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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』46:田村家の内情

『伊達日記』46:田村家の内情

原文

一天正十四年霜月清顕公御遠行以来。三春の城に御北様御座成られ候。万事の差引田村月斎。同梅雪。同右衛門大夫。橋本刑部少。此四人に候。其比は政宗公御夫婦間然無く候。内々御北様御うらみに思召され候。月斎。刑部少は縦御夫婦間然無く候共。政宗公を頼入らず候ては田村の抱成まじき由分別に候。梅雪。右衛門大夫は御北様。相馬を頼みいり。政宗公へ違候ともくるしからざる由分別申され候上は。伊達をたのみ入候様にて底意は相馬へ申寄られ候上は。をしなべて伊達御奉公の様にて月斎方梅雪方と申様にて候。然処ろに大越紀伊守と申もの田村一家にて義胤にはいとこに候。田村に番の大名に候。此者相馬へ申合内々からくり仕候。其外にも田村中に相馬の牢人城を持候ほどのもの四五人も御座候。一番の大名梅雪が子田村右馬頭と申候て小野の城主に候。是も相馬へ申合られ候。ある時月斎刑部少。若狭物がたり申され候は。大越紀伊守相馬へ申合逆心歴然に候間。大越を抱由申され候。其通米沢へ申上られ候処に政宗より我等所へ御状を下され御用候間使を一人為登申べき由仰くだせられ候間使上申候処に。大越紀伊守を相かかへ度由月斎。刑部少申上られ候。無用之由御意なされ候へども。若不図相抱候はば田村の急事に成るべく候。田村は二頭を引立御持成らるるべきと思召候に月斎つのり候事もいかが。紀伊守は其方を以御奉公だてを申上候間。油断申さず候様に知らせしめ申候間しかるべき由仰下され候。兼て我等家中内ヶ崎右馬頭と申紀伊守に念比に候。紀伊守より使に大越備前と申もの右馬頭所へいく度もまいり候條。大越備前を指越さるるべき由紀伊守所へ申遣候。即備前まいり候間田村の様子相たづね腹蔵無く物がたり申候て。政宗公仰越され候通申理べき由存候て。備前に会申たづね候へども。一円かくし候て申さず候條。大事の儀直にいかがと存候。右馬頭に其様子物がたりに致させ候。備前まかり帰候てより紀伊守三春へ出仕を止。城に引籠罷出ず候間。田村四人の老衆よりつかいを立。いか様の儀を以罷出ず候。存分候はば申べき由申理られ候処に。始は何角と申候が頻りに子細をたづねられ候間。成実より三春へ出仕申されず候はば相抱えらるるべく候間。出仕無用之由しらせ候間。罷出ぬ由申され候に付て。我等所へ四人衆より右の品々申越され候間。我等あいさつには。田村の御内何角六ケ敷候間。如何様にも相静られ候やうにと存候。争左様の儀申すべく候哉と返答申候。四人衆より紀伊守へ我等返答の通申越れ候処に。必内ガ崎右馬頭を以知らせしめ申さるる由申に付。かさねて我等所へ其通申越され候條。我等あいさつ申候は。右馬頭にたづね申候へば紀伊守久しく懇切に御座候。世上にて紀伊守逆心成られ候か。相抱られ候儀も成がたく候由我等異見に申候。成実より申され候とは申さず候。大越備前承違にて之有るべき由申候と返答申候へば。左候はば右馬頭と備前と対決致させ然るべき由承候條。備前相だされ候はば右馬頭も指越申すべき由申候條。三月初めに鬼生田と申所へ大越備前罷出候由申越候間。田村より検使御座候歟と相たづね候へば。検使は参らず候よし申に付て検使之無く候はば右馬頭出し申間敷由申候間。大越備前も罷帰候。そののち田村へ拙者つかいを越申。此間右馬頭出申すべく候へども検使を差そへられず候間。右馬のかみ出し申さず候。かさねて備前に検使を差そへられ相出され然るべき由申に付て。田村衆も満足申され。検使両人備前に差そへ鬼生田へまかり出候間。右馬の頭も相出し申候。備前は貴所を以成実御理には。三春へ出仕申間敷由しらせ候よし申され候。右馬頭は御存分ちがい候はば御出仕御無用の由申候に。御出仕なくば逆心御くはだてと相見え申候。ただ今にも御存分違ひ申さず候はば御出仕之有るべく候。三春にて御相違は之有る間敷由申候て埒も付かずまかり帰候。かやうに御洞六ヶ敷候故おのおの打寄伊達をたのみ入べく候哉。いかやうに申すべきと相談候処に。常盤伊賀と申もの御相談に及ばず候。清顕公御死去の砌御名代は政宗公へわたし申され候間御思案も之無く候。去りながら各御分別次第の由申候條。誰も別て申出べき様之無し。何も尤の由申され落去申候。されども上は伊達へ付内は相馬へ引候衆過半候。子細は田村に牢人衆の表立候衆多分相馬衆に候。梅雪。右衛門大夫内々は相馬をへ申合され候間相馬牢人衆と申組られ候。牢人傍輩の由申候て仙道。佐竹。会津の牢人も梅雪。右衛門大夫へ念比に候。其様子石川弾正本傍輩にて存前に候。当座清顕公御意を以政公へ御奉公申候へども。末々は身上大事に存其上御<此末くさりて文字見えず。写さず候。>

