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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』1-5:小手森落城附青木修理証人替の事

『政宗記』1-5:「小手森落城と、青木修理の人質交換のこと」

原文:

(小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967・『仙台叢書11巻』)

明ける程に、昨日申す竹屋敷へ陣場を移し候こと何れも嫌ひになるに、夫れに又政宗へも窺はずして移しけるは気遣なれども、城山の通路を留め、敵の様体見るべきがため、今日卯の刻*1に移しければ、伊達上野守正景*2も引きつづいてぞ引移す。政宗是を聞玉ひ、惣軍をも移すべしとのたまふ。故に惣軍は段々備を取てぞ移しける。かかりける所に、城*3の中より門を開いて一人出て、小旗を抑て此方を招く、人を出していか成ることぞとたづねければ、石川勘解由と申す者なり、成実御内遠藤下野日頃懇なれば、対面の上申度ことあり、と云ふ。下野を出しければ対面の上、「望むこと別義に非ず、此城に備前譜代の者ども籠りける、其内に小野主水・荒井半内といふ大内に近き奉公の者、惣領にて籠りけれども、早通路も留り落城うたがひなければ、成実を頼み城を差上退散申し度ため此の如し」といふ。其旨政宗へ窺ひければ、「軍のはか先へ行ため無事にはなして取らるべきか。尓りと雖ども、敵軍此方へ引除なば出城させん」と宣ふ。其由勘解由に申しければ「御家へ参りけるは悉皆命乞なり。出城を望み御訴訟に及びけるも、備前滅亡ほどあるまじきに、小浜へ引除譜代の首尾には、責て二世の供をも致さんため也、頻りに頼む」と申す。重ねて其品申ければ、出されまじくと宣ふ。又下野をつかはし其旨申けるに、其ときは門に二重内まで引入、勘解由は本丸へ上て仰の次第を申し渡す。尓る処に政宗、成実の処へ宣ひけるは、城中の者ども私なる申事、悪い口の奴原なるに、此城を平責にして、本丸までは落ちずとも、手並の程を見なば、敵軍此方へ引除ん。さも有るときは腋の敵地へ聞のためなり。去る程に陣中へも、ふれ早責給ふとて旗本を出されける。是に依て成実も城へ取付、其れより取廻し、鉄砲を掛け給へば、使いの下野内より出兼、小旗を棹て御方の陣へ紛れ出、漸命助り、尓る後成実陣より火をかけければ、折節風強ふして方々へ吹付、敵思ひの他に役所はなれ、午の刻より取付、本丸共に落城して、撫斬にと宣ひ、方々横目を付られ、男女は云うに及ばず、牛馬の類迄も斬捨、酉の刻に引取玉ふ。去れば新城と樵山とは敵地なりしが、小手森の鉾に驚き、其夜両城共に自焼してぞ引除ける。翌日二十八日には築館へ移るべしとふれ給ふ。何れも陣場を取りに戻りけるに、築館より一騎出て此方を招く、成実者ども乗向、何事ぞと尋ねれば、服部源内とて四本松*4より浪人なりるを一年成実召使けり、尓るに其頃本意して築館に籠り、彼者は除きながら「城内の敵ども、只今引除けるが、急ぎ押寄討て取れ」と告げる程に、其より味方の者ども支度をなして押込ければ、其間に引除き一人も残らず。角て政宗彼城に移り給ひ、人馬の息を休め給ふ。去程に彼地に御坐内、右にも申す青木修理抱ひ置ける三人者どもを証人替にし度とて、其旨小浜へ申し遣す。大内も彼証人を返すこと無念なれども、流石に家老三人の子供を捨兼、是非なく日限を定めける。扨修理も政宗より目附を申請、小瀬川といふ処へ双方ともに出合、弟新太郎と五歳の子供を、三人の若者に取替ける。各誉なる武略かなと、時の人々感じけるとなり。

寛永十三年丙子 六月吉日 伊達安房成実

現代語訳:

日が明ける頃に、昨日申し上げた竹屋敷へ人馬を移す事はどの方も反対していたし、また政宗へも伺いを立てずに移したのは気がかりであったけれども、城中の通路を止め、的の様子を見るために、今日(27日)卯の刻(午前六時)に陣を移したところ、叔父の留守政景も引き続いて陣を移した。政宗はこれをお聞きになり、総軍も移すべしとおっしゃった。故に総軍も順に設備を取り外して移動した。
こうしているうちに、小手森城内から、門を開いて一人が出てきて、小旗を抑えてこちらを呼んだ。こちらから人を送って「どういうことだ」と尋ねたところ「自分は石川勘解由という者であり、成実の家中遠藤下野と昵懇にしている者である。対面の上、申し上げたいことがある」という。遠藤下野を送ると、対面の上、石川勘解由は「望むことはほかでもない。此の城に大内定綱の譜代の者が籠もっている。その中に小野主水・荒井半内という大内に近侍している者が城代として籠もっているけれども、もはや通路も止められ、落城は避けられない。成実を頼み、城を明け渡し、退散したいと申し上げたくこのような行動に出た次第である」と云った。
その旨を政宗に伺ったところ、「城を明け渡すというのはよいだろう。だが、敵軍がこちらに降伏するというなら城の明け渡しに応じよう」とおっしゃった。其の旨を石川に告げると、石川は「伊達家へ行くのは命乞いになる。城の脱出を望み、そちらへ訴えを起こすのも、大内定綱の滅亡はもう間近のことであるから、(定綱が居る)小浜へ合流し、譜代であるがゆえに、せめて殉死をする為である。どうかどうかお願いします」と云った。再び政宗にその言葉を伝えたところ、「城を脱出させてはいけない」とおっしゃった。なので、また遠藤下野を送り、その旨を伝えたところ、そのときは二重内まで遠藤を引き入れ、石川は本丸へ上り、政宗の云ったことを伝えた。
そうこうしているうちに、政宗が成実の処へ使いを遣わし言うことには、「城の者たちは個人的な悪口を言った奴らである、此の城を徹底的に落とせば、本丸前は落ちずともそのやり方を見れば、敵軍からこちらへ寝返る者もあるだろう。そうであったとしたら、周辺の敵地へも評判が伝わるだろう」ということだった。そして陣中にも、本格的な城攻めの用意をせよと旗本を出された。
これに従って成実も城へ攻め寄せ、周囲を取り囲んだ。こちらの軍勢が鉄砲を射かけたので、使いの遠藤下野は中から出るのに苦労し、小旗をかかげて味方の陣へ紛れでて、漸く命を拾った。その後成実の陣より火をつけると、ちょうど風が強かった時間帯だったのであちこちへ燃え移り、敵は思ったよりも難しくなく、午の刻から城攻めをはじめ、本丸も落城して撫で切りにせよとおっしゃったので、それぞれに見張りを付けられ、男女は云うに及ばず牛馬の類までも皆切り捨て、酉の刻にひきあげた。
すると新城と樵山は定綱の領地の城であったが、小手森の戦闘に驚き、その夜二つの城とも自ら焼き払い、退却した。
翌28日には政宗は「築館へ移るように」と命令を出した。いずれの者たちも陣場を片付けようと戻っていたところ、築館より一騎の武者が掛け出て、こちらを招いていた。成実の手勢の者たちがそれを追い掛け、何事かと尋ねると、それは以前成実のところで一年召し抱えていた元は四本松の浪人の服部源内という者で、築館に寝返った者であった。服部は「城の中の敵たちが今退却している。急いで押し寄せて討ち取るべし」と告げたためそれから味方の者たちが支度をして攻め寄せたところ、その間に城の中の者は皆退き、一人も残っていなかった。
こうして政宗はこの城にお移りになり、人や馬の疲れを休めた。この地にいる間に、先ほど書いた青木修理が捕らえていた三人の家老達の子らを人質交換しようとして、その旨を小浜に伝えた。大内定綱もこの証人を返すことは無念であったけれども流石に家老の息子達三人を見捨てるわけにもいかず、仕方なく交換の日取りを決めた。修理は政宗からこの検分(顔の判別のため)を言いつけられ、小瀬川というところで双方が出合い、新太郎と五才の子供と三人の若者とを取り替えた。
それぞれなんと素晴らしい戦略かと時代の人々は感動したという。

