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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』21:二本松衆の内応

21:二本松衆の内応

原文

一 同年二月二本松の三ノ輪玄蕃、氏家新兵衛、遊佐丹波、同下総、堀江越中所より政宗公へ三之輪屋敷御人数御入候。地形も能候間御勢遣わさるべく候。二本松を取らせ、申すべき由申し上げ、人質を指上申候條御人数を夜中に遣わされ候処に、右四人の屋敷は城下にて候間、三之輪屋敷へ引除候。旁大勢取籠候間鑓を取廻し様も之無く候。くりがさくと申所は堅固持候。玄蕃屋敷は本丸よりくりが作との間にて候。越中従明方に玄蕃屋敷へ取懸候間、こらへ兼本江計にて罷り成らず。屏を押破引除候間難所へ行懸、男女数多踏殺申候。

語句・地名など

三ノ輪→箕輪

現代語訳

一、同天正14年2月の三ノ輪玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・遊佐下総・堀江越中の所から、政宗公へ三ノ輪屋敷へ手勢をいれ、地形も良いので、軍勢を遣わせるようと内応の連絡があった。
二歩末を取らせるよう申上、人質を差し上げたので、軍勢を夜中に遣わされるところ、前述の四人の屋敷は城下であったので、三ノ輪屋敷へ引き込ませた。それぞれ大勢が籠もったので、鑓を取り回すこともできはい程であった。栗が作というところは堅く守っていたが、三ノ輪玄蕃の屋敷は本丸から栗が作との間にあった。堀江越中から明け方に現場や指揮へ取りかかったおで、こらえかね退き、城を落とすことはならなかった。屏を押し破り退いたので難所へかかり、男も女も多く踏み殺されました。

感想

二本松衆の内通についてです。
退却の際、踏み殺された男女は『政宗記』では4,50人と記されています。

『伊達日記』20:渋川合戦

20:渋川合戦

原文

一 天正十四年渋川に我等居候処へ、元日に二本松より昼時分乗懸候様に働候か。先へ馬上一騎、歩者十人計参陣。場の末にて水汲候者どもを追廻候所へ内より出合戦候。二本松への海道に小山候て柴立にて道一筋を追候て参候処に、柴立の後に馬百騎計、足軽千余にて備候衆に押返され、道は勿論脇へも追散され候。鹿子田右衛門は遊佐左藤右衛門兼てより聞及候者に候間、仕様を見申すべきと存。高き所へ乗上見候へば、左藤右衛門生所にて案内は存候間、各追立られ候筋より西の方へ引除敵追懸参候を、二人打取一人を手を負せ敵を押返。又一人物付仕鹿子田が招候処へ追付候。右衛門もこらへかね相除、谷地へ追込候志賀大炊左衛門も遅懸着、横合に懸入五人物付仕候。彼是敵三十人計打取候。敵負色に成候処所へ、八町目より馳来候味方、海道を二本柳へ押切候様に谷地を越候。是を見二本松衆崩候間追付に仕候処に、鹿子田右衛門飯土居の細道にて馬を立直し、逃散候者共を押返物別致させ候。早日昏候間味方も引上候。頭二百六十三取。二日に小浜へ上申候。佐藤右衛門左様鹿子田罷帰。聞き及ぶ程の者にて候と物語の由にうけたはり候。

語句・地名など

現代語訳

一、天正14年渋川に私がいたところに、元日に二本松から昼ごろ乗り掛けるように戦闘があったようだ。
陣場のはしの方で水を汲んでいて者たちを追いかけ回しているところへ、城の中から出て合戦となった。
二本松への街道に小山があって、柴が茂っているところに一本道があり追い掛けて行ったところ、柴の茂みのあとに、馬100騎ほど、足軽1000騎ほどの控えていた者たちに押し返され、道はもちろん脇にも追い散らされました。
敵の鹿子田右衛門は遊佐佐藤右衛門がかねてから見知っていた者であったので、佐藤右衛門は様子を見ようと思い、高いところへ乗り上げて見たところ、佐藤右衛門は生まれた場所であるので、まわりの様子はよく知っていた。それぞれ追い立てられたところから西の方へ退却しているのを敵は追い掛けてきたのを、二人打ち取り、一人を負傷させ、敵を押し返した。またひとり取り付き、鹿子田右衛門が招いたところへ追い付いた。鹿子田右衛門もこらえかねて、退き、谷地へ追い込んだところを志賀大炊左衛門も遅く駆けつけ、横から五人に仕掛けた。
かれこれ敵を30人ほど討ち取った。敵の敗色が濃くなってきたところに、八丁目城から駈けてきた味方が、街道を二本柳へ押しきるように谷地を越えてきた。
これを見て、二本松の者たちは崩れたので、追い掛けていると、鹿子田右衛門は飯土井の細道で馬を立て直し、逃げ散る者たちを押し返し物別れとなった。既に日が昏くなっていたので、味方も引き上げた。首を263個取ったので、二日に小浜へお伝えした。佐藤右衛門がそのようであったので鹿子田は帰った。名の聞こえた程のものであるなあと、政宗が物語っていたとお聞きしました。

