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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

あけましておめでとうございます

もう5日ですが、皆様如何お過ごしでしょうか。
昨年は政宗公に続き、成実公生誕450年ということでいろいろなイベントに参加することができ、大変たのしい一年でした。今年も楽しく歴史オタク生活を送っていければと思います。
今年もよろしくお願い致します。

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亘理の海から登る朝日を眺めて(注:初日の出ではありません)
更新履歴の2018年分を履歴にいれましたが、2018年はがんばってましたね…一昨年が酷かったのか。

本年中はお世話になりました

今年は成実公生誕450年ということで、いろいろなイベントが各地でありまして、花火やお祭りなど参加できないものもありましたが、北海道伊達市での能『摺上』の上演、南相馬での展示、亘理の展示と回ることが出来、とても楽しい一年を過ごせました。貴重なものが見られたり、意外な記述を見つけたり。
また来年も、できたら再来年も、しばらくの間は伊達伊達言っていることと思います。
今年は昨年に比べると文字打ちや現代語訳も進めることができまして、来年もこんな感じで続けていければと思います。
ではもうあと少しですが、よいお年を。

『伊達日記』44:定綱の御目見得

『伊達日記』44:定綱の御目見得

原文

同年三月廿三日玉の井の合戦過帰候処に。大内備前。片平助右衛門罷出られ候を相待べき由申され候。片倉小十郎二本松に逗留申され候処に。かち内弾正申大内備前甥。小十郎所へまいり候而。備前今夜本宮へ参られ候。明日は助右衛門事切申すべき由申に付。小十郎同心本宮へ罷越。備前に六日の朝会申候所に備前申され候は。助右衛門も御奉公仕るべき由堅申合候処に。少の儀出来兄弟間に罷成。我等に腹を切らすべき由申に付而漸罷除候而参候由申候。惣別助右衛門は御奉公仕間敷覚悟にて候て。備前身上の為ばかりを以御奉公とは申され候哉。大内参られ候上は助右衛門も御奉公仕られ候か。唯には在間じく候。兄弟の分別ちがいに候小十郎と両人の噂を申候。大内罷出られ候に。無人数成共一働申さず候而は如何に候間。阿子島へ働申候へども内より一人も罷出ず候。此方よりも仕るべき様之無く引上。翌日又働申候処に。塩の松の内に居候石川弾正相馬へ注進仕。白石の知行の内へ事切れ仕火の手見へ候間。白石はかへり申され候。我等小十郎ばかり働き候へども何事なく打上候。小十郎は八日に大森へかへり申され候。備前米沢へまいり御目見え申度由申され候條。我等家中遠藤駿河と申者指添米沢へ相登らせしめ候。

語句・地名など

現代語訳

同天正16年3月23日玉の井の合戦が終わり、帰ってきたところに、大内備前定綱と片平助右衛門親綱がくるのを待つようにといわれたので、片倉小十郎景綱が二本松に逗留していたところ、鍛冶内弾正という、定綱の甥が、小十郎の所へやってきて、定綱は今夜本宮へ来る。明日は親綱が会津と手切れをすると言ったので、小十郎を連れて本宮へ行きました。6日の朝定綱に会ったときに定綱が言うには「親綱も内応することは堅く約束していたのだが、少し兄弟の間で問答になった。私に腹を切らせようと言った野で、急いで逃げてきたのですと言った。親綱は内応しない覚悟で、定綱の身だけを以て奉公すると言った野でしょうか。定綱が来たのですから、親綱も奉公することでしょう。ただ今はできないと言った。兄弟の考えの違いについて、小十郎と二人の噂を話した。
定綱が出てくるのに、手勢がないとしても、一働きもしないのはどうだろうかと思ったので、安子ヶ島へ働いたのだが、うちからひとりも出てこなかった。こちらからするべきことがなくなったので、引き上げた。
翌日また出陣したところ、塩松のうちに居た石川弾正が相馬へ知らせた。白石の領地のうちへ戦闘を仕掛け、火の手が上がった様子だったので、白石宗実は帰った。私と小十郎だけが動いたけれども、何事も無く、切り上げた。小十郎は8日に大森へ帰った。定綱は米沢へ来て、御目見得したいと言ったので私の家臣の遠藤駿河という者を付けて米沢へ行かせた。