語句・地名など

現代語訳

一、天正14年11月、田村清顕がお亡くなりになって以来、三春の城は奥方がいらっしゃった。すべての采配は田村月斎・田村梅雪・田村右衛門大夫・橋本刑部少輔の四人がとり仕切っていた。
この頃政宗とめご姫夫婦のあいだは良く無かった。こっそりと田村の北の方はこれを恨みに思われていた。月斎・刑部少輔はたとえ夫婦仲が悪くとも、政宗をたよらずには田村の仕切りが成りたたないということをわかっていた。梅雪と右衛門大夫は北の方が相馬を頼み、政宗と敵対してもかまわないと思っていたので、表向きは伊達を頼っていたが、本心は相馬と内通していた。しかしだいたいの家臣は伊達に仕えるという者が多く、月斎方と梅雪方と言っていたという。
そこに大越紀伊守という田村一族の者で、相馬義胤の従兄弟にあたる者がいた。田村に詰めていた大名であった。この者は相馬と言い合わせ、秘密裏にいろいろと仕込みをしていた。その他にも田村の中に、相馬の牢人で、城を持つほどの者たちが、4,5人もいた。一番の大名である梅雪の子、田村右馬頭といって、小野の城主であった。これも相馬と語らって内通していた。
あるとき、月斎と刑部が、若狭に語ったところによると、大越紀伊守は相馬と話し合い、反逆するであろうことは歴然なので、大越紀伊を生け捕りにするようにと言った。
そのとおり米沢の政宗へ申し上げたところ、政宗から私のところに、書状が来て、用があるので、遣いをひとり米沢へ登らせるように仰られたので、遣いを送ったところ、大越紀伊を召し捕らえたいと月斎と刑部少輔は申し上げた。それはしなくていいとお思いになったのだが、もし急に捕らえたならば、田村にとって急ぎのよくない事態になるだろう。田村は二派に分かれて成り立たせるべきとお思いに成り、月斎がいいつのってもそうしないように言った。それというのも、紀伊は月斎を理由に奉公をしているのであって、油断せずに知らせて、しかるべきであると仰せになった。
以前から私の家来で内ヶ崎右馬頭という者が、紀伊守と懇意にしていた。紀伊よりの使いには、大越備前という者が右馬頭のところに何度も来ていた。大越備前をこちらへ使わすように紀伊へ申し伝えた。すぐに備前が来たので、田村の様子を聞き、腹の内までもすべてを話会い、政宗が仰った通りに言わねばならないと思い、備前に会って尋ねたのであろうが、すべて隠して、言わなかった。なので、大ごとの話は直にいうのはよくないかもしれないと思い、右馬頭にその様子を知らせさせた。備前は帰って以降、紀伊守は三春への出仕をやめ、城にひきこもって出なくなったので、田村の4人の家老衆は使いをたてて、何があって出てこないのか、思ったことがあるのならばそれを話すようにと言ったところ、はじめはなんのかのと言っていたが、何度も詳細を尋ねられたので、成実より三春へ出仕しなければ、捕らえられるので、出仕は無用であるということを知らせたので、出仕しない理由を言った。なので私の所へ4人衆から以上の詳細を言ってきたので、私は、「田村の家中は何かと難しいので、どのようにしても鎮まれるようにと思っている。どうしてそんなことを私が言うでしょうか」と返答した。4人衆から紀伊へ私の返答の通り言って聞かせたところ、必ず内ヶ崎右馬頭を通して知らせてくるだろうと思うので、ふたたび私のところへその通り言ってきたので、私が返したのは、「右馬頭に聞いたので、紀伊は長くとくに親しくしている。世間において、紀伊が裏切るだろうと言っているのだろうか。そのような状態ならば捕らえられるということもないだろうと私たちは言ったが、成実から言ったとは言わなかった。大越備前の勘違いだろう」と返答したところ、そうであるならば、右馬頭と備前とを対決させるべきであると言ってきた。
備前を出されたのならば、右馬頭も使わすと言ったので、3月初めに鬼生田とというところへ大越備前が来たと知らせがきたので、田村から検分の使い来たかと尋ねたところ、使いは来ないということだった。使いがないというのなら、右馬頭を出すことはできないと言ったところ、大越備前も帰った。
その後、田村へ私の使いを送り、このことで右馬頭を出すべきであるけれども、使いを付き添わせなかったので、右馬頭を出さなかった。再び備前に検分の使いを添えられ出すべきであると言うので、田村の衆も満足し、検分の使いを二人備前に着けて鬼生田へ出てきたので、右馬頭も送りだした。備前は身分の高い方を通して成実に言ってきたのは、「三春へ出仕しない理由を知らせたことを言った。右馬頭は考えが違うのであれば、出仕しなくてもよいと言ったところ、出仕しないのであれば、反逆を企てていると思われるであろう。今も思っていることが違うのであれば、出仕するべきである。三春において、諍いはないであろう」と言っても、らちもつかなかったので、帰った。
このように、御親戚のあいだのことは難しいため、それぞれが伊達を頼りにしているのだろうと思われた。どのように言うべきだろうと相談していたところ、常盤伊賀と言う者が「政宗に相談する必要はないでしょう。清顕公がお亡くなりになったとき、名代を政宗に任せるよう仰ったのであるのだから、考えることもないことです。しかしながらそれぞれ思うところによってこのようになっているのでしょう」と言ったので、他の者たちは特に言うことがなかった。みなもっともであると言い、去った。
しかし、表面上は伊達へ付き、中では相馬へ付いている者が半分を越えていた。詳しいことは田村に牢人衆の表だった者たちはおそらく相馬方であると思われた。
梅雪と右衛門大夫は本当のところは田村へ申し合わせていたので、田村の牢人衆と組まれていた。牢人は中迄あると言い、仙道・佐竹・会津の者も梅雪・右衛門大夫へ親しくしていた。
そのようすを石川弾正はもともと同僚であったので、前もって知っていたのだろう。とりあえず清顕の石により政宗へ奉公していたけれども、将来は身上を大事に思い、其の上……(この後くさって文字が見えないので写しませんでした*1