感想

天正14年正月元日に行われた渋川合戦の詳細です。『伊達日記』『成実記』では省かれていますが、12月11日に成実は火災で手の指がくっつくほどの火傷を負った直後のことです。さすがに本人は出陣はしていないみたいですが。
柴の後に隠れていた者の数、『政宗記』では騎兵200騎、足軽2千4,500という記述に変わっています。
また、この戦で取った首の数が、『伊達日記』では「263」というえらくはっきりとした数字ですが、『政宗記』では「340余り」という記述。
少し盛ったのかな?(笑)という感じですね。

『伊達日記』19:合戦の褒賞

19:合戦の褒賞

原文

一 十七日晩は政宗公も岩津野へ引上られ候。夜半比山路淡路御つかひとして御自筆の御書下され候。今日敵の後にて合戦仕敗北仕らず候事聞召され、伝へたることもなく不思議の様子是非に及ばず候。一身の働にて大勢のものども相助候。定て家中手負死人数多之有るべき由。明日は本宮へ近陣の由きこしめされ候間、大儀ながら本宮へ入申さるべく候。誰も余人これなく候間仰付られ候。伊達上野をも相添らる、の由御文言に候。淡路申され候は、今日身方にはなれ申候衆二人敵に紛居候処に明日は本宮を近陣成られ、二本松籠城の衆を引除かれるべき由承候。日くれ候て敵陣を逃去参候而申上候付仰付られ候。本宮は籠城成されるべく候間、其支度申すべき由申され候へども、俄事にて心懸も罷ならず。十八日未明に本宮へ入候処に働参らず候。物見せ遣候かと承候へば、夜の内より付置申候由申され候。火手見え候間陣移かと存候へば、物見早馬にて参候。佐竹、会津、岩城衆引除かれ候。結句前田沢も引除候由申候間、前田沢へ人をつかはし見せ候へば、一人も残らず引上候に付、政宗公本みやへ御移なされ御仕置仰付られ候。御前に数多居候処にて、浜田伊豆昨日の合戦に中村八郎右衛門比類無きはたらき仕候。彼者故味方五十も六十もたすかり候由申され、其時八郎右衛門何も御意之無に刀を抜敵二十騎切落候由申悉打指候を御覧成られ、御加増成らるべき由御意にて、塩の松にて知行下され候。若又此上にも働計難き由御意にて、岩津野に両日御座成られ候へども、何事なく候間小浜へ御帰馬成られ御越年候。

語句・地名など

現代語訳

一、17日の晩は、政宗公も岩角へ引上られました。夜中に山路淡路を使いとして、自筆で書かれた書状を下さいました。今日、敵の後ろで合戦し、敗北しなかったことをお聞きになり、伝えることもなく想像のつかない様子は仕方のない事である。ひとりの働きで、大勢の者たちが助かったのです。きっと家中には怪我を負った者、死んだ者、数多くいるでしょう。明日は本宮へ近陣するであろうことをお聞きになったので、大変なことですが、本宮へ入って下さい。留守政景も添えて、との文面であった。淡路は「今日味方から離れた二人敵に紛れていたところ、明日は本宮に近陣し、二本松の籠城の衆を退却させようということを承ったと言った。
日暮れになって、敵陣から逃げ去り、こちらに来て、そう申し上げたので、仰せられました。本宮は籠城なされるので、其の仕度をするように言ったのですが、急のことなので、こころがけもできなかった。
18日未明に本宮へ入ったが、働きはなかった。物見をつかわしたかと聞いたところ、夜の間から付けていたと言われた。火の手が見えたので、陣を移したのかと思い、物見が早馬でこちらに来た。佐竹・会津・岩城衆は退却したのであった。結局前田沢も退却したと言ったので、前田沢へ人を遣わし見に行かせたところ、一人も残らず退却していたので、政宗公は本宮へお移りになり、仕置をなさった。
政宗の御前に人が沢山集まり、浜田伊豆は「昨日の合戦に中村八郎右衛門が比類無きはたらきをした。この者のおかげで味方は50も60も助かった」と言った。そのとき八郎右衛門は何も命令がなかったので、刀を抜き敵20騎を切り落とし、ことごとくうち刺したことを政宗は御覧になり、加増するべきであると思われ、塩松にて知行を与えられた。
もしまたこれ以上の戦がが怒るかもしれないとお思いになり、岩角に二日折られたのですが、なにごとも無かったため、小浜へお帰りなされ、年を越されました。

