[sd-script]

伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』42:大内兄弟との駆け引き

『伊達日記』42:大内兄弟との駆け引き

原文

天正十六年二月十二日片平。阿子島。高玉三ヶ所の人数を以大内備前苗代田へ未明に押懸。古城に居候百姓共百人計相果候。本内主水と申者物主に指置候を切腹致させ放火申され候間。太田荒井の者ども亦玉の井へ引籠候。同二月末大内我等所へ申され候は。去年申合候けんきやう申候而切腹に及び申すべく体に候間。会津への申分に御領地へ事切仕候。此上も免許候て米沢へ御奉公成られくれ候へと度々申され候へども。拙者挨拶申候は。いづ方へも事切申されず候。我等知行所へ事切申され候。本内主水切腹仕候間。我等申次は罷成まじく候。誰ぞたのみ申され然べき由申候へば。右よりの使本内主水親類の者仕候。彼の好身共何も玉の井にさし置境目に候。彼もの共我等に訴訟申候は。玉の井の百姓共二本松右京譜代に候間。草を入申にも告申すべきと機遣申候。其上片平助右衛門御奉公申され候へば。一廉事にも阿子島。高玉持兼申すべく候間。大内兄弟御馳走然るべき由申に付。重て米沢へ小十郎を以申上候処に。苗代田打散事口惜思召れ候へども。片平助右衛門迄御奉公仕るべき由申候間召し出せらるべく候。若助右衛門御奉公仕ず候はば。大内計は召し出さるまじき由御意に候條其通申遣候処に。助右衛門御奉公に落居候間。近所の村四ヶ所望書立を越申され候間申上候。備前には保原を下され、助右衛門には望候所御印判され候。助右衛門申され候は。瀨上丹後御勘当に候。我等聟に仕。名代渡申すべく候由約束仕候條。御赦免成られ候様にと申され候。其通申上候はば。中野常陸親類迄も口惜思召され候間。召出され間敷由御意に候。助右衛門申され候は。左候はば御奉公仕間敷候。御印判いただき申も上置申すべき由申されに付。廿日も事延漸々丹後事御前相済申候間。片倉小十郎も備前助右衛門罷出候を二本松へ罷越待申すべき由我等と申合され候。

語句・地名など

現代語訳

天正16年2月12日片平・阿子島・高玉三ヶ所の手勢で、大内定綱は苗代田へ未明に押しかけた。古城にいた百姓100人ほどが臣だ。本内主水という者が城代をしていたのだが、かれを切腹させ、放火したので、太田・荒井の者たちはまた玉の井に籠城した。
同年2月末、大内定綱が私のところに「去年約束したことがばれ、切腹させられそうになったので、会津への言い訳に、貴方の領地に戦をしかけました。これも許して、米沢へ仕えさせてください」と度々言ってきたのだが、私は「どこへことを起こすのではなく、私の領地へ攻め入り、本内主水は切腹までしたということで、私の取次は無理であるから、だれか他の人へ頼むのがよいのでは」と返した。
するとこの使者は本内主水の親類の者で、かれの親戚たちはみな玉の井にさしおかれていた。かれらは私に「玉の井の百姓たちはいずれも二本松の畠山右京に代々仕えた者たちであるので、草をいれるにしても外へ内通するのではないかと心配しなくてはいけません。そのうえ片平親綱が政宗に従うのであれば、敵地である安子ヶ島・高玉も保ちかねて手にはいるでしょうから、大内兄弟を歓迎するべきであります」と言った。かさねて米沢へ片倉小十郎を使わして申し上げた処、苗代田が討たれたことは口惜しく思うけれども、片平親綱が内応するべきであると思われた。
もし親綱が内応しないのであれば、大内のみでは駄目だということを仰ったので、その通り遣わしたところ、親綱の内応が確定した。近所の村四ヶ所を望む書状を遣わしてきたので、それを政宗に申し上げた。定綱には保原を与え、親綱には望むところを与えると印判状をお与えになった。
親綱は「今勘当になっている瀨上丹後は私の聟にございます。かれを名代にしてくださるようお約束お願いしたく思うので、かれをお許しになってくださいますよう」と言った。
その通り申し上げたところ、中野常陸宗時のことは親類までも口惜しく思い、召し使いたくないと仰せになった。
助右衛門は「申しそうであるならば、奉公することはできない。印判状をいただいたことも上におきます」と言った。
20日もたって、ようやく瀨上丹後のことをお許しになったので、片倉景綱は定綱・親綱が来るのを二本松まできて待とうと私と約束しました。

