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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』3-4:大越紀伊守出入事

『政宗記』3-4:「大越紀伊守出入りのこと」

原文:

されば其頃田村家中に、大越紀伊守とて田村一門、扨相馬義胤へも親類にて、家に従ひ、大身なり。彼人相馬へ心を合せ、田村を義胤に取せんとす。其外田村家中に相馬よりの浪人ども、少々城を持ける程の歴々の者ども四五人有て、其衆は何れも相馬方なり。田村に一番の大身は、梅雪の家督田村右衛門頭(清康)とて、小野と云処の城主なり。彼人紀伊守へ引合相馬へかたむく。有とき月斎・刑部、白石若狭(宗実)に語けるは、大越紀伊守伊達へ逆心歴然なれば生捕度と申し、其旨若狭米沢へ申ければ、政宗成実処へ「宣ひ度子細の候、慥かなる者一人上せよ」とある。是に付て遠藤駿河と申せし者差上けるに、月斎・刑部右の品々申けるを、無益とはの宣けれども、若しや不図相抱かるれは田村の悪事なり、縦ひは月斎方募り候とも能には非らず、其子細いかにといふに、田村四人の内二人は伊達方、残る二人へ大越加はり三人相馬にて、内証二つに分れ野心を差しはさみ、相互に睨まへ、彼者ども用心持になす程ならば、米沢より手遠なりとも、田村へ抱ひ安す、惣じて田村をば敵味方共に、右の二頭を引立持つべき給ひ、去る程に紀伊守事は、御辺伊達へ指南といふ折節なれば、田村にてむさと交り怪我なきやうにと、紀伊守方へ潜かに知せよと宣ふ。故に成実郎等の内ヶ崎右馬頭に、紀伊守兼て懇故、成実処へ用処の砌りは、いつも大越備前と云親類披官を右馬頭処へ遣はす、是に依て今度も御辺申度こと候、備前を遣はし給へと申しければ、則備前参る。成実出会い、政宗の玉ふことを語らんとは思へども、先田村のこと委敷尋ね、底意なく打解給はば語らんと思ひ、色々承れども、何ごとも包んで是を語らず。去程に直ちに申すは延慮にて、其旨右馬頭に語らせければ、備前帰りて紀伊守に言聞せ、夫より三春へ出仕を相止、大越の居城に引込けり。尓る処に田村四人の家老より紀伊守方へ、いかなれば出仕を止られ候や承り候はんとて、使いをしきなみけるに、始は兎や角申けれども、しきりに子細を尋られ、「三春へ出仕をし候はば、生捕れんと成実知せに依て是の如く」と申なり。是に付て田村四人の家老より、此こと如何に候やと成実処へ申す。「何ことを知せ候べき、惣じて御家区々なれば笑止に存じ、いかにも安穏をこそねがひけるに、か様の理はり迷惑なり」と申しければ、四人の家老又紀伊守処へ、成実は此の如く宣ふ急ぎ出仕あれと申す。其とき内ヶ崎右馬頭にて知せ給ふこと必定なりといへども、重ねて又四人よりその段申し来る故、右馬頭に其旨尋ね承れば、紀州別してねんごろ故、備前に申けるは、世間にて紀伊守殿をば逆心の様に唱ふ、若や其御心にて三春へ出仕ならば、自然に生害か扨ては召籠もられ給ふべし、事危しと自分の物語にして申すなり、成実申さるることを争か申し候らはん、備前承り相違なり、と右馬頭申すの由、田村へ云つかはしければ、四人衆「さらば右馬頭と備前を出し、対決せば如何有らん」と申す。是非なくして三月初めに日限を定め、田村の内鬼生田と云処へ、備前を出しけると申すに付て、三春より検使は何如にと尋ねければ、左は候らはずと申す。是に依て右馬頭をば出さずして、田村へ使者を遣はし、右馬頭を出すべしとは申しけれども、検使なき故遠慮の旨なり。重ねては備前に検使を差添へ玉ひ、其とき右馬頭をも出さんと申ければ、成実家中の出入へ、検使は憚りを存し斟酌にて備前計りを出しけるに、右の理り悦びなりとて、検使一人備前に差添へ、右の鬼生田へ双方共に出向ふ。かかりけるに、大越備前、右馬頭に「其方にて成実よりの御知せ実正なり」と申す。夫にて右馬頭「紀伊守殿御心相違ならば、御出仕は如何あるべしと、私の物語にて申しけれ、尓るに出仕を止められ候は、只御二心歴然なり、左もなく候らはば、只今にも出仕し玉ひ、三春に於てもよも御違乱は有まじき」由、互いの家此の如くむすぼほれけるに、成実直語り今亦如何様の噞喁ならば、且は政宗ため且は成実も面目を失ふ処なり。其後田村に於て各寄合、伊達を守るべきか扨如何せん、と評定の処へ、常盤伊賀と云けん者、「清顕御残命のときより、田村をば末には政宗公へゆづり玉ふべしと、常々の御出語なるを、今又引替何方へ定め玉ふべきや、尓りと雖各分別次第なり」と、初口を出しける程に、寄合の者ども兎角を云ひかね、伊賀申す処理りなりとて、先伊達へとは同じけれども、底意は大略相馬へかたぶく。其子細は右に申す、田村に居ける浪人表立ける者どもは大方相馬衆にて、何方にても浪人傍輩とて懇ろなるものなれば、相馬衆に限らず或いは佐竹・会津・仙道の浪人も、皆懇にて、それへ又梅雪・右衛門心を合せける故に、右の数条も六ヶ敷なり、其品々此の四巻目に委しく記す。此の如く穿鑿にも梅雪・右衛門は紀伊守と一味なれども、今度月斎・刑部に加はりけるも、伊達へ公儀辺にて、成実方へも申遣はし候事。