感想

17日深夜に行われた、人取橋合戦こと本宮合戦での働きへの政宗の賛美について書かれています。
成実はこの戦の功労として感状を賜り、おそらくですが、留守政景ももらったのではないかと文中から推測されます。
中村八郎右衛門という人も比類無き戦いぶりをし、知行を賜った話が載っています。
そして夜が明けると敵が消えていた…という所です。勝利とは言えないですが、「不思議の様子」なんでしょうねえ。

『伊達日記』18:人取橋合戦

18:人取橋合戦

原文

一 霜月十日比、佐竹義重公・会津義広公・岩城常隆公・石川昭光公・白河義近公仰せ合わされ、湏加川へ御出馬成られ、安積表伊達奉公の城々御責成られ、中村と申城責落せられ候。右之通小浜へ申来るに付、政宗公岩津野へ御出馬なられ、高倉へは富塚近江・桑折摂津守・伊藤肥前に御旗本鉄炮三百挺添籠置かれ候。本宮城へは瀨上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衞籠置かれ候。玉ノ井の城へは白石若狭籠置かれ候。我等は二本松敵城に候。八丁目抱の為渋川と申城に差置かれ候処に、小浜在陣衆何も無人数に候間、早々参るべく候由御状下され候條、渋川に人数過半残候て四本松へ廻り小浜へ参候へば、早御出馬にて小浜にも御人数差置かれず候間、我等人数をのこし申べき由仰置かれ候に付、青木備前内馬場日向、馬上卅騎程残岩津野へ参御目見え仕候へば、前沢兵部も身を持替会津へ奉公仕候間、明日は高倉が本宮へ働きなされるべく候間、罷通べき由御意候條、糠沢と申所処にその夜は在陣申候。彼兵部は本二本松衆に候間、義継生害の砌より伊達へ参候。又佐竹殿御出陣に付佐竹へ参候。同十六日前田沢南の原に敵野陣を懸候。定て高倉へ働に在るべきの由申来候に付、政宗公も岩津野より本宮へ御移なられ候。其比は只今の町場はたにて一人も居なく少川流候処。遠やらいにて内町計人居候。高倉への働き成るべき由申に付、本宮の人数は観音堂へ打上、見合次第に高倉へ助合べく候。大田の原に備を立候。我等も高倉へ助合べきと高倉海道山の下に備を立候。敵五十騎余にて三筋に押通候間、高倉に籠候衆本宮は御不人数候間、人数を是より出し抱とめ見申度と申候。成間敷と申され候衆も候処に、富塚近江・伊藤肥前、縦押込まれ候とも本宮へ通候敵の人数留り申すべく候者吉からぬ由申され、人数を出し押込候間、小口へ追入られ二三十人打取られ候。敵勢多候故前田沢へ押候人数は観音堂より出候衆と戦、荒井を押候人数は我等と合戦仕候。下部山内記我等備の向に少髙山之候へ乗上見候へば、白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐三人の指物見え候て、馬上六七十騎、足軽百五十計にて本宮之方より高倉の方へ参候。其跡に大人数参候。敵とは存ぜず候へども敵と味方とのさかいの様に見え、其間一町余隔申間不審に存候へば、其間にて鉄炮一つうち申候。扨は敵に候と存乗通山の上より敵是迄参候。小旗をさせと呼候間、いずれも小旗をさし相待候処へ、若狭、壱岐・伊豆、我等マトイを逃通御旗本へ参られ候。観音堂より出入人数太田の原へ備候処に、敵大軍故こたへ候事成らず。観音堂を追下られ、御旗本迄逃懸り候。茂庭左月始百余人打死仕候。左月験は取られず、伊達元安、同美濃守、同上野、同彦九郎、原田左馬助、片倉小十郎防戦候間大敗軍は之無く候。我等備は味方一人も崩れず、左は大門にて七町余敵の後に成候。下部山内記我等に馬を乗懸馬上より我等小旗を抜、観音堂の衆崩れ押切られ候間、早々除候へと申候て小旗を中間に渡候。我等十八歳にて何の見当も之無き候へども、罷除候ても討たれるべく候。爰にて討じにと存候て備を崩さぬ処に、敵勢、若狭、壱岐、伊豆を追立山の下迄参候間、我等人数を懸候間敵相除候処に伊庭遠江七十三に成大功之者真先に乗入敵二人に物付仕、一人家中に頭をとらせ、山の南以下五町計橋瓜迄追付候処に、敵橋にて返し又味方やまへ追上られ候。羽田右馬助敵味方の境を乗分、馬を立廻し立廻し静に上させ候処に、鑓持壹人進出右馬助をつばづし前へ走懸候を、右馬助一太刀に切落、右馬助も家中一人討取られ引除候。鉄炮大将萱場源兵衛、牛坂左近、敵の真中へ乗入馬上二騎物付仕候へども具足の上にて通らず、敵除口に成又橋本迄追下候。北新助馬をたて候処へ歩行の者走り出、新助馬をつつき候間、新助も引除候故味方除口に成候処に、伊庭遠江後殿を致取て返し返し味方に遠ざかり候。老後にて目見え申さず候とて申を其日は着申さず候。敵乗懸あたまを二太刀切られ、叶わず候て引除候間、味方又本所へ押付られ候。然処に観音堂も物別仕候間、此間の敵も引上候。我等も押添はず、人数を打廻し物別仕候。観音堂は誰々如何様に仕候も存ぜぬ候。遠江は罷帰相果申候。不思議の仕合にて一芝も取られず、観音堂同前に物別仕候。合戦の様子細々に書かず候。粗書記候。其後観音堂へ敵備を上、高倉海道川切に備を直し候間、一戦之有るべきかと存候処に、政宗公御備五六町程隔り候故か、何事無打上られ候。此方の人数も少に候故押添ず候。彼下部山内記は本輝宗公御近御奉公申候。相馬御弓矢の砌は鉄炮大将仰付られ覚を仕候。其比御勘当にて我等を頼備に居申候。其日も味方後候時は馬を乗廻し味方を助最前に敵の中へ乗入、両度物付を仕比類無きかせぎ仕候。