感想

寝返りを決めているのに、定綱が成実の領地に攻め込むという珍事が起こります。定綱は会津への体裁のためだったという言い訳をしますが、さすがの成実も取りなしを他に頼めといいますが、大内定綱は地の利を理由にしきりに訴えます。
そのことを政宗に伝えたところ、片平の寝返りを以て許しました。
すると二人は中野宗時の乱の際に勘気を蒙り勘当された聟である瀨上丹後をも許してくれないかといってきます。
悩んだ末、政宗は許し、二人の到着を成実と景綱は二本松で待つことになります。
ここらへんの駆け引きは非常におもしろいところです。

『伊達日記』41:大内定綱の望み

『伊達日記』41:大内定綱の望み

原文

天正十五年最上。大崎は御弓矢に候へども、安積表は先御無事分にて候。苗代田。太田。荒井三ヶ所は私知行に候。敵地近候へども御無事に候間。何れも百姓どもを返し在付候。苗代田は阿子ヶ島高玉の敵城に近候間。古城え百姓共を集指置候処に。大内備前我等所へ申され候は。不慮の儀を以政宗公の御意をそむき此如くの体に罷成候。小浜を罷除候時分会津宿老松本図書介跡絶候間。此知行を下され候様に申。会津の宿老に仕るべく候由会津宿老共申候間罷除候処に。扶持をさへ下されず飢に及び死体に候間。政宗公御下へ伺公申度候。少々御知行をも下され召仕さるる候様にたのみ申由申さるる。去りながら唯今ケ様に申上候ても御耳にも入間敷候間。我等兄弟に候片平助右衛門御奉公仕候様に申すべく候間。我等をも御赦免成られ候様にと申せられ候に付片倉小十郎を以右の通申上候に。拙子申上候は。大内備前召し出され、然るべく存候。其子細は清顕公御遠行以来田村主なしにて心々の様に承り及び候。備前本居仕度存。弓矢の物主にも罷成候へば如何に存候。其上片平の地は高玉阿子島よりは南にて御座候間。片平助右衛門御奉公に於いては右の両地持兼会津へ引除申すべく候。左候はば高倉福原郡山は御奉公の儀に候間御弓矢成られ候共御勝手一段能御座候間。備前に御知行を下され召し出され然るべき由申上に付而大内口惜思し召され候へ共。去々年輝宗公死去の砌。佐竹。会津。岩城相談を以本宮へ御働候。此意趣御無念に思し召され候間。御再乱を成さるるべき由思し召され候間。片平御奉公に於いては備前事も御赦免成らるるべき由具に申聞為しむべき由御意に候間。右使仕候者以大内備前へ追而品々申し越らるるべき由申遣候。此儀白石若狭に知らせしめ申さず候はば。以来恨を請候儀如何に存候間。若狭へ物がたり申候処に。若狭申候は。一段然るべく候。塩の松百姓共大内譜代に候間万事に機遣申候。御下へ参られ候へば大慶の由申され候間。我等も左様に存候。米沢へ申上候由申候。然処に備前より申越され候は。彼一儀洩候事迷惑候。会津に於いて其隠れなく申廻候。此分に候はば切腹仕候儀も計り難く申し越され候。拙者あいさつ申候は。別而他言は仕らず候。白石若狭唯今は小浜に申され候間。其方御奉公の品々彼方へ聞こし召さず候ては取成申されず候間物語申候。若狭其口へも存知申され候哉と存候由申越候。其後若狭我等申され候は。大内備前我等を頼罷出度由物語候間。一段然るべく候。誰を以も罷出られ候へば御為能候由挨拶申候。若狭分別には。備前は覚のものに候。田村近居数年。佐竹会津御加勢無く自分弓矢を取候間。度々合戦にも勝候事政宗公御存候間。若塩の松を通下され候儀はからいがたく候間。若狭指南を以御奉公申され候か。左なく候はば会津に於いて切腹もされ候様にと存され告申され候と見へ申候。其故其年中は大内罷出候事相延候。其年の暮大内機遣仕会津を御暇申請。片平へ罷り越され候。

