敷候間、今夜引除然るべく候。会津にて松本図書跡明申候間、彼地を下され会津の宿老に成られ候様に申上べく候間、罷除かれ、尤の由異見申され候。中目式部太輔・平田尾張を以頻に催促申され候間、大内備前も通路を大事に存ぜられ、抱の城の小浜迄残らず其夜二本松へ引除候間、四本松の分は御手に入申候。

語句・地名など

岩津野:岩角

現代語訳

一、小浜に於いて加勢の者たちは岩角をとられたなら退くことはならないということを話し合った。会津衆は備前定綱に「今日政宗が岩角を乗り回し御覧になったならば、彼の城を取るべきことを思われると思う」と言った。
彼の城を取るならば、だれも退却することは出来なくなるだろうから、今夜退却するべきである。
会津に於いて松田図書がその後顕紙して申し上げたのは、この地をくだされ会津の宿老になったように申し上げた。退出し、もっともである意見を言った。中目式部・平尾尾張を介してしきりに催促したので、大内備前を通路が通れなくなるのを大事に思い、支配化においていた小浜の城まで、残らずその夜二本松へ退いたので、塩松の領地はすべて政宗のものとなったのです。

『伊達日記』12:岩角への移動

12:岩角への移動

原文

一 廿五日岩津野へ御出馬成られ、地形を御覧成られ、近陣か御責候か、彼城を御取候へども、兎角敵二本松へ通路不自由に罷成候間、明日御陣を相移さるべき由御評定、先黒かこへ御入馬成られ候。 

語句・地名など

現代語訳

一、25日政宗は岩角へ馬をだされ、地形を御覧になり、近陣にするか、城攻めをなさるか、この城を取られるのであれば、小浜より二本松への通路は不自由になるので、明日陣を移すべきであることを話し合いでおきめになり、まず黒籠へ入られたのです。

『伊達日記』11:4人の移動

11:4人の移動

原文

一 築飯に残置かれ候四人の衆も、小瀬川と申処へ働候処に、政宗公御働遅候処に、小十郎漸二百計の手前の者にて、小浜近所迄参候。小浜の人数に押立られ、小瀬川迄五里計逃懸り候。四手の衆川を越合戦御座候。小浜衆五六百騎参候へども、政宗公御働を気遣候哉早々引上申候。味方は無勢に候間、押添申事も罷り成らず、双方へ頭十計づつ取申候。

語句・地名など

現代語訳

築館に残された四人の衆も、小瀬川というところへ戦闘をしかけたところ、政宗の動きが遅かったので、小十郎はようやく200ばかりの手勢を持つだけであったので、小浜の近所まで参上した。
小浜の手勢に押され、小瀬川まで5里程にげかかった。
四手の衆は川を越え、合戦となった。小浜の衆は、5,600騎いたのだが、政宗の出陣を心配したのか、早々と引き上げた。味方は無勢であったので、襲うことも出来ず、双方へ首10ばかりずつ引き取ったのです。

『伊達日記』10:9月24日攻撃

10:9月24日攻撃

原文

一 廿四日をうはの内と申城へ御働候処に、彼地二本松衆助入候。少の内より人数を出し、合戦候へども、強も罷り成らず候。物別仕黒かこへ打上候。

語句・地名など

をうはの内:大波内

現代語訳

一、24日、大波内という城をお攻めになったところ、この地の二本松衆が援軍に来た。少ない内から手勢をだし、合戦となったのだが、強く攻めたが、落とすことはできなかった。物別れし、黒籠へ引き上げなさった。