語句・地名など

下部山内記→下郡山内記

現代語訳

一、霜月(11月)10日ごろ、佐竹義重公・会津義広公・岩城常隆公・石川昭光公・石河義近公申し合わせて須賀川へ出陣され、安積方面の伊達に味方している城々をお攻めになり、中村という城を攻め落とされた。この話が小浜に伝わったので、政宗公は岩角に出陣なされ、高倉へは富塚近江・桑折摂津守・伊藤肥前に旗本鉄砲衆を300挺を付けて籠城させなさった。
本宮城へは瀨上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衛を籠もらせなさった。玉ノ井の城へは白石若狭を籠もらせなさった。私は二本松が敵の城であるので、八丁目の支城である渋川という城にさしおかれたところ、小浜に在陣している衆が人が少ないため、早く来るようにと書状を下されたので、渋川に手勢の半分を残し、塩松へまわり、小浜へ参ったところ、すぐに出馬することになった。小浜に手勢を置くことができなかったので、私の手勢を残すようにといわれたので、青木備前・内馬場日向と、騎兵を30騎程のこして岩角へ参上し、御目見得したところ、前沢兵部も心替えし、会津へ寝返ったので、明日は高倉か本宮へ攻めかかるだろうから、成実は先へ通れということを仰ったので、糠沢というところにその日は在陣した。
この前沢兵部は元々二本松の畠山義継に使えていた者だが、義継が死んだころから伊達へ来ていたのだが、また佐竹義重が出陣したと聞いて、佐竹へ寝返ったのである。
11月16日敵は前田沢の南の原に野陣を構えた。きっと高倉へ戦をしかけるであろうということが伝わったので、政宗も岩角から本宮へお移りになった。この頃は現在町になっているところは畑であり、一人もいなかったところに、小川が流れていたところであった。遠矢来の内にだけ町があり、人がいた。
高倉への戦闘があるであろうということだったので、本宮の手勢は観音堂へのぼらせ、様子次第では高倉へ援軍に行くようにと、大田原に備えを立てた。私も高倉へ援軍に向かうように、高倉街道の山の下に備えを立てた。
50騎余りの敵が三筋に分かれて押し通ろうとしたので、高倉に籠もった衆は本宮は人がいないため、手勢をこちらから出し、食い止めたいとした。いや無理だと行った衆も居たのだが、富塚近江・伊東肥前はたとえ押し込まれたとしても、本宮へ行く敵の軍勢を留めたいと言ったのを、良くないといって、手勢を出し、押し込めていたので、虎口へ押し入られ、2,30人打ち取られました。
敵は多かったので、前田沢へきた軍勢は観音堂から出陣した衆と戦い、荒井を攻めた軍勢は私と合戦となった。
下郡山内記という者が、私の備えの向かいにある小さな山のところへ乗り上げ、軍を見たところ、白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐の三人の旗指物が見えて、馬上6,70騎、足軽150ばかりとなって、本宮の方から高倉の方へと来た。その後ろに大軍勢が来た。
内記は敵とは思わなかったが、敵と味方との境のように見え、その間は一町あまり空いているのを不審に思ったので、その間に鉄砲をひとつ打った。さては敵であるのかと思い、山の上から「敵はここまできているぞ。小旗をさせ」と呼んだので、みな小旗をさして、待っていた。そこへ若狭・壱岐・伊豆は私の備えを逃げとおり、政宗の側へ参上した。