感想

その当時の田村家の内情が書かれています。
政宗とめご姫の夫婦仲がよくなかったこと、そのため北の方が相馬を頼ろうとしていたこと、そしてそれに合わせて家中が二つに割れていたことが書かれています。
「かやうに御洞六ヶ敷」このように親戚衆のことは難しい、と書いているように、成実の目にも南奥羽の親戚衆との渡り合いが難しいことであったことがわかります。興味深いです。

*1:と写本者がかいています

『伊達日記』45:石川弾正について

『伊達日記』45:石川弾正について

原文

一四月十五日に石川弾正。西と申所白石抱の内草を入。其身も罷出しこみに居候。早朝に内より一両人罷出候ものを打候。城中より出合候処に弾正助合戦へ追入取付責候。鉄炮しきりにきこへ候間。白石若狭助合候而弾正見合引除候処へ懸付合戦候て若狭勝。頭二十計打取申候。我等も二本松にて鉄炮を承早打仕候へども。遠路故をそく候而罷帰候処へかけ付候。若狭よろこび候て宮森へよせ申され馳走申され候てまかり帰候。此石川弾正と申者本塩の松の主久吉と申大名の家中にて候。大内と傍輩に候。久吉沙汰悪家中共相談仕押出候。備前親その比伊達を頼入候石川弾正親田村を頼入候。其以後伊達御洞弓矢の砌。備前も田村を頼入御近所に居申され候間。別て御奉公仕候処に。片平助右衛門家中と田村右馬頭家中と岩城へ御弓矢の自分野軍に於いて喧嘩仕候。右馬頭家中を御成敗成られ候やうにと申上られ候へども。御合点なきに付御恨に存ぜられ。翌年より会津佐竹を頼入御弓矢に罷成候。石川弾正は相替ず田村へ御奉公仕候。左候へども政宗公塩の松を御取なされ候間。石川弾正知行皆塩の松の内に候。田村さへ御名代相渡され候間。弾正も知行に付政宗公へ御奉公仕候様にと清顕公御意にて相付られ候者にて候。その外にも寺坂山城。大内能登。彼是四五人へ本久吉家中田村へ御奉公仕り候ものを相付られ候。其もの共は若狭□に相付られ。弾正一人直に召遣られ候。本領一へ一へのごとくに返下され候。