寛永十三年六月吉日 伊達安房成実

語句・地名など:

横目:横目付の略。単に目付ともいわれている。陣中における将士の行動を監察しその不法を摘発するとともに、敵の動静を探る役。

小手森:福島県安達郡東和町小手森
樵山:内木幡樵山
築館:福島県安達郡東和町木幡築館
小瀬川:福島県安達郡岩代町地内/移川沿岸と思われる

なんとなくな地図:

間違ってるかも…あんまり自信がありません…。御指摘ください
参考:『福島県の中世城館跡』・Wikipedia・グーグルマップ
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感想:

天正18年閏8月27〜29日の話です。小手森城落城時の話です。成実は実際の戦闘の様子についてはあまり書いてませんが、『会津四家合考』『奥羽永慶軍記』にそこらへんの詳細があります。田村勢の奮闘、城内の様子などはそちらを読んだ方が詳しい様子があります。
これが有名な政宗の「小手森の撫で切り」ですが、その人数は史料によってまちまちです。
Wikipediaによると後藤信康に宛てた手紙には約200人、最上義光にあてた手紙には約500人、虎哉宗乙にあてた手紙には約800人、と、馬犬も含め1000人…とされています。【→後日政宗文書で再確認し、詳細を描き加えます】
個人的には、城の広さを考えてもそんなに居たはずはないので、女子供・牛馬も殺したのは本当かと思いますが、まあ盛った嘘をつく必要のない後藤信康宛の約200人…がせいぜいですかねえ…と思っています。
しかし『永慶軍記』では籠城男女3000人…となっているので、ここで政宗が行った撫で切りが周囲の大名に知れ渡り、喧伝される数がどんどん誇大になっていったのも事実かと思います。
『永慶軍記』では、石川勘解由らの大内家滅亡が目前ならば、小浜で定綱たちと共に死にたい…という願いを政宗が拒絶した後、政宗に対してあびせられた悪口に政宗が激怒し、撫で切りさせた…とあります。『政宗記』でも悪口のことはかいてありますので、タイミングはともかく敵兵が政宗のことを(おそらく片眼を)罵ったというのは本当なのでしょう。
政宗に生涯ついて回る、隻眼コンプレックスについて考えると、興味深い事件です。
あ、成実ファン的には、またここでも取次担当なのが萌えますよね。

この記事で『政宗記』1巻は終わります。寛永十三年六月とありますので、政宗死後直後(おそらく葬儀前後までに)仕上げられた分だと思います。なので、死後から書き始めたのではなく、『成実記』の以前からかいてあった部分を多少書き直して仕上げたものと推測されます。一方、『政宗公軍記』は内容はほぼ同じなのですが、文章が違うのでまた別口で書いていたものと推測します。

  • 『成実記』→かきなおし→『政宗記』前半軍記部分?(候文体→古文体で、いろいろ補足されているものの、基本的な使用語句が似通っている)
  • 『政宗公軍記』ノットイコール『政宗記』(共に古文体で、内容は同じだが、使用語句や文体が異なる)

と個人的には(現時点では)思います。
『政宗記』『成実記』『政宗公軍記』それぞれのきちんとした比較は…おいおい…していきたいと…思うけども…思ってはいるけど…いつになるかは…orz

*1:午前六時

*2:留守(伊達)政景。伊達晴宗の三男、輝宗弟、政宗・成実の叔父

*3:小手森城

*4:塩松