観音堂より出てきた軍勢は太田原で備えていたところに、敵は大軍であったので、堪えることができなかった。
観音堂を攻められ、旗本まで逃げそうになっていた。茂庭左月を始め100人以上が討ち死にした。左月の首は取られることなかった。伊達(亘理)元安・亘理美濃守・留守政景・原田左馬助・片倉小十郎らが防戦したため、大敗にはならなかった。私の備えは一人も崩れず、左は大門で7町あまり敵の後ろになっていた。下郡山内記は私に馬を乗り掛け、馬上から私の小旗を抜き取り、「観音堂の衆は崩れ押しきられていすので、すぐに退却しなさい」と言って、小旗を中間に渡した。
私は18歳で、何の見込みもなかったのだけれども、もし退却したところで、討たれるであろう。ここで討ち死にすると思い、備えを崩さずにいたところ、敵勢は若狭・壱岐・伊豆を追い立てて、山の下まで来たので、私は手勢を仕掛たので、敵は退却したところに、伊庭野遠江という73歳になる素晴らしい功績を持った者が、真っ先に乗りかかり、二人の敵に取り付き、一人を家中の者に首をとらせ、山の南を5町ほど橋爪まで追い回したところ、敵は橋から押し返し、また味方は山から押し上げられた。
羽田右馬助は敵と味方の境を乗り分け、馬を何度もたちまわしてくずれないようにと乗り回していたところに、槍持がひとり進み出て、右馬助に取りかかろうと前へ走ってきたのを、右馬助は一刀両断し、右馬助も家来を一人打ち取られ、退いた。
鉄砲大将の萱場源兵衛と牛坂左近は敵の真ん中へ乗り入れ、騎兵二人へ取りかかったのだが、具足の上であったので通らず、敵の退却口になる橋本まで追いかけ退かせた。北新助は馬をかけさせたところへ足軽が走り出て新助の馬をつついたため、新助も退いた。味方の退却口となっているところに、伊庭野遠江は殿をして取って返しとって返ししているうちに、味方から遠ざかってしまった。老いていたため、目が見えないからと言って、その日は甲冑を着けずにいた。敵がのりかけ、頭をふた太刀きられ、退却したので、味方はまた元のところへ戻ってきた。
そうこうしているうちに観音堂の戦も物別れになったので、このあたりの敵も引き上げた。私も追い掛けることなく、手勢をうちまわして物別れとなった。
観音堂はだれがどうなったかもわからなかった。伊庭野遠江は陣に帰って死んだ。
合戦の様子は詳しくは書きません。ざっと記しました。
その後敵は観音堂へ備えを押し上げ、高倉街道の川が切れているところに備えを移したので、また一戦あるだろうかと思っていたところに、政宗の陣からは5,6町ほど隔たっていたためか、何事も無く終わった。こちらの手勢も少なくなっていたので、攻めることはしなかった。
この下郡山内記はもともと輝宗公の近くにお仕えしていた者で、相馬との戦のころには鉄砲大将を務めていたと覚えている。このころ政宗から勘当されていたところ、私の備えにいたのです。
その日も味方が遅れたときは馬を乗り回し、味方を助け、真っ先に敵陣へ乗りかけ、二度も首をとらせ、比べるもののない働きを致しました。