感想

定綱と親綱の間に兄弟で問答になり、まず定綱が伊達に奉公するようになりました。

『伊達日記』43:高玉太郎左衛門の戦い

『伊達日記』43:高玉太郎左衛門の戦い

原文

天正十六年三月一二三日頃我等抱の地玉の井高玉より山ぎはに付て西原と申候。四五里玉の井よりへだたり候所へはいくまを越候処に。玉の井の者ども無調儀に遠追候間。又草を入罷出候を見申候て押切を置討取たくみを仕。三月廿三日に玉の井近所に高玉に山路御座候。矢沢と申処へ草を仕るべき由相談候。其砌迄は大内片平御奉公には究候へども。味方への事切は申されず候時に候間。片平阿子島の人数高玉へ廿二の晩相談候。兼て敵地に申合。草入候はば告申すべき由候に付而指置候者。廿二日晩本宮へ参り候而今夜玉の井へ草入候由告申に付て。我等もまかり出本宮玉の井人数を以て廿三日朝車さかしを申候処に草も参らぬよし。いつはりに候哉と申引除候処に。昼はいに二三十人玉の井近辺迄まいり候間出合候。二三十の者ども引上候間。たいと渡と申所にて追付合戦仕候。前日遠は出申候にならい。矢沢の小森のかけに人数二百ほど隠れ。押切にあてがい申合戦初申候所より引懸申すべき由存候哉。敵そろそろと除口に成候。玉の井の者共敵の足とあしく存候而強懸候間。敵崩候間足並を出し除候。押切のもの共待兼候而早出候間。切られず候へども味方崩。合戦の初には川柳押付られ候間二三人打たれ候処に。味方川にて相返高玉太郎左右衛門両陣間を乗候処に。志賀三郎と申もの我等歩小姓兼て鉄炮を能うち申候が。川柳に鉄炮を打かけ相待候処に。太郎左衛門小川を隔横に乗返候処を二つ玉にて打候間。一の玉は馬の方のもみ合に当。一つの玉は太郎左衛門臑にあたり候。馬倒候間。某に味方きをひかかり候間敵方引除候。太田主膳と申もの大功の者後殿を仕候間敵もくずれ申さず候が。小坂迄乗上候処を三郎上矢に打候間。鞍の後輪を打欠犬子所へ打出候。主膳うつむきに成其身の小旗を抜き弟采女にささせ。我等除候はば必大崩申すべく候間。我等に成かはり後殿仕物別させ候へと申付。引除候而頓而越度申。此草調儀は高玉太郎左衛門。太田主膳物主にて仕候間。両人除候間則崩追討に首百五拾三取申候。大勢打申べく候へども山合にて地形あしくちりぢりに逃申候條少打申候。其夜宿へ帰らぬ者も候由後承候。右の頭の鼻を欠米沢へ上申候。