語句・地名など

久吉→塩松尚義

現代語訳

一、4月15日に石川弾正、西という白石若狭宗実の領地の中に草を入れた。弾正自身も出てきて仕込みに出てきた。早朝に中から二人出てきた者を打ち取った。城の中から出会ったところに弾正は助け、合戦へ追いこみ、取り付け、攻めた。鉄炮の音がしきりに聞こえたので、白石若狭は助勢し、弾正と見合わせ、退いたところへ、駆けつけて合戦し、白石若狭が買った。頭を二十ほど打ち取った。
二本松で鉄炮の音を聞き、急いで出立したのだが、遠かったので、遅くなり、退却したところへ駆けつけた。白石若狭は喜んで、宮森へ私を呼び、歓待され、帰った。
この石川弾正という者は、塩松の城主塩松尚義という大名の家中であった。大内定綱と同僚であった。塩松尚義は政治の取りしきりが悪かったため、家中一同で相談し、追い出した。
大内備前定綱の親はその頃伊達を頼み、石川弾正の親は田村を頼っていた。その後伊達で親戚同士の戦があったとき、大内備前も田村を頼って、近い所であったので、特に奉公していたところ、片平助右衛門親綱の家中の田村右馬頭清通家中とが、岩城への戦のときに陣中において喧嘩をした。右馬頭家中を成敗して下さるようにと申し上げたのだが、合意しなかったので、恨みに思い、その翌年から会津と佐竹を頼んで、田村と戦になった。石川弾正は相変わらず田村に奉公していた。が、政宗が塩松をお取りになったので、石川弾正の知行はみな塩松の中にあった。田村さえ名代を渡されたので、弾正も知行について、政宗へ奉公するようにと清顕の命令で付けられた者であった。その他にも寺坂山城・大内能登を初め、かれこれ4,5人のもともと塩松尚義に仕えていた者たちは田村へ奉公することになった。かれらは白石若狭の配下に付けられ、弾正だけ一人直接召し仕えられた。本領はもとのように返された。

感想

石川弾正がどういう人かということが書かれています。

あけましておめでとうございます

もう5日ですが、皆様如何お過ごしでしょうか。
昨年は政宗公に続き、成実公生誕450年ということでいろいろなイベントに参加することができ、大変たのしい一年でした。今年も楽しく歴史オタク生活を送っていければと思います。
今年もよろしくお願い致します。

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亘理の海から登る朝日を眺めて(注:初日の出ではありません)
更新履歴の2018年分を履歴にいれましたが、2018年はがんばってましたね…一昨年が酷かったのか。

本年中はお世話になりました

今年は成実公生誕450年ということで、いろいろなイベントが各地でありまして、花火やお祭りなど参加できないものもありましたが、北海道伊達市での能『摺上』の上演、南相馬での展示、亘理の展示と回ることが出来、とても楽しい一年を過ごせました。貴重なものが見られたり、意外な記述を見つけたり。
また来年も、できたら再来年も、しばらくの間は伊達伊達言っていることと思います。
今年は昨年に比べると文字打ちや現代語訳も進めることができまして、来年もこんな感じで続けていければと思います。
ではもうあと少しですが、よいお年を。