語句・地名など

現代語訳

天正15年最上・大崎とは戦をしていたけれども、安積方面は何事も無く無事であった。苗代田・太田・荒井は私の領地であった。敵の地に近かったのだけれども、無事であったので、いずれの地も百姓たちを村に返していた。苗代田は阿久ケ島・高玉の敵の城に近かったので、古城へ百姓たちを集め、置いておいたところ、大内備前定綱が私の所へ来ていうには、「想定外の出来事で、政宗公のご命令に背き、このようになってしまいました。小浜から退却するとき、会津の宿老松本図書介の後が堪えたため、この知行を私にくださるように仰り、会津の宿老にしてやろうかと会津の宿老たちがいうので、退却したところ、扶持さえいただけず、飢え死にの危機にあります。そのため、政宗公の所へ伺いたく思います。少しの知行をくだされ、召し使っていただけるようお頼み申します。
しかしいまこのように申し上げても、政宗の耳には届かないだろうから、私の兄弟である片平助右衛門親綱も政宗に仕えるようにいいますので、私もお許しくださるようにお願いします」といったので、片倉小十郎景綱を通して、以上のことを申し上げた。私が申し上げたのは、「大内備前を召し抱えるのがよいと思います。というわけは、田村清顕が死んで以降、田村領は主なしの地となり、人の心はバラバラになっていると聞いております。備前が元居たところと思い、戦の当人となったならば、どう致しましょう。その上、片平の地は高玉・安子ヶ島より南にあり、片平親綱が政宗に仕えるのならば、この領地を保つことが出来ず、会津へ退却することでしょう。そうしたら、高倉・福原・郡山はもともと味方であるので、若し戦となったとしても、政宗の思う通りに出来るのではないかと思います。なので、定綱に領地を与え、家臣にするべきではないか」と申し上げたところ、大内に対しては口惜しい思いをさせられたのだが、一昨年輝宗公がお亡くなりになられたとき、佐竹・会津・岩城が語らいあって本宮で戦を起こしたことを大変残念に思われていたので、再び戦を起こすことを考えて居られた。其のため、片平を召し抱えるのならば、定綱のこともお許しになるべきであることを詳しく知らせるようにと仰せになった。このことを使いの者を通して、大内備前へ後から詳しく申し付けるということを言って返した。
このことを白石若狭宗実に知らせなかったとしたら、これから恨みをもたれるであろうと思ったからである。宗実へ語ったところ、宗実は「そうするべきだと思います。塩松の百姓たちは大内氏譜代のものであるので、すべてのことに気遣いが必要です。政宗の配下になるのであれば、とてもよいでしょう」と仰ったので私もそう思い、米沢へ申し上げたことを言いました。
すると定綱よりいってきたのは「このことがもれて大変なことになっています。会津においても全部ばれて伝わっております。この調子では切腹させられるかもしれません」と言ってきた。
私は返答として「私は他言していない。白石若狭宗実は今小浜にいるのでおまえが政宗に寝返るのであれば、その詳細を隠していては取りなすこともできないので話したのである。若狭が会津方へも知らせたのかもしれない」ということを知らせた。その後若狭宗実が私に「大内備前定綱は私を頼みに政宗に寝返りたいと言っていたので、それがよいと思った。誰を介してでもこちらに付くのならば政宗の為によいと対応した」と言った。
若狭は、備前は名に覚えのある名将であるので、田村に近く住まいして数年、佐竹や会津の加勢無く自分で戦を取り仕切ってきたので、合戦にも強いことを政宗公は御存知であるだろう。もし塩松を下されることは難しいとおもわれるので、若狭の手引きで寝返ると思ったのだろうか。
そうでなければ、会津にて切腹されるかもしれないようだと思って知らせたように思える。
その年中は大内の御目見得は延期となり、その年の暮れに大内は心配して会津から暇を乞い、片平の地へ引っ越した。

感想

大内・片平兄弟の伊達への内応について書かれています。政宗は大内に対し複雑な感情を抱いていたようですが、成実が定綱の手腕を買って説得していたことがわかります。また、親綱が支配している片平の地の地の利も考慮にいれていたようです。
ここで少し白石宗実と成実の間で一悶着があったことが書かれています。『政宗記』でもこのことは書かれているのですが、少し調子が変わっています。ちょっと成実も気にしているようす…。