語句・地名など

現代語訳

天正16年3月12,3日ごろ、私が支配していた玉の井、高玉より山際に西原というところがあった。そこは玉の井から4,5里離れていたのだが、はいくまを越えたところに、玉の井の者太刀は調儀することなく、遠くへ追いすぎたので、また草を入れ、出てきたのを見て、高玉の者たちは押し切りを置き、打ち取ろうと企んだ。
3月23日に玉の井の近くに高玉への山道に、矢沢という所に草を入れることを相談した。その頃までには大内・片平の内応は決まっていたのだけれど、味方への手切れはしていなかったので、片平・安子ヶ島の手勢で高玉へ、22日の夜に評定を行った。かねてから敵地であったので、草を入れたとしたら、知らせを送るだろうから、差し置いた者が22日の夜本宮へ来て、告げたので、私も出陣して、本宮・玉の井の手勢を以て、23日朝車さかしをしたところ、草も来なかった。情報が間違っていたのかと思い、戻ったところ、昼過ぎに、2,30人玉の井の近辺まで敵が出てきたので、私たちも出た。2,30の者太刀は引き上げたので、たいと渡という所で追い付き、合戦になった。
遠く出たのに倣って、矢沢の小森の陰に200人ほどの一が隠れていて、押し切りに見せかけ合戦始まったところから、引き返すべきかと思ったのだろうか。敵はそろそろと退却を始めた。
玉の井の者たちは敵の足と間違えて強いて追い掛けたので、敵は崩れ、足並みを外れ、退いた。押し切りの者たちは待ちかねて早く出た。切られはしなかったけれども味方は崩れた。合戦の初めには川柳まで押しつけられたので、2,3人打たれたところに、味方側に返し、高玉太郎左衛門が両陣の間を乗ってきたところに、志賀三郎という鉄炮に優れた私の徒小姓が川柳に鉄炮を打ち掛けようと、待ちぶせところ、高玉太郎左衛門が小川を隔てて横に乗り換えしたところを、2つの玉を当てた。1つは馬の肩のもみ合いにあたり、もう一つの玉は太郎左衛門の臑にあたった。馬は倒れたので、味方は活気づいて盛りかえしたので、敵は退却を始めた。太田主膳と言う名の知れた対称が殿を務めたので、敵も崩れずに居たのだが、小坂まできて乗り上げていたところ、三郎がもう一度上に向けて撃つと、馬の鞍の後輪をうちかけ、犬子の所へうちだされ、主膳はうつむきになってそのみの小旗を抜いて弟の采女にささせ、私がいなければ必ず大崩れするであろうから、私に成り代わって殿を行い、戦を終わらせよと言い、退却させた様子はとてもよかったと人は話した。
この草調儀は高玉太郎左衛門と太田主膳が仕組んだ者であり、二人とも居なくなったので、すぐに崩れ追いかけて討つと首153取った。大勢打ち取れるような状況であったが、山間であって、地形がよくなく、ちりぢりに逃げ出したので、多くは撮れなかった。其の夜宿へ帰れなかった者もいたことを後で聞いた。このとき打ち取った頭の鼻を削って米沢へお送りした。

感想

いつも強引に訳していますが、今回ははいくま・昼這い・たいと渡・犬子など、意味がとれない言葉が多くて、うまく訳せなくて申し訳ございません。『政宗記』でもここは出てくるのですが、不明としている語がいくつかあります。難しい…。
『政宗記』では2つの弾丸は、1つは高玉太郎左衛門の腰に、1つは馬の肩のねりあいという場所にあたったと記されています。