感想

後に人取橋合戦と言われるようになる、本宮合戦の様子の記述です。伊達軍が大変苦労している有様が書かれています。
成実軍も苦戦し、伊庭野遠江の死に様など、おもしろい記述が続いていますが、いきなり「合戦の様子細々に書かず候。粗書記候。」となっているところに驚きます。
いや、そこかけよ!(笑)てなりますよね。
木村宇右衛門覚書では、この戦で政宗が馬ごと川に落ち、打ちかけられ困っていたところ、成実が現れて馬を助け出し、政宗を助けたことが書いてありますが、それがこの詳しくかかなかった部分なのか、それとも政宗が語ったこのエピソード自体が作り話なのか、わかりませんが、成実の記録には全く残っていません。
せっかく書いているんだから詳しく書いてよ!と思いますが(笑)。

『伊達日記』17:二本松籠城

17:二本松籠城

原文

一 会津抱の高玉阿子島より深山づたひに二本松へ通路仕候に付、城成とも成られ度思召され候へども、義広、義重、常隆出馬の御気遣にて成られぬ由候上、髙山にて通路に人数も候へども通らず候。人数之なきに付ては□見切通候間、米以下絶成らぬに依、翌年七月まで相抱候。

語句・地名など

現代語訳

一、会津の支城である高玉城・阿久ケ島から深山を伝って二本松へ通るので、城を抑えようと思われたのだが、芦名義広・佐竹義重・岩城常隆が出馬してくるかという心配で、できなかった。高い山であるので、通路に人を使わすこともできなかった。人がいなくては敵からよく見えるので、米も通すことができなかったので、翌年7月までは堅く籠城していたのです。

『伊達日記』16:戦と降雪

16:戦と降雪

原文

一 十月十五日二本松へ御働候へども内よりも出ず候。即打上られ、川を越、高田へ惣人数引上、上野陣を相懸候。明日の御評議承べきと存我等も高田へ参候。拙者陣場はいをふ田□□申候て、二本松より北にて高田より各別の所に候。其は八丁目我等抱に付指置られ候。我等人数北へ上候付城より罷出合戦仕候。双方多打死。高田よりも助合戦付敵を遠やらい迄押入物別仕候。夜半時分より大風吹明方より大雪降。十六日十七日十八日昼夜ともに降候故、馬足叶わず御働も成らず、廿一日に小浜へ御引込、年内は御軍相止られるる由にて、境々の衆残らず相返され候。

語句・地名など

いをふ田:伊保田(安達郡安達村の中、油王田・硫黄田か)

現代語訳

一、10月15日、二本松へ攻めかけたが、内からだれも出てこなかった。すぐに打ち上げ、川を越え、高田へすべての手勢を引き上げなさり、陣を引かれた。
明日の評定を聞こうと思い、私も高田へ行きました。私の陣場は伊保田というところで、二本松から北にあり、高田よりは離れていた。
それは八丁目が私の抱えになっていたからです。私の手勢を北へ上げたところ、城から軍勢が出てきて、戦となりました。双方多くが討ち死にしました。高田より援軍が来て、敵を遠矢来まで押し入れ、物別れになった。
夜になって、大風が吹き、明け方から大雪が降った。16日17日18日昼夜ともに雪が降ったので、馬が歩くこともできず、戦闘もできないため、21日に小浜へ退き、年内は戦をやめられるということで、境の者たちはそれぞれ在所に戻ったのです。