『伊達日記』40:月舟斎のその後

『伊達日記』40:月舟斎のその後

原文

黒川月舟逆心故、大崎の御弓矢思し召され候様に之無きに付き、内々月舟を御退治成られ、大崎へ御働なるるべきと思召候へども、佐竹、会津。岩城、石川、白川打出本宮迄働候間、大崎御弓矢に取組れ候はば、亦彼大名衆御出馬たるべき由思し召され、指置かれ候。其翌年仙道の御弓矢勝利を得られ、候て会津迄御手属せしめらる。関東の御弓矢に思し召され候間、大崎の事は御言にも出られず候。然る処に葛西。大崎。木村拝領申され候間、月舟。伊達上野所へ懸入御訴訟申上られ候儀。月舟逆心故諸軍勢打死仕候而。是非月舟首を召し上げらるべく候由仰出られ候。秋保の境の玄蕃に相渡され候。上野米沢へ参られ大崎にて月舟恩賞を以浜田館宮内我等迄身命相助候。我等親子に候間旁我等知行一宇召上げられ月舟命相助けられ候様にと頻に申上らるに付き、上野介首尾に相談られ玄蕃手前より上野請取利府へ帰られ候。其後月舟にも堪忍分下され仙台にて御屋敷を下され、御前へも折々に罷出られ候。八森相模は桑折城にて月舟へ強異見申候由聞召され候。其上政宗公の御指小旗の紋を其身の紋に仕候故。深口惜思召され、小国へ遣わされ、上郡山民部少に相渡され、相模妻子共に死罪に行われ候。

語句・地名など

現代語訳

黒川月舟斎の逆心ゆえに、大崎との戦をお考えになられたとは思えない。うちうちに月舟斎を退治され、大崎へいくさを行うべきであると思っていらっしゃったけれども、佐竹・会津・岩城・石川・白川が出発し、本宮まででてきたので、もし大崎との戦に取りかかるのならば、またかの大名たちが出陣してくるだろうと思われ、そのままにしておかれていた。
その翌年、仙道での戦で勝利し、会津まで手に入れられ、関東への戦を考えるようになられたので、大崎のことは御言葉にもでないようになった。そうしているうちに、葛西・大崎を木村伊勢守吉清が拝領した。そのため月舟斎は伊達上野介政景の所へかけいり、助けて欲しいと訴えた。
月舟斎が反逆したため沢山の兵が討ち死にしたので、政宗公は月舟斎の首をはねるよう政景にい、、秋保の境野玄蕃に預けなさった。
政景が米沢へ来て、「大崎にて月舟斎のおかげで浜田・館・宮内や自分が命が助かったのである。私たちは親子であるから、私の知行をすべて召し上げられてもよいので月舟斎の命を助けてくださいますよう」と何度も申し上げたので、政景の事情を鑑みて、玄蕃の所から政景は月舟斎を引き取り、居城の利府へお帰りになった。
その後月舟斎にも堪忍分を下されるようになり、仙台にて屋敷をいただくようになり、政宗の元へもときどき呼ばれるようになった。
月舟斎の伯父である八森相模は桑折の城にて月舟斎へ無理に意見をしたことをお聞きになり、そのうえ政宗の使っておられる小旗の紋を自分の紋にしていたので、政宗は深くいまいましく思ったため、西置賜の小国へ送られ、相模の妻子ともに死罪になった。

感想

月舟斎が助けられたその後の話が書かれています。その後政宗から呼ばれたりしていた模様。

『伊達日記』39:氏家弾正の死

『伊達日記』39:氏家弾正の死

原文

一氏家弾正親三河、子共にも違大崎義隆へ奉公仕、名生の城に居候。城をいだき義隆へ奉公仕候。政宗、弾正にも御疑心の間度々起證文を上異義無き由申上候。聞召届けられ候故、御横目に小成田惣右衛門を申請候処に弾正病死仕られ候。岩出山の城主同前に小成田申付られ候処に、関白秀吉公小田原へ御発向、大崎、葛西を木村伊勢守拝領仕られ候間、小成田も罷帰候。

語句・地名など

現代語訳

一、氏家弾正の親、氏家三河も弾正と不和になり、大崎義隆へ奉公していた。名生の城に居た。城を大事に思い、義隆へ奉公していた。
政宗は、弾正にも疑いの心を持っていたので、何度も起請文を上げさせ、納得するよう申し上げた。お聞きになったが、目付として、小成田惣右衛門重長をおつかわしになったところに、弾正が病死したため、岩出山の城主として小成田惣右衛門が命令を受けたのだが、関白秀吉公が小田原へ出陣し、大崎・葛西を木村伊勢守が拝領したため、小成田も戻った。