『伊達日記』42:大内兄弟との駆け引き

『伊達日記』42:大内兄弟との駆け引き

原文

天正十六年二月十二日片平。阿子島。高玉三ヶ所の人数を以大内備前苗代田へ未明に押懸。古城に居候百姓共百人計相果候。本内主水と申者物主に指置候を切腹致させ放火申され候間。太田荒井の者ども亦玉の井へ引籠候。同二月末大内我等所へ申され候は。去年申合候けんきやう申候而切腹に及び申すべく体に候間。会津への申分に御領地へ事切仕候。此上も免許候て米沢へ御奉公成られくれ候へと度々申され候へども。拙者挨拶申候は。いづ方へも事切申されず候。我等知行所へ事切申され候。本内主水切腹仕候間。我等申次は罷成まじく候。誰ぞたのみ申され然べき由申候へば。右よりの使本内主水親類の者仕候。彼の好身共何も玉の井にさし置境目に候。彼もの共我等に訴訟申候は。玉の井の百姓共二本松右京譜代に候間。草を入申にも告申すべきと機遣申候。其上片平助右衛門御奉公申され候へば。一廉事にも阿子島。高玉持兼申すべく候間。大内兄弟御馳走然るべき由申に付。重て米沢へ小十郎を以申上候処に。苗代田打散事口惜思召れ候へども。片平助右衛門迄御奉公仕るべき由申候間召し出せらるべく候。若助右衛門御奉公仕ず候はば。大内計は召し出さるまじき由御意に候條其通申遣候処に。助右衛門御奉公に落居候間。近所の村四ヶ所望書立を越申され候間申上候。備前には保原を下され、助右衛門には望候所御印判され候。助右衛門申され候は。瀨上丹後御勘当に候。我等聟に仕。名代渡申すべく候由約束仕候條。御赦免成られ候様にと申され候。其通申上候はば。中野常陸親類迄も口惜思召され候間。召出され間敷由御意に候。助右衛門申され候は。左候はば御奉公仕間敷候。御印判いただき申も上置申すべき由申されに付。廿日も事延漸々丹後事御前相済申候間。片倉小十郎も備前助右衛門罷出候を二本松へ罷越待申すべき由我等と申合され候。

語句・地名など

現代語訳

天正16年2月12日片平・阿子島・高玉三ヶ所の手勢で、大内定綱は苗代田へ未明に押しかけた。古城にいた百姓100人ほどが臣だ。本内主水という者が城代をしていたのだが、かれを切腹させ、放火したので、太田・荒井の者たちはまた玉の井に籠城した。
同年2月末、大内定綱が私のところに「去年約束したことがばれ、切腹させられそうになったので、会津への言い訳に、貴方の領地に戦をしかけました。これも許して、米沢へ仕えさせてください」と度々言ってきたのだが、私は「どこへことを起こすのではなく、私の領地へ攻め入り、本内主水は切腹までしたということで、私の取次は無理であるから、だれか他の人へ頼むのがよいのでは」と返した。
するとこの使者は本内主水の親類の者で、かれの親戚たちはみな玉の井にさしおかれていた。かれらは私に「玉の井の百姓たちはいずれも二本松の畠山右京に代々仕えた者たちであるので、草をいれるにしても外へ内通するのではないかと心配しなくてはいけません。そのうえ片平親綱が政宗に従うのであれば、敵地である安子ヶ島・高玉も保ちかねて手にはいるでしょうから、大内兄弟を歓迎するべきであります」と言った。かさねて米沢へ片倉小十郎を使わして申し上げた処、苗代田が討たれたことは口惜しく思うけれども、片平親綱が内応するべきであると思われた。
もし親綱が内応しないのであれば、大内のみでは駄目だということを仰ったので、その通り遣わしたところ、親綱の内応が確定した。近所の村四ヶ所を望む書状を遣わしてきたので、それを政宗に申し上げた。定綱には保原を与え、親綱には望むところを与えると印判状をお与えになった。
親綱は「今勘当になっている瀨上丹後は私の聟にございます。かれを名代にしてくださるようお約束お願いしたく思うので、かれをお許しになってくださいますよう」と言った。
その通り申し上げたところ、中野常陸宗時のことは親類までも口惜しく思い、召し使いたくないと仰せになった。
助右衛門は「申しそうであるならば、奉公することはできない。印判状をいただいたことも上におきます」と言った。
20日もたって、ようやく瀨上丹後のことをお許しになったので、片倉景綱は定綱・親綱が来るのを二本松まできて待とうと私と約束しました。

感想

寝返りを決めているのに、定綱が成実の領地に攻め込むという珍事が起こります。定綱は会津への体裁のためだったという言い訳をしますが、さすがの成実も取りなしを他に頼めといいますが、大内定綱は地の利を理由にしきりに訴えます。
そのことを政宗に伝えたところ、片平の寝返りを以て許しました。
すると二人は中野宗時の乱の際に勘気を蒙り勘当された聟である瀨上丹後をも許してくれないかといってきます。
悩んだ末、政宗は許し、二人の到着を成実と景綱は二本松で待つことになります。
ここらへんの駆け引きは非常におもしろいところです。

