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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『正宗公軍記』軍記類纂版・目次

『正宗公軍記』軍記類纂版

解題

正宗公軍記 二巻
本書は、伊達政宗が、奥州に於ける軍事を記したものなり。内容は、政宗十八歳にして家督を継ぎ、付近の大名を切従へ、数度の合戦に勝利を得、結局政宗一人、威を東北に振ふ次第を記したり。此の書、黒川蔵写本を採収す。
本書、同名異本あり。帝国図書館蔵本に、政宗鄕御軍記と題せるものこれあり。
巻数二巻にして、伊達成実と作者の名を揚げたる本なり。此の採収本とは別本なれば、一言そのよしを注意す。

考察

『正宗公軍記』はいつごろ書かれた?

不明です。ですが今回文字打ちしていて思ったことは以下の通り。

「数の相違」

  • 小手森城の城攻め

『正宗公軍記』『伊達日記』:未の刻から申の刻
『政宗記』:午の刻から酉の刻
→『政宗記』の方が長くかかったことが書かれています。撫で切りの人数についてはいずれも記述なし。

  • 渋川の小競り合いのとき、柴立のあとにいた敵の人数、

『正宗公軍記』『伊達日記』:騎馬100騎・足軽1000人
『政宗記』:騎馬200騎・足軽24,500人
→倍以上になっています。

  • 渋川合戦で取って小浜へ送った頸の数

『正宗公軍記』『伊達日記』:263
『政宗記』:340余り
→えらく具体的な『正宗公軍記』『伊達日記』の首級数。

「一人称の相違」

『伊達日記』:拙者、某
『正宗公軍記』:拙者、某、我等
『政宗記』:主に私、我等
→「拙者」が前者2つでよく見られるのに対し、『政宗記』では「私」が多用され、「拙者」はほぼ使われません。

「【人取橋】の名称」

『伊達日記』:「本宮」「橋」
『正宗公軍記』:「橋」「人取橋」
『政宗記』:「人取橋」
→1度目の戦の後から「人取橋」の名が付いたと思われ、『正宗公軍記』では2度目の戦から人取橋と記されています。

「書き方」

『伊達日記』:漢字候文体・ひとつ書き(一、〜という書かれ方)・慶長五年白石攻めまで
『正宗公軍記』:タイトル付き・章分けあり・古文体・天正16年相馬との戦まで
『政宗記』:タイトル付き・章段分けあり・古文体・政宗死後まで
→『伊達日記』『成実記』系統はひとつ書きの漢字候文体が多いのに比べ、『政宗記』は細かく章・段が分けられています。一方で『正宗公軍記』は章分けはしてあるものの、一章それぞれが長く、段分けはされていません。かかれている期間は『伊達日記』よりも短いです。

以上のことを考え、現時点での想像ですが、
『伊達日記』『成実記』が元にあり、『正宗公軍記』があり、『政宗記』ができた…と考えられなくもないと思っています。つまりは成実自身が何度か書きなおしており、『正宗公軍記』が『政宗記』のプロトタイプではないか…と。
しかし『成実記』系統の中で、異なる記述もあるため、まだ断言はできません。
考察を続けていきたいと思います。