語句・地名など:

御辺(ごへん):貴殿
噞喁:魚が口を水上に向けて浮かぶさま。くどくどつまらないことをいうさま。
鬼生田(おにゅうだ)
しきなみ:何度も/しきりに
区々(まちまち):まちまちなさま/情愛が深く行き届いた様
笑止(しょうし):迷惑なこと/他の人を気の毒に思うこと
検使(けんし):事実を見届けるために派遣される使者。

現代語訳:

さてその頃田村の家臣の中に、大越紀伊守と言って、田村の親戚でもあり、また相馬義胤とも親戚であり、家に従い多くの所領を貰っている者が居た。この人が相馬と誼を通じて、田村を義胤に取らせようとした。その他、田村家中には相馬からきた浪人たちで、それなりの城を持つほどになった歴代の者立ちが4・5人いて、その者たちは何れも相馬派であった。
田村の一番の大身は、梅雪のあとを継ぐ田村右衛門頭清康といい、小野という城の城主だった。この人が、紀伊守へひきあい、相馬方となった。
あるとき、月斎・刑部が、白石若狭宗実に語ったのは、大越紀伊守が伊達に逆らうのは確実であるので、生け捕りしたいということだったので、宗実はその旨を米沢の政宗に伝えた。政宗は成実の処に「いいたい詳細のことを詳しく知っているものを一人米沢へこさせよ」といってきた。
なので遠藤駿河という者を差し向け、月斎・刑部は以上の詳細を申し上げた。いらないとはおもうけれども、もし突然手を組まれては田村にとって大変な事である。たとえ月斎がそれを募らせたといってもたいしたことにはないだろう。それはどうしてかというと、田村の四人の家老の内二人は伊達方、残る二人に大越が加わり三人が相馬の味方となる。内情は二つに分かれ、野心をはさみ、相互に睨みをきかせ、かれらは用事をなすだろうから、米沢からは遠いけれども、田村にとってはやりやすいだろう。総じて田村を上手く敵味方に分散させ、以上の二つの頭を上手く調節したらよい。紀伊守は伊達へ寝返ろうと期を見ているところなので、田村でむざむざ合戦し、怪我などしないようにと、紀伊守方へ密かに知らせよと仰った。
なので、成実の家臣の内ヶ崎右馬頭に、紀伊守はかねてから仲良くしていたため、成実の処へ用事があるときは、いつも大越備前と云う親類の家臣を右馬助のところへ使わしていた。そのため、今回も申し上げたいことがあるので、備前を遣わしてくださいといったところ、すぐに備前がやってきた。
成実は備前と面会し、政宗が仰ったことを語ろうと思ったのだけれども、まず田村の事を詳しく聞き、もし裏表無く打ち解けたならば、語ろうと思い、いろいろ訊いたのだけれども、何ごとも含みを持たせてはっきりと語らなかった。なのですぐにいうのはよくないと思い、その旨を右馬頭に言わせたところ、備前は帰って紀伊守に言い聞かせて、それから三春への出仕を止め、大越の居城に引き込んだ。
すると田村四人の家老は紀伊守の処に「どうしたら出仕をやめられるか聞きたく思う」と、遣いを何度もおくったところ、初めはいろいろと申していたけれども、しきりに詳細を訊ねられたので「三春へ出仕したら、生け捕られると成実の知らせが言っていたのでこうしている」といった。これについて、田村の四人の家老から「このことどういう事であるか」と成実の処へ訊ねてきた。「なんと言うことをお知らせなさったのでしょう。総じて御家がバラバラなのならば大変に思う。自分は平安をこそ願っているというのに、このように言われるのは困ります」と言ったところ、四人の家老と、紀伊守の処へ、「成実は子のように言っているので急いで出仕で世」と言った。