『伊達日記』41:大内定綱の望み

『伊達日記』41:大内定綱の望み

原文

天正十五年最上。大崎は御弓矢に候へども、安積表は先御無事分にて候。苗代田。太田。荒井三ヶ所は私知行に候。敵地近候へども御無事に候間。何れも百姓どもを返し在付候。苗代田は阿子ヶ島高玉の敵城に近候間。古城え百姓共を集指置候処に。大内備前我等所へ申され候は。不慮の儀を以政宗公の御意をそむき此如くの体に罷成候。小浜を罷除候時分会津宿老松本図書介跡絶候間。此知行を下され候様に申。会津の宿老に仕るべく候由会津宿老共申候間罷除候処に。扶持をさへ下されず飢に及び死体に候間。政宗公御下へ伺公申度候。少々御知行をも下され召仕さるる候様にたのみ申由申さるる。去りながら唯今ケ様に申上候ても御耳にも入間敷候間。我等兄弟に候片平助右衛門御奉公仕候様に申すべく候間。我等をも御赦免成られ候様にと申せられ候に付片倉小十郎を以右の通申上候に。拙子申上候は。大内備前召し出され、然るべく存候。其子細は清顕公御遠行以来田村主なしにて心々の様に承り及び候。備前本居仕度存。弓矢の物主にも罷成候へば如何に存候。其上片平の地は高玉阿子島よりは南にて御座候間。片平助右衛門御奉公に於いては右の両地持兼会津へ引除申すべく候。左候はば高倉福原郡山は御奉公の儀に候間御弓矢成られ候共御勝手一段能御座候間。備前に御知行を下され召し出され然るべき由申上に付而大内口惜思し召され候へ共。去々年輝宗公死去の砌。佐竹。会津。岩城相談を以本宮へ御働候。此意趣御無念に思し召され候間。御再乱を成さるるべき由思し召され候間。片平御奉公に於いては備前事も御赦免成らるるべき由具に申聞為しむべき由御意に候間。右使仕候者以大内備前へ追而品々申し越らるるべき由申遣候。此儀白石若狭に知らせしめ申さず候はば。以来恨を請候儀如何に存候間。若狭へ物がたり申候処に。若狭申候は。一段然るべく候。塩の松百姓共大内譜代に候間万事に機遣申候。御下へ参られ候へば大慶の由申され候間。我等も左様に存候。米沢へ申上候由申候。然処に備前より申越され候は。彼一儀洩候事迷惑候。会津に於いて其隠れなく申廻候。此分に候はば切腹仕候儀も計り難く申し越され候。拙者あいさつ申候は。別而他言は仕らず候。白石若狭唯今は小浜に申され候間。其方御奉公の品々彼方へ聞こし召さず候ては取成申されず候間物語申候。若狭其口へも存知申され候哉と存候由申越候。其後若狭我等申され候は。大内備前我等を頼罷出度由物語候間。一段然るべく候。誰を以も罷出られ候へば御為能候由挨拶申候。若狭分別には。備前は覚のものに候。田村近居数年。佐竹会津御加勢無く自分弓矢を取候間。度々合戦にも勝候事政宗公御存候間。若塩の松を通下され候儀はからいがたく候間。若狭指南を以御奉公申され候か。左なく候はば会津に於いて切腹もされ候様にと存され告申され候と見へ申候。其故其年中は大内罷出候事相延候。其年の暮大内機遣仕会津を御暇申請。片平へ罷り越され候。

