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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』14:畠山義継との交渉

14:畠山義継との交渉

原文

一 廿六日政宗公小浜之城へ御馬移され候処に、二本松義継より実元所へ代々伊達を頼入身上相立候へども、会津・佐竹・岩城より田村へ近年御弓矢に候。我等も清顕公へ御恨候て会津佐竹へ一味仕候。去乍銘々首尾を存、輝宗公相馬へ御弓矢之時分、両度御陣へ参御奉公仕候間、身上別義無、相立下され候様にと仰遣され候付、実元より右之通輝宗公へ申上られ候。政宗公仰せられ候は、相馬御弓矢に御一味も御覚え候。去乍今度大内と一味にて小手森にても先手致され、をうはの内へも勢を籠候て合戦に及び候。在方大内同前の敵に候間、御勝負仕られるべき義仰招かれ候。然りと雖も、種々御侘言に付、左候はば南は杉田川切、北はゆい川切に明渡され、中五ヶ村にて相立られるべく候。其上子息を人質に米沢へ遣わされるべく候由仰渡され候。義継重て仰せられ候は、南成共北成とも一方召上られ、下さる候様にと御侘言候へども、罷成らず候に付、十月六日に輝宗公御陣所宮森へ義継不図御陣参候。

語句・地名など

ゆい川:結川・油井川

現代語訳

一、26日政宗公が小浜の城へ移動なさったところ、二本松の畠山義継から実元の所へ「代々伊達を頼り、家名を続けて居たのだけれども、近年会津・佐竹・岩城が田村と敵対することになった。
私たちも清顕に恨みがあり、会津・佐竹へ味方するようになった」と言った。しかしながら、それぞれ首尾を考え、輝宗公が相馬に戦を仕掛けていた頃、二度陣へ参り、奉公をしたので、家名には問題はなく、続けさせるようにと仰せ遣わされたため、実元からこのように輝宗へ申し上げた。
政宗公は「相馬の戦の時に味方したのも覚えている。
しかしながら、今回大内に味方して、小手森攻めにも先陣にされ、大波内へも手勢を籠城させて合戦に及んだ。ある意味大内と同じように敵であるので、勝負するべきつもりであると仰せになった。
しかしながら、いろいろと侘び言をいうため、そうであるならば、南は杉田川、北は油井川を区切りとして、明け渡し、中の5ケ村にて家名を続けるように、また子息を人質として米沢へ送るようということを言い渡されたのであった。
義継は重ねて「南であっても北であってもどちらか一方を召し上げて、残りはくださいますよう」と侘び言を言ったのだけれども、政宗は許さず、10月6日に義継は輝宗公の陣所宮森へ不意に参上したのです。