感想

『伊達日記』38:長江月鑑斎の死

『伊達日記』38:長江月鑑斎の死

原文

一深谷月鑑は相馬長門小舅に候。下新田に於いても月鑑手前の者共玉無鉄炮を打候由政宗公聞召され、深谷は大崎境に候。相馬へも縁辺逆意の儀尤の由思召され、秋保摂津守に預置かれ切腹仰付けられ候。

語句・地名など

現代語訳

一、長江月鑑斎晴清は相馬長門義胤の小舅であった。下新田での合戦においても、月鑑の軍勢は弾をこめずに鉄砲を撃っていたということを政宗公はお聞きになった。
居城の深谷は大崎との境にあり、相馬との縁が深く、反逆を行うのも尤もであると思われ、秋保摂津守定重という者の所に預けられ、切腹仰せ付けられた。

感想

『伊達日記』37:最上義光について

『伊達日記』37:最上義光について

原文

一義顕公。政宗公伯父にて候へども、輝宗公御代にも度々御弓矢に候。然共近年は別而御念比に候。義顕公大事の人にて洞にて大臣兄弟両人共に切腹仰付られ候。政宗公二本松塩の松御弓矢強。佐竹、会津、岩城、石川、白川迄御敵に候間、此時右の大名衆仰合され伊達へ弓矢を取、長井を御取成らるべく思召され候処に、結句大崎にて伊達衆負、泉田安芸守を最上へ相渡さるべきに候間、此砌米澤への事切を思召され、最上境に鮎貝藤太郎と申者仰合され、天正十五年三月十三日鮎貝手切仕候。政宗公聞召され時刻を移候はば成間敷候間、即御退治成らるべき義仰出され候。家老衆申上られ候は、最上より加勢之有るべく候。其上又も最上へ申寄候之在るべく候條、様子ご覧合わせられ御出馬然るべき由申され候へども、左様に候はば米澤を御出候事成まじく候間、是非鮎貝を御退治成らるべき由御意候而御出馬候処に、最上より一騎も御助これなく、鮎貝最上へ加勢乞候へども相助けられぬ上、政宗公御出馬候由承られ、則最上へ引除申され候間長井子細なく候。

語句・地名など

義顕→義光

現代語訳

一、義光公は政宗公の伯父であるのだが、輝宗公の時代にも、たびたび戦になっていた。しかし近年は特に親しくしていた。
義光公はめったにない人であり、親戚の中で、大身の家臣や兄弟二人ともに切腹をさせていた。
政宗公が、二本松・塩松での戦を無理にも行い、佐竹・会津・岩城・石川・白河まで敵になってしまわれたとき、このときこれらの大名は言い合わせをして、伊達へ戦をしかけ、長井を取ろうと思われたところ、あげく大崎の戦で伊達軍が負け、泉田安芸を最上へ渡さなくてはいけなくなった。なのでそのとき米澤との関係を切ろうと思われ、最上との境に鮎川藤太郎という者と言い合わし、天正15年3月13日、鮎貝は手切れを行った。
政宗公はこれをお聞きになり、時間が経ってしまえば、できなくなるだろうから、すぐに退治をするべきであると仰った。
家老達は最上より加勢があるであろうといい、その上また最上へ言い寄っているようでもあるので、様子を御覧になって、合わせて出馬するのがよいのではないかと仰ったのだが、そうすると、米沢を出立することができなくなるのではないかと、是非鮎貝を退治するべきではないかと思われ出馬なされた。すると最上から一騎も援軍がこなかったため、鮎貝は最上へ加勢を請うたが、それも援軍がなかったので、政宗公が出馬したのを知り、すぐに最上へ退いたため、長井は問題なくなったのである。

感想

成実の最上義光への当たりが強いのはネットなどでも最近広まってきましたが、読んでいても、たしかに義光への反感は感じます。しかし何故そんなに毛嫌いしていたかがわからない(敵対していたからという理由もあるかもしれないですが、逆に成実はずっと敵であった大内兄弟の仲介はしているのです)のですが、ここの文では、家臣や兄弟までを殺したことについて、「大ごとの人」(めったにない人。大変な人)という形容で語られています。
同じ部分、『政宗記』では「以ての外なる悪大将」となっています。
ホントになんででしょうね?