『伊達日記』44:定綱の御目見得

『伊達日記』44:定綱の御目見得

原文

同年三月廿三日玉の井の合戦過帰候処に。大内備前。片平助右衛門罷出られ候を相待べき由申され候。片倉小十郎二本松に逗留申され候処に。かち内弾正申大内備前甥。小十郎所へまいり候而。備前今夜本宮へ参られ候。明日は助右衛門事切申すべき由申に付。小十郎同心本宮へ罷越。備前に六日の朝会申候所に備前申され候は。助右衛門も御奉公仕るべき由堅申合候処に。少の儀出来兄弟間に罷成。我等に腹を切らすべき由申に付而漸罷除候而参候由申候。惣別助右衛門は御奉公仕間敷覚悟にて候て。備前身上の為ばかりを以御奉公とは申され候哉。大内参られ候上は助右衛門も御奉公仕られ候か。唯には在間じく候。兄弟の分別ちがいに候小十郎と両人の噂を申候。大内罷出られ候に。無人数成共一働申さず候而は如何に候間。阿子島へ働申候へども内より一人も罷出ず候。此方よりも仕るべき様之無く引上。翌日又働申候処に。塩の松の内に居候石川弾正相馬へ注進仕。白石の知行の内へ事切れ仕火の手見へ候間。白石はかへり申され候。我等小十郎ばかり働き候へども何事なく打上候。小十郎は八日に大森へかへり申され候。備前米沢へまいり御目見え申度由申され候條。我等家中遠藤駿河と申者指添米沢へ相登らせしめ候。

語句・地名など

現代語訳

同天正16年3月23日玉の井の合戦が終わり、帰ってきたところに、大内備前定綱と片平助右衛門親綱がくるのを待つようにといわれたので、片倉小十郎景綱が二本松に逗留していたところ、鍛冶内弾正という、定綱の甥が、小十郎の所へやってきて、定綱は今夜本宮へ来る。明日は親綱が会津と手切れをすると言ったので、小十郎を連れて本宮へ行きました。6日の朝定綱に会ったときに定綱が言うには「親綱も内応することは堅く約束していたのだが、少し兄弟の間で問答になった。私に腹を切らせようと言った野で、急いで逃げてきたのですと言った。親綱は内応しない覚悟で、定綱の身だけを以て奉公すると言った野でしょうか。定綱が来たのですから、親綱も奉公することでしょう。ただ今はできないと言った。兄弟の考えの違いについて、小十郎と二人の噂を話した。
定綱が出てくるのに、手勢がないとしても、一働きもしないのはどうだろうかと思ったので、安子ヶ島へ働いたのだが、うちからひとりも出てこなかった。こちらからするべきことがなくなったので、引き上げた。
翌日また出陣したところ、塩松のうちに居た石川弾正が相馬へ知らせた。白石の領地のうちへ戦闘を仕掛け、火の手が上がった様子だったので、白石宗実は帰った。私と小十郎だけが動いたけれども、何事も無く、切り上げた。小十郎は8日に大森へ帰った。定綱は米沢へ来て、御目見得したいと言ったので私の家臣の遠藤駿河という者を付けて米沢へ行かせた。

感想

定綱と親綱の間に兄弟で問答になり、まず定綱が伊達に奉公するようになりました。

『伊達日記』43:高玉太郎左衛門の戦い

『伊達日記』43:高玉太郎左衛門の戦い

原文

天正十六年三月一二三日頃我等抱の地玉の井高玉より山ぎはに付て西原と申候。四五里玉の井よりへだたり候所へはいくまを越候処に。玉の井の者ども無調儀に遠追候間。又草を入罷出候を見申候て押切を置討取たくみを仕。三月廿三日に玉の井近所に高玉に山路御座候。矢沢と申処へ草を仕るべき由相談候。其砌迄は大内片平御奉公には究候へども。味方への事切は申されず候時に候間。片平阿子島の人数高玉へ廿二の晩相談候。兼て敵地に申合。草入候はば告申すべき由候に付而指置候者。廿二日晩本宮へ参り候而今夜玉の井へ草入候由告申に付て。我等もまかり出本宮玉の井人数を以て廿三日朝車さかしを申候処に草も参らぬよし。いつはりに候哉と申引除候処に。昼はいに二三十人玉の井近辺迄まいり候間出合候。二三十の者ども引上候間。たいと渡と申所にて追付合戦仕候。前日遠は出申候にならい。矢沢の小森のかけに人数二百ほど隠れ。押切にあてがい申合戦初申候所より引懸申すべき由存候哉。敵そろそろと除口に成候。玉の井の者共敵の足とあしく存候而強懸候間。敵崩候間足並を出し除候。押切のもの共待兼候而早出候間。切られず候へども味方崩。合戦の初には川柳押付られ候間二三人打たれ候処に。味方川にて相返高玉太郎左右衛門両陣間を乗候処に。志賀三郎と申もの我等歩小姓兼て鉄炮を能うち申候が。川柳に鉄炮を打かけ相待候処に。太郎左衛門小川を隔横に乗返候処を二つ玉にて打候間。一の玉は馬の方のもみ合に当。一つの玉は太郎左衛門臑にあたり候。馬倒候間。某に味方きをひかかり候間敵方引除候。太田主膳と申もの大功の者後殿を仕候間敵もくずれ申さず候が。小坂迄乗上候処を三郎上矢に打候間。鞍の後輪を打欠犬子所へ打出候。主膳うつむきに成其身の小旗を抜き弟采女にささせ。我等除候はば必大崩申すべく候間。我等に成かはり後殿仕物別させ候へと申付。引除候而頓而越度申。此草調儀は高玉太郎左衛門。太田主膳物主にて仕候間。両人除候間則崩追討に首百五拾三取申候。大勢打申べく候へども山合にて地形あしくちりぢりに逃申候條少打申候。其夜宿へ帰らぬ者も候由後承候。右の頭の鼻を欠米沢へ上申候。