語句・地名など

現代語訳

天正15年最上・大崎とは戦をしていたけれども、安積方面は何事も無く無事であった。苗代田・太田・荒井は私の領地であった。敵の地に近かったのだけれども、無事であったので、いずれの地も百姓たちを村に返していた。苗代田は阿久ケ島・高玉の敵の城に近かったので、古城へ百姓たちを集め、置いておいたところ、大内備前定綱が私の所へ来ていうには、「想定外の出来事で、政宗公のご命令に背き、このようになってしまいました。小浜から退却するとき、会津の宿老松本図書介の後が堪えたため、この知行を私にくださるように仰り、会津の宿老にしてやろうかと会津の宿老たちがいうので、退却したところ、扶持さえいただけず、飢え死にの危機にあります。そのため、政宗公の所へ伺いたく思います。少しの知行をくだされ、召し使っていただけるようお頼み申します。
しかしいまこのように申し上げても、政宗の耳には届かないだろうから、私の兄弟である片平助右衛門親綱も政宗に仕えるようにいいますので、私もお許しくださるようにお願いします」といったので、片倉小十郎景綱を通して、以上のことを申し上げた。私が申し上げたのは、「大内備前を召し抱えるのがよいと思います。というわけは、田村清顕が死んで以降、田村領は主なしの地となり、人の心はバラバラになっていると聞いております。備前が元居たところと思い、戦の当人となったならば、どう致しましょう。その上、片平の地は高玉・安子ヶ島より南にあり、片平親綱が政宗に仕えるのならば、この領地を保つことが出来ず、会津へ退却することでしょう。そうしたら、高倉・福原・郡山はもともと味方であるので、若し戦となったとしても、政宗の思う通りに出来るのではないかと思います。なので、定綱に領地を与え、家臣にするべきではないか」と申し上げたところ、大内に対しては口惜しい思いをさせられたのだが、一昨年輝宗公がお亡くなりになられたとき、佐竹・会津・岩城が語らいあって本宮で戦を起こしたことを大変残念に思われていたので、再び戦を起こすことを考えて居られた。其のため、片平を召し抱えるのならば、定綱のこともお許しになるべきであることを詳しく知らせるようにと仰せになった。このことを使いの者を通して、大内備前へ後から詳しく申し付けるということを言って返した。
このことを白石若狭宗実に知らせなかったとしたら、これから恨みをもたれるであろうと思ったからである。宗実へ語ったところ、宗実は「そうするべきだと思います。塩松の百姓たちは大内氏譜代のものであるので、すべてのことに気遣いが必要です。政宗の配下になるのであれば、とてもよいでしょう」と仰ったので私もそう思い、米沢へ申し上げたことを言いました。
すると定綱よりいってきたのは「このことがもれて大変なことになっています。会津においても全部ばれて伝わっております。この調子では切腹させられるかもしれません」と言ってきた。
私は返答として「私は他言していない。白石若狭宗実は今小浜にいるのでおまえが政宗に寝返るのであれば、その詳細を隠していては取りなすこともできないので話したのである。若狭が会津方へも知らせたのかもしれない」ということを知らせた。その後若狭宗実が私に「大内備前定綱は私を頼みに政宗に寝返りたいと言っていたので、それがよいと思った。誰を介してでもこちらに付くのならば政宗の為によいと対応した」と言った。
若狭は、備前は名に覚えのある名将であるので、田村に近く住まいして数年、佐竹や会津の加勢無く自分で戦を取り仕切ってきたので、合戦にも強いことを政宗公は御存知であるだろう。もし塩松を下されることは難しいとおもわれるので、若狭の手引きで寝返ると思ったのだろうか。
そうでなければ、会津にて切腹されるかもしれないようだと思って知らせたように思える。
その年中は大内の御目見得は延期となり、その年の暮れに大内は心配して会津から暇を乞い、片平の地へ引っ越した。

感想

大内・片平兄弟の伊達への内応について書かれています。政宗は大内に対し複雑な感情を抱いていたようですが、成実が定綱の手腕を買って説得していたことがわかります。また、親綱が支配している片平の地の地の利も考慮にいれていたようです。
ここで少し白石宗実と成実の間で一悶着があったことが書かれています。『政宗記』でもこのことは書かれているのですが、少し調子が変わっています。ちょっと成実も気にしているようす…。