そのとき内馬場右馬頭によって知らせたのはたしかなのあけども、重ねてまたその四人からそのことについて言ってきたので、右馬助にそのことを訊き、訊いたところ、紀伊守は特に仲良かったため、備前に言ったのは、「世間は紀伊守を裏切り者のように言う。もしその気持ちで三春へ行くのであれば、殺されるか閉じ込められるかだろう、危険である」と自分の口で言ったという。成実の言うことをどうしていわないことがあろうか、と備前が訊いていたこととは違う、とい右馬頭がいっていたことを田村へ伝えさせたところ、四人は「では右馬頭と備前を出し、対決すればどうであろう」といった。
仕方ないので三月初めに日限を決め、田村領内の鬼生田というところへ備前をだしたといったところ、三春からの検使は誰かと来たところ、それはわからないという。なので右馬助をださず、田村へ死者を使わし、右馬助をだせと言われていたけれども検使がいないため、よく考えて取りやめたのである。
再び、備前に検使を同行させてくれるのであれば、そのときに備前をだそうといったところ、成実家中への出入りに、検使を連れて行くのは憚りがあるという考えで、備前のみを出したところ、この様子に喜んだと言って検使を一人備前に付け、先ほど述べた鬼生田へ双方とも出向いた。
そうしたところ、大越備前は右馬頭に「あなたから訊いた成実からの知らせはただしかった」と言った。なので右馬頭は「紀伊守のお心は違わず、出仕はどうしたらよいであろう」と私的な会話でいい、つまり、出仕を止めたのは、ただ裏切りの意志があきらかであるので、そうでもないのであれば、今すぐにでも出仕し、田村に於いても、いさかいは起こるはずもない」とのことだった。このようにお互いの家は親しくむすばれていたので、成実は直接語り、「いままたこのようにぐだぐだというのであれば、政宗も、あるいは成実も面目を失うところである」。その後田村に於いてそれぞれ寄り合い、伊達を守るべきかどうしようかと相談しているところに、常盤伊賀という者が、「清顕様ご存命のおりより、将来的には田村を政宗へゆずるべきであるとつねづねおっしゃっていたのに、いままたどうして方針を変え、どうさだめるというのだ、なればそれぞれすべきことがわかるであろう」と初めに口をひらいたところ、集まった者たちは異論を言いかね、伊賀の言うことは理があるというと、伊達へは同じように見せつつ、本心は相馬へだいたい傾いた。その理由はというと次の通りで、田村に居着いている浪人たちは表向きは大方相馬集であるので、どこ方面に於いても浪人であろうと同僚であろうと、仲が良いものであったので、相馬に限らず或いは佐竹・会津・仙道の浪人もまた誼を通じていて、それへまた梅雪・右衛門も考えを同一にしていたため、以上のことも難しかった。その詳しいことはこの四巻目に詳しく書く。このように、詳しく調べるにしても、梅雪・右衛門は紀伊守と一味ではあっても、今回月斎・刑部に味方したけれども、伊達へ従う気持ちがあり、成実の方にもそう言い遣わしていたのであった。

感想:

大越紀伊守を巡るあれこれについて。
検使についてのことが興味深いです。面従腹背の家臣たちや、会見のことに駆け引きがあるのが緊張感あふれるやりとりです。