語句・地名など

現代語訳

天正16年3月12,3日ごろ、私が支配していた玉の井、高玉より山際に西原というところがあった。そこは玉の井から4,5里離れていたのだが、はいくまを越えたところに、玉の井の者太刀は調儀することなく、遠くへ追いすぎたので、また草を入れ、出てきたのを見て、高玉の者たちは押し切りを置き、打ち取ろうと企んだ。
3月23日に玉の井の近くに高玉への山道に、矢沢という所に草を入れることを相談した。その頃までには大内・片平の内応は決まっていたのだけれど、味方への手切れはしていなかったので、片平・安子ヶ島の手勢で高玉へ、22日の夜に評定を行った。かねてから敵地であったので、草を入れたとしたら、知らせを送るだろうから、差し置いた者が22日の夜本宮へ来て、告げたので、私も出陣して、本宮・玉の井の手勢を以て、23日朝車さかしをしたところ、草も来なかった。情報が間違っていたのかと思い、戻ったところ、昼過ぎに、2,30人玉の井の近辺まで敵が出てきたので、私たちも出た。2,30の者太刀は引き上げたので、たいと渡という所で追い付き、合戦になった。
遠く出たのに倣って、矢沢の小森の陰に200人ほどの一が隠れていて、押し切りに見せかけ合戦始まったところから、引き返すべきかと思ったのだろうか。敵はそろそろと退却を始めた。
玉の井の者たちは敵の足と間違えて強いて追い掛けたので、敵は崩れ、足並みを外れ、退いた。押し切りの者たちは待ちかねて早く出た。切られはしなかったけれども味方は崩れた。合戦の初めには川柳まで押しつけられたので、2,3人打たれたところに、味方側に返し、高玉太郎左衛門が両陣の間を乗ってきたところに、志賀三郎という鉄炮に優れた私の徒小姓が川柳に鉄炮を打ち掛けようと、待ちぶせところ、高玉太郎左衛門が小川を隔てて横に乗り換えしたところを、2つの玉を当てた。1つは馬の肩のもみ合いにあたり、もう一つの玉は太郎左衛門の臑にあたった。馬は倒れたので、味方は活気づいて盛りかえしたので、敵は退却を始めた。太田主膳と言う名の知れた対称が殿を務めたので、敵も崩れずに居たのだが、小坂まできて乗り上げていたところ、三郎がもう一度上に向けて撃つと、馬の鞍の後輪をうちかけ、犬子の所へうちだされ、主膳はうつむきになってそのみの小旗を抜いて弟の采女にささせ、私がいなければ必ず大崩れするであろうから、私に成り代わって殿を行い、戦を終わらせよと言い、退却させた様子はとてもよかったと人は話した。
この草調儀は高玉太郎左衛門と太田主膳が仕組んだ者であり、二人とも居なくなったので、すぐに崩れ追いかけて討つと首153取った。大勢打ち取れるような状況であったが、山間であって、地形がよくなく、ちりぢりに逃げ出したので、多くは撮れなかった。其の夜宿へ帰れなかった者もいたことを後で聞いた。このとき打ち取った頭の鼻を削って米沢へお送りした。

感想

いつも強引に訳していますが、今回ははいくま・昼這い・たいと渡・犬子など、意味がとれない言葉が多くて、うまく訳せなくて申し訳ございません。『政宗記』でもここは出てくるのですが、不明としている語がいくつかあります。難しい…。
『政宗記』では2つの弾丸は、1つは高玉太郎左衛門の腰に、1つは馬の肩のねりあいという場所にあたったと記されています。